思考実験35 :「五感」は、本来は「一感」だった-- 共感覚が教えてくれる、世界の見え方
コラムNo. 57, ”物質宇宙”と”精神宇宙”を1枚の紙に描く
「五感」は、本来は「一感」だった?
― 共感覚が教えてくれる、世界の見え方 ―
私たちは、小さい頃から当たり前のように教わります。
目は色を見る。
耳は音を聞く。
鼻は匂いを嗅ぐ。
舌は味を感じる。
皮膚は温度や硬さを感じる。
これらをまとめて「五感」と呼びますが、今更ではありますが本当にそうなのでしょうか。
少しだけ、世界を見渡してみます。
音は耳だけで感じているのでしょうか。
ーーーーーーーー実はそうではありません。
私たちは骨でも音を感じています。
さらに、低い振動になると、皮膚や身体全体でも感じています。
ライブ会場で大音量の音楽を浴びたとき、「聞いた」というより、「身体で感じた」と表現する人も多いでしょう。
では光はどうでしょう。
光は目で見るものです。しかし、可視光線より少し波長が長い赤外線になると、私たちはそれを「赤い光」としてではなく、「温かい」という皮膚感覚として感じています。
少し不思議に思います。
同じ「波」の仲間でありながら、あるものは色になり、あるものは温かさになる。その境界は、本当に世界の側にあるのでしょうか。
さらに、不思議な人たちがいます。
「共感覚(シナスタジア)」を持つ人です。
ある人は、音を聞くと色が見えると言います。またある人は、数字を見ると、それぞれに決まった色や質感、時には味まで感じると言います。
さらに絶対音感を持つ人は、ピアノの音だけではありません。
雨音やエンジン音、食器がぶつかる音まで、「ド」「ファ♯」「ラ」と音名を伴って聞こえることがあります。
現在の脳科学では、これらは脳内ネットワークの結び付き方や幼少期の学習によるものと説明されています。これは有力な科学的説明です。
しかし、疑問が浮かぶのです。
1, 私たちは、本当に最初から「五感」で世界を感じているのでしょうか?
少しだけ歴史を振り返ってみます。
ニュートンは、プリズムによって白色光を七色に分けたことで知られています。ところが彼は、それだけでは終わりませんでした。
「色と音楽には、共通する数学的な美しさがあるのではないか。」
そう考え、七色と音階を対応づけようと試みています。
この対応関係が現代科学で証明されているわけではありません。現在では、歴史的に興味深い試みとして紹介されているにすぎません。
また、古代ギリシャのピタゴラスは、惑星の運動にも音楽と同じ美しい整数比が潜んでいると考え、「天球の音楽」という思想を残しました。
これも惑星が実際に音楽を奏でているわけではありません。しかし、人類は何千年も前から、
世界は本当にバラバラなのか。
もっと深いところでは、一つにつながっているのではないか。
そんな疑問を抱き続けてきたのではないでしょうか。
2, 赤ちゃんは、最初に何を感じているのでしょう?
生まれたばかりの赤ちゃんは、
「赤」という色を知りません。
「ド」という音も知りません。
「丸い」という形も知りません。
もちろん、「甘い」「悲しい」という概念も知りません。では赤ちゃんは、何を感じているのでしょう。
最初から世界を、「音」「色」「形」「味」という別々の感覚として受け取っているのでしょうか。
それとも、まだ名前の付いていない、一つのまとまりとして受け取っているのでしょうか。
そして成長するにつれ、
「これは音」「これは色」「これは形」と、少しずつ学びながら、世界を整理しているのかもしれません。
3, 「五感」は、編集された世界?
ここから先は、私の思考実験です。
もともと一つのまとまりとして存在していた世界の情報を、私たちの身体(調節器や感覚器)が受け取り、それを脳編集というフィルターを通して、「音」や「色」や「形」へと、生きるために都合よく切り分けている。
そう考えることはできないでしょうか。
つまり、私たちは「世界そのもの」を見ているのではなく、私たち自身が行った、「編集された世界」を見ているのではないか、という事です。
そうすると、共感覚という現象に対しても少し違った見方が出来ます。
共感覚を持つ人は、「音が色になる人」ではありません。
私たちとは少し違う編集のしかたで、世界を受け取っている人なのかもしれません。
脳編集は、「0」か「1」のスイッチではなく、連続したグラデーションなのだと思います。
私たちでは「音」と「色」がきれいに切り分けられている。
しかし共感覚では、その境界が少しだけ重なっている。
だから、一つの情報から、音も色も同時に立ち上がる。
共感覚とは、「特殊な能力」ではないのではないでしょうか。
むしろ、私たちが当たり前のように行っている脳編集という営みを、逆に教えてくれている現象なのかもしれないのです。
4, 「五感」は、本来は「一感」だった?
前回のコラムでは、「悲しみセンサー」は体のどこにも存在せず、多くの身体情報が積み重なることで、「悲しい」という概念が立ち現れることを考えました。
今回の思考実験は、その視点を一歩進めてみました。
もし「悲しい」が編集された概念なら、「丸い」も編集された概念かもしれません。
そして、「音」「色」「匂い」「味」「温かい」
という感覚そのものも、また、編集された概念なのかもしれません。
私たちは、世界を五つの感覚で受け取っていると思っています。
しかし、見方を変えれば、
一つの世界を、五つの感覚へ翻訳して理解しているだけ
なのかもしれません。
「五感」は、本当に五つなのでしょうか。
それとも私たちは、一つの世界を理解するために、「五感」という便利な道具を発明しただけなのでしょうか。
もしそうだとしたら、「五感」とは世界の性質ではなく、人間の認識方法に過ぎない事になります。
