【掌編小説】熱帯夜を握りつぶす
熱帯夜で寝付けないのだろうか。
冴子は汗ばんだ腕で、枕元の読書灯をつけた。
時計の針は午前一時を指していた。
タオルケットを跳ね除け、立ち上がる。
壁のスイッチを押し、部屋の明かりを点けた。
一瞬、視界が白く弾けたが、すぐに目は眩しさに慣れた。
デスクの上には、人型の入道雲が右手で太陽を掴んでいる描きかけのラフ画が置かれたままだった。
悶々とした気分のままエアコンのスイッチを入れると、吹き出し口から吐き出された冷風が、濡れた皮膚を撫でていく。
風呂場へ向かい、頭から冷水シャワーを浴びた。
汗を洗い流し、火照った体を冷ましてから、冷気の満ちた部屋でもう一度ベッドに横になる。
それでも、眠れない。
胸の奥に渦巻く不快なモヤモヤは、冷水を被っても晴れてはくれなかった。
むしろ、再びじっとりと熱を帯びてくる。
――今日、ネットで注文していたハンドメイドのトートバッグが届いた。
高鳴る胸を抑えてダンボールを開け、中身を取り出した瞬間、冴子は愕然とした。
糸は曲がり、持ち手は左右で微妙に長さが違う。縫い目もところどころ飛んでいる。
普段、一本の線の乱れにも敏感な冴子には、この縫製を見逃せなかった。
時間がなかったのか、忙しかったのか。焦って仕上げた跡が伝わってきた。
このクリエイターから作品を買うのは、これが初めてではない。これまでにもポーチやブックカバー、ランチョンマットなど、いくつもの品を購入してきた。落ち着いた色合いの中に、さりげなく遊び心を忍ばせたデザインが好みに合っていた。そして、一つひとつに丁寧な仕事が感じられ、手作りならではの温かみと、既製品にはない特別感が大好きだったのだ。
それなのに、今日届いたトートバッグからは、作り手の雑さしか伝わってこなかった。
下手ならまだ許せる。試行錯誤や誠意の末の不器用さなら、愛嬌として受け入れられた。
けれど、この仕上がりを前にしては、客をなめていると思わずにはいられなかった。
たまたまかもしれない。でも許せなかった。
作り直しをお願いしようか。
返品の手続きをしようか。
このクリエイターからは二度と買わないことにしようか。
いっそのこと、レビューにクレームを書き込んでしまおうか――。
そこまで考えた瞬間、冴子の背筋に冷たいものが走った。
怒りは、一瞬にして別の恐怖へ姿を変えた。
クライアントから依頼を受け、締め切りに追われながら納品している自分の絵。SNSに投稿し、楽しみにしてくれているフォロワーたち。彼らもまた、自分が描くイラストに対して同じことを思っているのではないか?
「最近のイラスト、下手になったわけじゃないけど……なんか、雑だよね」
熱帯夜の暑さのせいだと思いたかった。
けれど、違った。
冴子を覚ませているのは真夏の気温などではなく、暗闇の中から首筋を撫でてくる、この名付けようのない不安だった。
エアコンの冷風が効いているはずの部屋で、じわりと嫌な汗が噴き出してくる。
一度浮かんでしまった疑問は、もう消えてはくれなかった。
――締め切りを言い訳に、線を流してはいないか?
――見栄えのいいエフェクトで、デッサンの狂いを誤魔化していないか?
――塗りの工程を、ルーティンワークのようにこなしてはいないか?
――細部のごまかしを自分の味だと言い張り、妥協していないか?
――私は本当に、一筋の線にまで愛を込めて描いていると言えるのだろうか?
自問自答の泥沼にはまり込み、悶々と不毛な思考を巡らせているうちに、ふと気づけばカーテンの隙間が白み始めていた。
外は朝を迎えても、頭の中の熱帯夜はまだ終わっていなかった。
ベッドから起き上がり、カーテンを開けた。
デスクに向かい、ペンを握った。
差し込む朝の光の中で、ラフ画の入道雲はまだ太陽を掴んでいるだけだった。
冴子は、太陽を掴む手を、握りつぶす手に描き直した。
あとがき
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
本作は #シロクマ文芸部 さんの企画 #熱帯夜 に参加させていただいております。
小牧幸助さま、お手間をおかけしますがよろしくお願いいたします。
素敵なお題を有難うございます。
