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三島由紀夫【なぜ切腹までしたのか】ラジオの中の主役

はじめに
この記事はYouTubeで私が配信している、【ラジオの中の主役】チャンネルの原稿をもとにした話になります。睡眠時、移動中の合間、通勤中の時間、作業時など時間があるときに聴いて頂ければと思い、色々な偉人の人生録を配信しています。15分前後の短い時間で偉人の人生が出来るだけ分かるよう制作しています。良かったら聴いて頂ければ嬉しいです。

全人物の再生リストになります。クリックして好みの人物がいれば、ぜひお時間あるときに視聴してみてください。

宣伝ですみません。以下からが本編になります。
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三島由紀夫【なぜ切腹までしたのか】

※本作品には、史実や作品設定をもとにした制作者の考察・解釈が含まれます。

冒頭コメント
今回の主人公は、作家・三島由紀夫です。
祖母の部屋に閉じ込められた少年が、言葉で世界を作り、筋肉で体を作り直した。文学の頂点に立ちながら、なぜ、命を絶ったのか。
それでは前半です。

前半
ある少年は、生まれてからずっと、部屋の中にいた。外で遊ぶことを禁じられ、男の子と走り回ることも許されなかった。遊び相手に選ばれたのは、年上の女の子だけ。少年は女の子の遊びをして、女の子の話を聞いて、育った。その少年の名前は、平岡公威。

後に、三島由紀夫と名乗り、日本文学の頂点に立つ男だ。三島由紀夫、本名・平岡公威は1925年、東京に生まれた。祖父は樺太庁長官を務めた平岡定太郎。父は東京帝国大学を出た農林省の官僚。母は漢学者の家柄。どこから見ても、絵に描いたようなエリート家庭の長男だった。

しかし生後まもなく、この家の長男の人生は普通の軌道を外れ始める。祖母の夏子が、三島を母親から引き離したのだ。夏子は元々、華族の血を引く気位の高い女性だった。病弱な孫をこの手で育てると決め、三島を自分の部屋に引き取った。母は別の部屋にいる。

しかし三島が会えるのは、決まった時間だけだった。剣道もスポーツも禁止された。外の空気も、ほとんど吸わせてもらえなかった。祖母の部屋が、三島の世界のすべてだった。その狭い世界の中で、三島が手にしたのが本だった。源氏物語、西洋文学、物語。

読んで、また読んだ。
孤独な部屋の中で、少年の想像力だけが、どこまでも広がっていった。学習院の初等科に入ると、今度は別の問題が待っていた。体が弱く、運動も苦手な三島は、同級生からいじめの対象になった。外の世界はどこへ行っても、三島には居場所がなかった。しかし文章を書くことだけは、違った。

12歳の頃には短編小説を書き始め、学校の文芸誌に次々と作品を載せた。16歳のとき、三島は短編集、花ざかりの森を書いた。それを読んだ文壇の大家、川端康成がこう言った。将来必ず大成する、と。天才の予言は当たった。

東京帝国大学の法学部に進んだ三島は、1947年、22歳で卒業と同時に大蔵省に入った。しかし三島にとって、役所は本来いるべき場所ではなかった。わずか9か月で大蔵省を辞め、作家として生きることを選んだ。父は激怒した。しかし三島は止まらなかった。

1949年、24歳で発表した仮面の告白は、戦後文学の新星として三島の名前を広めた。1954年の、潮騒、1956年の、金閣寺。作品を出すたびに評価は高まり、三島由紀夫という名前は日本文学を代表する存在になっていった。

ノーベル文学賞の候補に何度も名前が挙がるようになったのも、この頃だ。
しかし三島の内側では、文章を書くことへの疑問が、静かに育ち始めていた。

言葉だけでは、足りない。
そういう感覚だったと、三島はのちに書いている。
1955年、30歳になった三島は突然、ボディビルーを始めた。
祖母の部屋に閉じ込められ、運動を禁じられて育った体を、根本から作り直すことにした。

細く、弱く、文学だけの体を、筋肉で覆い直そうとした。三島はこのことについてこう語っている。肉体とは思想である、精神の外側に現れた、もう一つの表現である、と。ボディビルで体を作りながら、三島の関心は文学から行動へと移っていった。

1961年、三島は短編小説、憂国を書いた。二・二六事件の際、反乱軍を討たざるを得なくなった陸軍中尉が、切腹する話だ。

三島はさらに1966年、この作品を自ら監督し、主演映画として撮った。その映画の中で、三島は自分自身が切腹するシーンを演じた。凄惨な場面を、三島は身をもって表現した。これは演技だったのか。それとも後に重なる何かだったのか。

映画を見た人間の中には、背筋が寒くなったという者もいたという。1967年、三島は陸上自衛隊に体験入隊した。剣道の稽古を積み、武道の世界に本格的に足を踏み入れた。作家の顔が、少しずつ武人の顔に変わっていった。

そして1968年、三島は盾の会という組織を作った。自衛隊を補佐する民間の防衛組織という名目だったが、実質は三島が率いる独自の組織だった。

学生を中心とした若者が集まり、訓練を重ねた。この頃の三島を知る人々は、口をそろえてこう言っている。何かに向かって、急いでいるように見えた、と。

同じ時期、三島は豊饒の海という大長編の執筆を進めていた。春の雪、奔馬、暁の寺、天人五衰。全4巻からなる、三島のライフワークだった。

盾の会の訓練と、大長編の執筆が、同時に進んでいた。作品を完成させることと、別の何かを準備することが、三島の中でひとつにつながっていたとしか、思えない時期だった。

前半コメント
祖母の部屋で育った少年は、言葉で世界を作り、筋肉で体を作り直し、そして組織を率いて、どこかへ向かっていた。9か月で官僚を辞め、30歳で肉体を鍛え直し、ついには盾の会を作った男。文学だけでは足りないと考え始めた三島は、どこへ向かおうとしていたのか。その答えはこのあとの後半で。

後半
1970年11月25日の朝、三島由紀夫は一本の電話をかけた。相手は担当編集者だった。

豊饒の海、第4巻、天人五衰の最終原稿を、その朝に届けた。10年かけて書き続けたライフワークの最後のページを渡し、三島はそのまま、市ヶ谷へ向かった。

作品を完成させてから、動いた。それが三島由紀夫という人間だった。

事件の前日、三島は盾の会のメンバーたちと、最後の打ち合わせをしていた。その席で三島はこう言ったと伝えられている。

俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を、と。

1967年に自衛隊へ体験入隊してから、三島はずっとその日を待っていた。
自分が理想とする日本の姿が実現する日を。しかし三島が望んだような変化は訪れなかった。三島は自分が動くことを決めた。

11月25日の朝、三島は盾の会のメンバー4人とともに、市ヶ谷駐屯地に入った。総監室に日本刀を持って押し入り、東部方面総監を人質にとった。そして、全自衛官を本館前に集合させるよう、要求した。

正午、三島はバルコニーに出た。眼下には千人近い自衛官が集まっていた。三島はマイクなしで叫んだ。男子の本懐とは何か、日本の魂とは何か、憲法を変えろ、と。

しかし階下からは、罵声と笑いが返ってきた。帰れという声が聞こえた。茶番だという声も聞こえた。三島の言葉は、風の中に散っていった。

それでも三島は10分間、叫び続けた。演説を終えた三島は、静かにバルコニーを離れた。

総監室に戻ると、三島は上着を脱ぎ、腹に刀を当てた。介錯を務めたのは、盾の会のメンバー、森田必勝だった。しかし森田の一太刀では、首が落ちなかった。三度振るっても、うまくいかなかった。別のメンバーが引き継ぎ、ようやく介錯が行われた。

45年の生涯が、そこで終わった。森田必勝も、その後に続いた。

報道は瞬く間に広がった。ラジオが伝え、テレビが映像を流した。日本中が、そして世界が、信じられないものを見た。

ノーベル文学賞候補として世界的に知られた作家が、自衛隊の駐屯地で切腹した。

三島の死を聞いた川端康成は、長い沈黙の後に、こう言ったとされている。
三島さんに、死なれてしまった、と。その言葉は、多くの人の記憶に残った。

三島が遺した言葉の中に、こういうものがある。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るのであろう、と。

戦後の日本が豊かになっていく中で、三島が失われていくと感じたものがあった。それが何だったのかは、人によって受け取り方が違う。

しかし三島がその感覚のために動いたことは、誰も否定できない。三島の辞世の句はこうだ。散るをいとふ、世にも人にもさきがけて、散るこそ花と吹く小夜風、と。

毎年11月25日、三島の命日には憂国忌という集まりが開かれている。没後50年以上が経った今も、三島の作品は世界中で読まれ続けている。英語、フランス語、ドイツ語。各国の言葉に訳された三島の文章は、今も新しい読者を生み出し続けている。

祖母の部屋に閉じ込められ、女の子の遊びをして育った少年は、言葉で世界を作り、筋肉で体を作り直し、最後は死をもって何かを表現しようとした。

それが成功だったのか失敗だったのかは、今も答えが出ていない。

ただ、あのバルコニーで笑われながら10分間叫び続けた男が、静かに総監室に戻っていった姿だけは、見た者の記憶に残り続けた。三島由紀夫、45年の生涯でした。

最後コメント
文学を書き続けながら、行動することをやめなかった男の話でした。彼が何を残したのか。その答えは、今も読み継がれる作品の中にあるのかもしれません。また次回の主役でお会いしましょう。

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ラジオの中の主役|残念なYouTube そんな・・・嬉しいです。今うつ病発症して無職で頑張っているので応援よろしくお願いします。これからも頑張ります。娘の幼稚園代に使わせていただきます。感謝です(涙)