イヤリング作家を目指すまで
計画ゼロからの船出
鳥取大学大学院の修士課程を終えようとしていた頃、私には世間一般でいう「就職」という選択肢が頭の中になかった。できることなら、このまま博士課程に進み、研究者の道を歩んでいきたい。それが私の夢だった。
しかし、夢だけでは生きていけない。学部から大学院まで、親に頼り続けてきた。「これ以上、迷惑はかけられない」。親から「修士までしか援助できない」と言われていたこともあり、私の研究者への夢は、ここで静かに終わりを告げた。
だが、何をしたらいいのか全くわからない。就職活動もしてこなかったし、特に心を惹かれる仕事もなかった。
ふと、頭に浮かんだのは、農業高校時代の恩師たちの顔だった。もともと農業高校出身で、ざっくりと「農業に関わる仕事がしたいな」という気持ちが心の片隅にあったのだ。
そう思い立ち、私は先生になるための道を探った。教員免許は持っていなかったし、生徒に直接教えるのは難しいと感じていた。座学より実学の方が好きだったこともあり、先生をサポートする「実習助手」になるための採用試験を受けることにした。
しかし、普通教科、特に数学と英語が苦手だった私は、その採用試験にものの見事に玉砕しました。聞き馴染みがないかもしれませんが、実習助手とは、授業で使う道具の準備や、温室・農場の管理など、先生のサポートをする専門職です。
採用通知はなし、その道すら、かなわなかった。
卒業後の進路が決まらないまま、卒業式だけが刻一刻と迫ってくる。とはいえ、私自身に焦りはなかった。まずは地元・山形に戻り、そこからゆっくり自分の道を探そう——。そうのんびり構えていた、ある日のこと。一本の電話が鳴った。
「うちで働きませんか?」
あまりのことに、心臓が跳ね上がった。電話の主は、県の採用担当の方だった。私が試験に落ちたことを知った上で、臨時採用として声をかけてくれたのだ。卒業したら山形の実家に戻り、そこから働き口を探そうと思っていた私にとって、それはまさに「渡りに船」だった。
「はい、お願いします!」
こうして私は、無事に卒業後の進路を確保し、2018年の春、18歳で離れた山形の実家へと帰ってきた。
母校という名の職場で
就職先は、私が3年間を過ごした母校だった。6年の月日が経っていたが、お世話になった先生方のほとんどが残っていて、そこには懐かしく、そして温かい空気が流れていた。
私が最初に任されたのは、草花部門の担当だった。温室で授業で使う花苗を育てたり、校内の花壇を整備したりする。幼い頃から植物が好きだった私にとって、そこは最高の居場所だった。自分のペースで黙々と仕事ができることが、何よりも嬉しかった。
ただ、最初は生徒との距離の取り方に戸惑った。年齢が近いこともあり、やたらと懐いてくる子もいれば、どこか不信感を抱いているような子もいた。それでも、日々の授業や実習を通して真摯に関わっていくうちに、少しずつ信頼を得られるようになったと感じている。
気さくに話をしてくれる先生方、屈託のない笑顔で「先生!」と声をかけてくる生徒たち。この仕事が、この場所が、私は好きだった。
理想と現実の分かれ道
しかし、実習助手の仕事は、自分の専門分野だけではない。部活動の顧問や、様々な校務分掌の仕事も当然のように割り振られる。そして私は、なぜか「吹奏楽部」の顧問になった。
中学時代、確かに吹奏楽部に所属していた。だが、それは過去の話。譜面を読むのは今でも苦手だ。専門の音楽の先生が主顧問としていたため、私はほとんどお任せ状態で、指導らしい指導など何もできなかった。
平日は農業の仕事があるため、部活に行ける時間は限られていた。その代わり、休日の練習には顔を出すようにしていた。それでも、生徒と何を話せばいいのか分からず、正直に言えば、部活に行くのは少し苦痛だった。
そんなある日、私は同じ部の先生に職員室に呼び出され、こう怒鳴られた。
「給料泥棒!」
なるべく部活には参加しているつもりだった。しかし、他の2人の顧問の先生から見れば、私の働きは不十分で、不満が募っていたのだろう。職員室に響いたその一言は、私の心に深く、そして鋭く突き刺さった。
あまりにも、苦い思い出だ。
そして、新たな航海へ
母校での目まぐるしい1年が過ぎた頃、私は転勤を命じられた。次の勤務先は、総合高校。その高校の中にある農業コースの担当になるという。
そして、転勤と同時に私に与えられた新たな役割は、「副担任」と「生徒指導課」。
心地よかった母校を離れ、私はまた、新しい航海に出ることになる。
この続きは、また明日お話ししますね。
