君たちはどう生きるか ネタバレ考察|壊れた心が「物語」によって再生するまで
「君たちはどう生きるか」について「意味が分からなかった」「他のジブリ作品に比べて難解である」と言った感想をよく耳にする。
私は上映期間中に劇場で鑑賞したのだが、拍子抜けするほどすんなり懐に落ちる作品だった。それは自分の理解力が優れていると言った話ではない。
「当事者として心当たりがありすぎる話」だと感じたからだ。
その「心当たり」というのは音楽や映画、本、芸術といった創作物に命を救われた経験である。

「これは自分の個人的な解釈に過ぎないかもしれない」と思いつつ友人達に考察を話すと「君たちはどう生きるかの考察で1番納得できた」と言われ、暫く時が経ってから偶然流れてきた宮崎駿のインタビューを見て「自分がこの作品に抱いた感想や解釈は、少なくとも間違いではないかもしれない」と思った。
また、精神疾患に対するケアやその視点を鮮やかに描いた本「異界の歩き方」にも本作に通じるものがあると感じ、こうした視点を含めて個人的な解釈に基づく考察をまとめてみたくなった。(以外ネタバレ含む)
「塔」は生き延びるための「内的世界」

映画や音楽、本といった創作物に命を救われた自分から見たこの映画における「塔」とは、苦しい現実世界を生きるために主人公が一時逃げ込んだ「物語」であり、それを通した「内的世界」の象徴であった。
そもそもこの作品は主人公の「内的世界」を可視化した作品であることを念頭に置いてみなければ、「意味の分からない映画」になり得てしまうかもしれない。そういった意味で「劇中劇」的な演出がこの作品の大部分を占めているといっても過言ではないだろう。
こうした解釈を前提としてまずは内的世界に導かれる前、「主人公が直面する現実世界」の冒頭のあらすじを簡単に振り返りたい。

時は戦時中、主人公の眞人(まひと)は戦争中の事故により母を亡くす。
直接的な原因ではないものの母の命を奪った「戦争」を行う兵器を作り金を儲ける父、更にそのマッチョイズム的な支配。
戦争の道具を産み出した金で潤った生活、剃らずに許される自分の長い髪、対照的に労働に明け暮れ髪を剃った同級生たち。
更に、母を亡くした心の傷も癒えぬままに突然現れた母に瓜二つの実妹でもある「新しい母」の存在、その腹に宿る新しい命。
眞人にとってこうした「現実」は到底受け入れられるものではなく、心は悲しみや怒りや憤りで混乱を極めていたに違いない。
そんな状況の中で眞人が心の拠り所としたのが、愛する母が遺してくれた「本の中の物語」だったのだと思う。
どうしようもない苦しい現実から一時逃れ、癒され、大切なものに気づくための「塔」という物語や時間が彼には必要だった。
眞人にとって本の世界に逃げ込むこと=物語を通して自己の内的世界と繋がり、自己と対話をし、自己を再建し、再び現実の世界へと歩み出すプロセスであったのだと思う。

それは「本を読みすぎて頭がおかしくなった」と言われた塔に籠った大叔父も、失踪の一年後に塔からケロッと出てきた幼い頃の母も同じだったのではないだろうか。
つまり母親も眞人と同じように心に傷を負ったことで現実世界に背を背け、本のなかにある物語=「塔」に逃げ込んだ経験があったのだと思う。
(少し話はズレるが本を積み上げるとまるで「塔」のような存在感を放つことを読書好きな人達なら共感していただけるとも思う。)
深く心に傷を負い、現実から逃避し、「現実ではない世界に逃避する」ことで内的世界と深く向き合い自己を取り戻すこと。
この一連のプロセスが人生においていかに重要な意味を持つかを身をもって経験した母だからこそ息子に「沢山の物語」を遺したのだろう。
これは本という物語を通して母から子に受け継がれる「通過儀礼」とも言えるかもしれない。
外的世界(現実)で生活している人々から見れば「塔」の中に逃げ込んでいる状態の人達は「引きこもり」であり、心に病を患った「病人」かつ社会から断絶された存在であるという認識しか持てないかもしれない。
だが、当事者にとってそれはただの逃避ではなく、心の中の深い自己対話により自己を再発見する心の旅の過程であることも忘れてはならない。
こうした外的世界と内的世界を「本の中にある物語」を使って巧みに描き出したのが本作であると思う。
このような心の過程については宮崎駿も「崖の上のポニョ」に対するインタビューで近しい感覚を語っている。
1人になる時間がいるんですよ。人の渦の中にいますからね。だから本当に1人になって単純な生活をしてると、随分回復してくるんです。単純な生活っていうのは、自分でご飯を食べて、洗濯をして、歩いて、またご飯を食べて、ゴソゴソと何かを読んで、また寝て、また起きてっていうのを延々繰り返していくと。で、なるべく知らない場所の方が良いんです。(中略)追い詰められてる時の方が風景はキレイに見えますから。追い詰められてると神経がそのまま空気に触れるようになってくるんですよ。
心が壊れた状態から「元の状態に戻る」ことを目指すのではなく、破壊と再生を経て「新たに生まれ変わる」ことによってこそ再び現実世界で生きる選択ができる。こうした心の動きは前述した書籍「異界の歩き方」でも詳しく解説されているので、「君たちはどう生きるか」という作品をより深く味わいたい方に是非読んでいただきたいと思う。
作品そのものが私たちの人生の「劇中劇」

この映画にはもう1つ仕掛けがある。
それは「君たちはどう生きるか?」というこの映画そのものが、私たち鑑賞者にとっての「塔」の役割を果たしているということだ。
ここで映画のラストシーンを思い出してみよう。
物語を象徴する「塔」はひとつだけだが、外に出る扉は無数に存在しており、扉によって繋がる世界も変わる。
これはまさに「君たちはどう生きるか?」という「塔」の中に入った私たちが、映画館の扉を開け、さまざまな時代、国、暮らし、事情を抱えたそれぞれの現実世界に戻っていく姿に重ならないだろうか?
(物語と現実の境界線は、塔の中でキャラクター性を持っていたインコたちが扉から出た途端、糞を撒き散らかす「現実のインコ」に変化するといった演出にも分かりやすく表現されていると感じる。)
この作品を観て感じたこと、受け取ったことを胸にそれぞれが「どう生きるか?」という現実に地続きになった問いが、私たちの人生に向けられる。
つまりこの映画自体が私たちの人生における「劇中劇」なのである。
大叔父が「塔」から出てこないのは、そのまま「物語」を作る側、引いては「塔」の中の「物語の創造主となった」宮崎駿自身の姿そのものかもしれない。
また、本作は今までのジブリ作品のセルフオマージュ的な演出も多々見受けられ、宮崎駿作品の総集編的な一面を持ちつつも、「創作への初期衝動」を長年のキャリアを積んだ彼が再構築したような作品であるとも感じた。
その意味では、今後のジブリやアニメ制作の後継者たちに自分の亡き後「君たちは世界をどう描くか?」と投げかける意味も重ねて持たせているのかもしれない。
劇中の大叔父の台詞「世界をもっと美しく、穏やかに」導く責任の一端を担っていると言う意味でも。
テーマとしてはある意味すごく私小説的で地味な作品とも言えるが、同時に「物語」が人生に与えてくれる意味を知る人々にとって深く心に刺さる作品でもあると感じた。
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