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短編小説|ガキの水たまり

#シロクマ文芸部
#水たまり

ガキの水たまり
(5800字くらい)


水たまりの中には、時空を超える力を宿すものがある。ボクはそれに気がついてから、いろんな時代を飛び越えられるようになった。

どんな水たまりでもいいわけじゃない。湿った土地にあって、なかなか干上がらない水たまり。それでいて、大きさはごく小さなもの。そういう場所に溜まった水に、どうやら不思議な力が集まるみたいだ。

ボクはもともと、天安とか貞観と呼ばれる時代にいたのだけれど、なんともひどい世の中だった。人々は常に飢え、街のあちこちには餓死した人たちの屍が転がっていた。まぁ、ボクもそれに近い存在なのかもしれないけれど。

前世でどんな悪いことをしたのかは知らないけど、ボクはいつもお腹を空かせていた。食べ物はめったに手に入らないし、運よく何かを口にできたとしても、なぜかお腹が膨れることは決してなかった。

そんなこの世の終わりのような世界が嫌になった頃、ボクは街外れの沼地で見つけた、水たまりのような深みに飛び込んでみた。思ったよりも深かったようで、ボクの体はどんどん沈んでいった。

意識が遠のいていく。このまま死ぬのだろうか、いや、もう死んでいるのだから、二度死んだら生き返るのかも……そんなことをぼんやり考えているうちに、気がつくとボクの顔は水面から出て、見知らぬ景色の中にいた。

ボクの体が浸かっていたのは、やはり湿地のような場所だった。けれど、周りにはまったく人の気配がない。どうやらかなり高い山の上にいるようだった。時折、霧がさらりと晴れると、遥か遠くに小さな村らしきものや、川、そして海が見えた。

その湿った高地には、小さな水たまりが点々と広がっていた。その中の一つが、遠く離れたあの時代の沼と繋がっていたらしい。

水たまりを通って違う世界に来たものの、ボクの飢えは相変わらずだった。見慣れない草や背の低い茂みは生えていたけれど、食べられそうな植物はどこにも見当たらなかった。

ある日、ボクがその高地をあてもなく歩いていると、ボクによく似たヤツと出会った。

「よう、この辺りで見かけない顔だな。最近来たのか?」

そう声をかけられたので、ボクは答えた。

「うん。こないだ、あっちの池に飛び込んだらここに辿り着いたんだ。ここは綺麗で落ち着く場所だね」

「そうかい? でも、ここには結局食えるようなもんなんてないぞ。オレはここの小さな池でイネを育てようとしてみたんだが、まったく育たないんだ。だからずっとお腹を空かせたままさ」

「そうなんだ。でも、イネを育てようなんて、人間みたいなことをしているんだね。そんなこと、ボクは思いつきもしなかったよ」

「オレは前世から、どうもコメが食べたくて食べたくて仕方がなかったようなんだ。だから、こんな姿になってしまっても、ついイネを育てようとしてしまう。だけど、どうしても育たないんだよ」

「人間たちに、うまい育て方を聞いてみたらどうだい?」

「こんな山深くまで来る人間はめったにいないよ。それに、あいつらがイネの上手な育て方を知っているとも思えないな。もし知っていたら、あんなに飢えに苦しむこともないだろうに」

「それはそうかもしれないけど……。育てられない植物を何度も育てようとするなんて、君がなんだかかわいそうだよ」

「あぁ、自分でもなんでこんな無駄なことを続けているのかわからない。きっと前世の報いなんだろうな。君は、どんな報いを受けているんだい?」

「ボクはいつも腹が減って苦しいのに、何を食べてもお腹がいっぱいにならないんだ。あと、たまに水の中に飛び込みたくなる衝動に駆られる」

「そうか。もし、この沼地でイネを育てる方法がわかったら教えてくれよな」

「わかったよ」

そう言って、ボクは彼と別れた。

ボクは来る日も来る日も、その湿った高原をさまよい続けた。食べられるものがないとわかっていても、歩き続けることがボクの宿命のようだった。お腹は常に空いていて、じりじりと苦しかった。

そんなある日、ボクはまた、一つの水たまりの中に頭から飛び込んだ。理由はわからない。ただ、そうせずにはいられない衝動に駆られたのだ。

ボクはまた、水の深く、深くへと沈んでいった。
次に気がついたとき、ボクはまた別の山の中にある、湿った沼の水面から顔を出していた。

その山にも深い霧がかかっており、斜面には水たまりのような小さな池が点在していた。しかし、さっきまでいた場所とは決定的に違うところがあった。人間たちがたくさんいたのだ。

人間たちは、山の斜面に作られた遊歩道のような道を、ぞろぞろと列をなして歩いていた。彼らは時折足を止め、斜面の水たまりを見つめながら、列の先頭に立つ人間の言葉に耳を傾けている。

「ただの水たまりだと思うかもしれませんが、これは『ガキの田』と呼ばれるものです。高地の湿原に見られる小さな池沼で、専門的には池塘(ちとう)と言います。昔の人は、ここには餓鬼と呼ばれる不思議な生き物が住んでいて、ここでお米を作ろうとしているのだと考え、だから『ガキの田』と呼んだそうです」

どうやらこの山では、人間たちがこの池のことを詳しく知っているようだった。ボクは思わず、その話に聞き入ってしまった。

「なぜ、こんな小さな水たまりなのに水が干上がらないのですか?」

別の一人の人間が質問した。

「泥炭(でいたん)という、泥のような地質がポイントですね。枯れた植物が分解されないまま、長い年月をかけて堆積した土壌で、水をたっぷりと含んでいます。この層は湿原の斜面をゆっくりと滑り落ちているのですが、場所によってその速度が違うため、裂け目のような部分ができます。そこに水が溜まったのが池塘です。周りの泥炭がたくさんの水分を蓄えているので、池が乾きそうになると、まわりからどんどん水が供給されます。水がそこに溜まるというよりは、水をたっぷり含んだスポンジの一部に割れ目ができ、そこへ周囲の水がじわじわと滲み出ている、というイメージが近いかもしれませんね」

詳しい仕組みはよくわからなかったけれど、この人間はなんでも知っているようだった。ボクは夢中になり、自分の姿が見えないことも忘れて声を張り上げた。

「どうして、この池ではイネが育たないのですか?」

「おや、今どなたが質問されましたかね。まぁ、いいでしょう。このような池塘で実際にお米を育てた人はいないと思いますが、昔の人は、地獄の餓鬼道に落ちた亡者たちが、飢えをしのぐためにこの山上の田んぼで米を作らされているのだと考えたようです。実際、こうした池塘には『腐植酸』という植物由来の酸が溶け出すため、水質が強い酸性になります。これではイネのような普通の植物は育ちません。植えても植えても実らない虚しい労働を強いられている、という昔の人の見立ては、あながち間違っていなかったのかもしれませんね」

どうやらボクは、以前いた世界からかなり年月が経った未来へと辿り着いてしまったようだった。ボクはさらに質問を重ねた。

「そうですか……。そんなガキたちはかわいそうですね。なんとかして、こういう池でイネを育てることはできないのでしょうか? イネを育てたいと言っているトモダチがいるんです」

人間の男は不思議そうな顔をして首を傾げていたが、すぐにまた穏やかな表情に戻って説明を続けた。

「そうですね……。やはり水はけが悪すぎると作物は育ちませんし、酸性も大敵です。ですから、まずは周りの水を抜くための排水路を作り、それから石灰などを入れて土壌を中和させる、といった地道な改良が必要になるでしょう。しかし、令和になった今でも、そんな作業をここでやるのは気が遠くなるほど大変だと思いますけどね」

「わかりました! ありがとうございます!」

「お役に立てたならよかったです。今日の弥陀ヶ原ツアーには、なんだか小さな男の子のような声の方も参加されていたのですね」

その人間は微笑むと、また列を率いて斜面の遊歩道を下っていった。

ボクはいいことを聞いたと思った。一刻も早く彼がいる時代に戻って、今教えてもらったことを伝えたかった。

ボクは高原の斜面にいくつもある小さな水たまりのような池を見比べた。どの池に飛び込めば元の世界に戻れるのか、見分けはつかなかった。そこに決まったルールなどないように思えた。考えていても始まらない。ボクは衝動に突き動かされるまま、一つの水たまり――さっき教えてもらった「チトウ」へと飛び込んだ。

次にボクの頭が水面から出た先は、さっきの場所とも、その前に彼といた高原とも違う景色の中だった。

共通しているのは、そこも霧が立ち込める湿っぽい場所で、小さな池があちこちに点在していることくらいだった。ただ、そこは山の斜面ではなく、見渡す限りの平地だった。

すると突然、ボクは人間の男に話しかけられた。

「おい、お前さん、こんなところで何をしている? こんな場所にいたって、飢えた腹は満たせんぞ。ただの水たまりに見えるかもしれんが、ここは作物の育たん湿った、どうしようもない不毛の沼地だ」

「そうなんですか。……というかおじさん、ボクの姿が見えるの?」

「あぁ。さてはお前さん、餓鬼の子だな。かわいそうに、いつもお腹を空かせて苦しんでいるんだろ。餓鬼の姿は普通の人間には見えんが、ワシのようにもう寿命が尽きかけている人間には、ふと見えることがあるんじゃよ」

「そうなんだ。でも、おじさんは、なんで死にそうなの?」

「ワシはな、もともとは遠く離れた別の村に住んでいたんだ。だが、その村で食べるものがなくなってしまってな、村を離れてこの地を切り拓いてこいと送り出されたんじゃ。だけど、いろいろ試しても何一つ育たなんだ。もう腹が減って、一歩も動く力が出んわい」

その人間はそう言うと、ボクの前から力なく崩れ落ち、やがて静かになった。

ボクは一週間ほど、そのぬかるんだ湿原をさまよった。お腹をすかせて苦しみながら、あてもなく歩き続けた。

どんな場所へ、どんな時代へ飛んでいったとしても、ボクは結局こうして満たされることのないまま苦しみ続けるだけなのだろうか。

数日後、ボクは湿原の中で、地面に倒れているあの人間を見つけた。少し前にボクに話しかけてきたおじさんだった。どうやら完全に力尽き、息を引き取ったようだった。

人間はお腹が空けば苦しみ、その苦しみが続けばいつかは死ぬ。けれど、ボクたちはどれだけ苦しくても、死ぬことさえできない。永遠に渇きと飢えを抱えたまま彷徨い続ける、地獄の世界の住人だ。どちらが幸せなのかはわからなかったけれど、ボクはその沼地に倒れた人間が、たまらなくかわいそうに思えた。

そのときボクは、この地に来る前に聞いた人間の言葉を思い出した。そうだ、ボクは教えてもらった「イネの育て方」をトモダチに伝えたいと思っていたのだった。

けれど、それが本当にうまくいくかはわからない。何より、あのトモダチがどこの時代のどんな場所にいたのか、今のボクには知る由もなかった。

ボクはまた水たまりに飛び込んで、どこか別の時代へ逃げ出したいという衝動に駆られそうになった。

しかし、いつ、どこの時代に飛んだとしても、ボクが辿り着くのはいつも同じようなぬかるんだ土地、不毛の池が広がる場所なのだと、うっすら気がつき始めていた。それが餓鬼であるボクの宿命なのだ。

何日もその土地をさまよった末、ボクは、いまいるこの場所でイネを育てることに挑むと決めた。それがトモダチのためにも、ここで倒れたおじさんのためにもなるような、そんな気がしたのだ。

ボクは自らの手と足を使って、ぬかるんだ土に少しずつ溝を掘り始めた。来る日も来る日も、ただひたすらに作業を続けた。お腹は減って苦しかったけれど、幸か不幸かボクが死ぬことはない。作業のための時間は、ボクには永遠にあった。

ボクはその土地の一画に、水を抜くための排水路を少しずつ掘り進めた。そして、夜になると人間の街へ忍び込み、石灰という白い粉を探しては夜な夜なくすねてきた。時々、ボクの姿が見える人間に出くわしてヒヤリとしたこともあったけれど、その人たちもボクを告発するような元気はなさそうだった。

そうして、長い長い年月が流れた。



「えぇ、私はその日、あの不毛と呼ばれた土地で、信じられないものを見つけたんです。約20年前、私たち家族を置いて一人で開拓に向かった父を追いかけ、私はその場所へ向かいました。古い地図だけを頼りに、なんとかその地に辿り着いた時のことです。

そこには人が住んでいる気配もなく、村もありませんでした。なのに、その湿地の一角にだけ、黄金色の稲穂が見事に実っている田んぼがあったんです。

そして田んぼの脇には、石が積まれた小さな祠のようなものがあり、そこには父がかつて身につけていたと思われる服や荷物が、綺麗に置かれていました。本当に不思議な出来事でした。ですが私には、父が命を懸けてこの地を切り拓き、最後に稲を実らせてくれたのだと思えてならなかったのです。

私は父の志を継ぐことを誓い、この北の大地を本格的に開拓することを決めました。ええ、それが明治の初め頃、もう半世紀ほど前の話です。それからは私の他にもたくさんの人がこの地にやってきて、みんなで力を合わせて泥炭地を耕していきました。今ではこうして、立派な街が出来上がりました。私ももうすっかり老いぼれましたが、人生に悔いはありません。

ところで、最近ですね。田んぼの周りを散歩していると、小さな、お腹のぽっこり膨らんだ男の子が、一生懸命に田んぼを耕しているのを見かけることがありましてね。『坊や、どうしたんだい』と声をかけると、その子は決まって私にこう聞くんです。『お腹、いっぱいになったかい?』って。
私はよくわからぬまま、『お前さんの方こそ、お腹が空いているのかい?』と聞き返しました。すると、その子はなんとも妙なことを言うのです。
『お米がたくさん獲れるようになったから、みんなはもう大丈夫だね。だけど、ボクは食べても食べても、どうしてもお腹がいっぱいにならないんだ。そうしている間に、元の世界に戻るための水たまりも、みんななくなっちゃったんだよ』そう寂しそうに笑うのです。

もし皆さんも、その小さな男の子を見かけることがあったら、どうか食べ物を分けてあげたり、優しく声をかけてやってくれませんか。きっとその子は、この石狩の田んぼをずっと見守ってくれている、心の優しい守り神のような子なんじゃないか――そんな気がしてならないのですよ」

(了)



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