『天叢雲』(密約の果てに)…
三世紀後半、倭の列島では、外来勢力による静かな征服が進められていた。
その勢力、龍王族は南の島「種子島」を中心に築かれた龍城国を根拠地とし、列島全域への宗教思想支配を目指していた。
彼らが掲げたのは「二十四弁菊花紋章」。これは龍王族の統治理念と、王統の正統性を象徴する紋であった。
龍城国から出発した船団は、海路をたどって各地に拠点を築く。
根拠地、種子島より海を渡り、北九州・志賀島へ。さらにその波路は、対馬を越え、ついには朝鮮半島・帯方郡にまで至る。
この一連の拠点は、航海の祈りの場となり宗像三女神と総称される。
しかし、列島中央にそびえ栄える古き王権は、その進出にとって最大の障壁であった。
そこには扶桑樹のもとで大国主を中心とする神権的な秩序が存在し、精神的にも政治的にも独立した王権、扶桑国が築かれていた。
海より降りし龍王族から葦原中国と呼ばれた地は、豊かな葦の生い茂る中洲であった。それは稲の実りにもっとも適した、豊饒の象徴ともいえる大地。
だが、山陰の出雲にそのような地形は存在せず、本来の「葦原」は、太平洋側、眉山の麓より吉野川へと続く、その水脈の広がる中洲にあった。
これに対して、龍王族は武力による侵攻ではなく、計略による切り崩しを選んだ。
その中に天若彦と名乗る青年がいたが高千穂へ降り立ったその人物は、やがて葦原の祭祀世界に入り込み、後にアジスキタカヒコネとして語られる存在へと重ねられてゆく。

青年は大国主の娘・下照姫と夜の密約を重ねながら大国主を補佐する副王・八重事代主と名乗り、自らの王家再興を狙っていた。
倭の言葉を知らずに一言で話す青年は、一言主とも呼ばれる八重事代主。この青年こそが、扶余族の内部に入り込み、その王統の中に潜んだ匈奴王族の末裔。
その忘れられた血は、海を越え、天より降りし者として語られ、後にアジスキタカヒコネという神名へと重ねられてゆく。
記紀での表向きは「饒速日尊」の血を引くとされるが、その真の使命は列島王権の内側からの崩壊であった。
アジスキタカヒコネは、祭祀構造に入り込み、精神世界に浸透してゆく。
やがてアジスキタカヒコネは、自らを下照姫の「兄」として神話の中に位置づけ、下照姫の信任を通じて王統の正当性をも掌握する。
一方、葦原中国平定のために遣わされた天孫族でありながら、大国主に心服、その右腕となり副王となった徐族王家、天種日。
大国主の東国平定に際して政務を託される天事代主の座にあった天種日は出雲幽閉事件によって命絶え、静かに乗っ取られてゆく。
さらにアジスキタカヒコネは、天種日の不在を利用し、神宝の草薙剣を奪い去る。
これらは、徐福の血統を継ぐ天種日の系統に伝わるべきものであったが、アジスキタカヒコネはこれを持ち去り、後の崇神政権の中核へと渡された。
この三種神器の一つとされる「草薙剣」は、大陸由来の工芸技術が施された異質な刀剣であるとも伝えられる。
しかし大国主家、真の神宝は熊野(久那土)高倉下に秘蔵された国土の王、天日矛の愛刀、「天叢雲剣」。
その後、天孫族の武威の象徴たる武甕槌、崇神(中臣烏賊津)が稲佐の浜に現れる。
大国主は、その時、海を渡り「韓」の地へ向かい、再び姿を現すことはなかった。残された地の政は、義理の子である天事代主に託されていた。
しかしその場に居合わせた八重事代主は、やがて深くうなだれ、海辺にて逆手の拍手を打つ。

この「逆手の柏手」とは、すなわち恨みの証。八重事代主は、「承知した」と一言うなずき海に身を沈め、表の歴史から姿を消した。
このとき、すでに出雲国造家には抵抗する力は残されていなかった。
そして天孫族はこのときの事をこう書き記す。
山間の峠を越えこの葦原に至る。彼らとは戦ではなく、言葉と儀礼をもってその王権と対峙し、話し合いの末、この地を譲り受けたと。
やがて、吉野川近くの橿原にて神武天皇即位と記したが、この場面こそが扶桑国の終わりと大和の始まりが交差する、運命の分岐となった。
後にこの地に祀られたのは、事代主、アジスキタカヒコネ、そして一言主。
いずれも、賀茂氏、鴨氏ゆかりの上賀茂・下鴨神社に名を連ねる神々として祀られる。
これら国譲りとは、外からの強制ではなく、アジスキタカヒコネによる長期的な浸透工作の末に成立した内側からの崩壊であった。
こうして出雲国造家の体制は終焉を迎え、天孫族の支配は次の段階へ進むが、南九州には秦と楚の因縁が残る熊襲、隼人族(狗奴国)の王統が根強く生き残っていた。

これらを征服・服属させるため、アジスキタカヒコネは、かつて始皇帝に仕えた大将軍蒙恬の末裔、朱蒙直系の扶余比流王が率いる蒙族を帯方郡、上筒から呼び寄せ隼人族の殲滅に号令を下す。
この戦いは、後に物部王・景行天皇による熊襲征伐として語られる。その中には、一度は国譲りによって軍門に降った若き皇子、日本武尊の姿もあった。
そして、日本武尊の伝承が辿り着く最果て、東国・日高見の地には大彦王の名のもとに、その系譜が静かに息を潜めていた。
この一連の過程は、後に神話として古事記、日本書紀に編まれ、「天孫降臨」「国譲り」「神武東征」「四道将軍」などの物語として伝えられることになる。
その実態は、龍城国を拠点とするアショカ仏教宣布団、その宣教こそがそもそもの目的だったはず。
しかし、あらゆる事情を抱える一度は滅びたはずの外来王族、八人の皇子による内なる望みから、葦原中国の平定、国譲りとして数代にわたる政治的・文化的征服の幕開けとなった。
そして蒙族は夜を祓い、太陽の刃を背に熊野に上陸、即座に熊野高倉下から扶桑国の正統な王の証、天叢雲剣を奪い去り、崇神を三輪山へと導く、その名は鴨の八咫烏…
