読書と包装紙と紙袋と/2026年8月
どうして今までこの作家さんに会わずに生きてきたのだろう、巡り会えなかったのだろうと悔しくなるくらい、わたしはこの方の創り出す世界が好きになった。
静かで、丁寧で、細やかな描写。こんなにも平易なことばで、すべてを表現することができるのか、と驚くばかりであった。
松家仁之さんの『火山のふもとで』を手に取ったのが、7月の初め。作品の中に流れる季節と現実の夏がぴたりと重なったこともあり、この物語の世界にどこまでも深くどっぷりとハマってしまった。
ページをめくるたび、浅間山のふもとを吹き抜ける清々しく冷えた空気感がそのまま伝わってきた。夏の軽井沢にある「アトリエ」に漂う木や紙の匂い、静寂のなかに響き渡る鳥のさえずり、夕暮れの光。
大自然の美しさを描き出す描写があまりにも素晴らしく、まるでわたしも軽井沢のアトリエの片隅で、同じ時間を過ごしているかのような錯覚におちいった。
さらにわたしがこの物語に惹かれた理由は、建築事務所を舞台にしていたところにもある。主人公が身を置く建築事務所の「先生」こと村井吉次の佇まいや、ものづくりに向き合う真摯な姿勢もさることながら、フランク・ロイド・ライトに師事したことがあるという設定や、ディテールにまでこだわり抜かれた建築の描写があまりにリアルで魅力的で、ここのところ縁遠くなっていた建築への関心がよみがえり、思わず手元にあるライトの建築本を何冊も引っぱり出して、見直してしまったほどだ。
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見逃してしまっていた映画、『教皇選挙』を配信で観た。これは絶対に映画館の暗闇と大スクリーンで観たほうが百倍も作品の世界に没入できただろう。
教皇選挙といえば、拙いわたしの知識のなかで思い出すのは、塩野七生さんの『神の代理人』である。映画を観終えたあと、早々に本棚から引っ張り出して再読した。
意外にも俗にまみれた法王たちが多く描かれるなか、非常に真面目で(真面目すぎて)使命感に燃え、重い病に侵されながらも頼りにしていたヴェネツィアの艦隊を待ち続けて死んでいったピオ2世の章は、何度読んでも胸が締め付けられた。
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朝のワイドショーに林真理子さんが出ていて腰が抜けそうになった。大丈夫か、マリコ、生放送だぞ、朝だぞと親戚のおばちゃんを見守るような気持ちでテレビの画面に張り付いた。
そんな心配もよそに、玉川某のちょっと意地悪なアドリブの質問にも爽やかな笑顔で応え、澱みなく歯切れ良く、そして嫌味なく答えを返していくマリコさん。降りかかる数々の矢を、軽やかに捌いていく度胸と聡明さ。なんて頭の回転が早いのだろう。これぞ、我らがマリコである。
『ルンルンを買っておうちに帰ろう』の時代から、男尊女卑とルッキズムとバブルの嵐を超え、いつも我らの先頭を走って露払いの役目を担い、ぼんやりとした苛立ちや焦りや憧れを、はっきりとした言葉とかたちに変えて見せてくれた、崇高なお人なのである。
『80代になるとたいていボケるか死ぬ。70代は神様から与えられた特別な時間』が爆売れしていると聞き、さっそく買いに走った。なるほどなるほど。マリコ健在。彼女がこのような生き方を見せてくれているかぎり、これからもひそかに応援していくぞ、と心に決める。
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池澤夏樹さんは、『キトラ・ボックス』くらいしか読んでいないはず。なんだか急に読みたくなり、初心に戻って『スティル・ライフ』を手に取った。
先日、NHKの番組に娘の池澤春菜さんが出ていて、たいへん興味深い内容で食い入るように見入ってしまった。娘さんから見た父・池澤夏樹さんのエピソードなどを聴けたのも実に貴重だった。
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そして、いよいよ堪えきれずに『沈むフランシス』を読んだ。
同じ作家さんの色に染まりたくない、という理由から、どれだけ気に入っても同じ作家の本を立て続けに読むことは避けるようにしている。しかし、どうにも我慢できずに手に取ってしまったのだった。まあ、間に他の3冊が入ったのだから良しとしよう。
『火山のふもとで』は夏の軽井沢だったが、北海道の小さな村の美しい大自然を背景に、静かなおとなの恋愛を描いたのが『沈むフランシス』である。
浅間山ふもとの空気感にも心奪われたが、北海道の雄大な自然や風の音、川の流れ、降りしきる雪の表現があまりにも素晴らしく、つい読み返しては何度も味わいたくなる文章がたくさんあった。冬を、雪を、こんな風に受け止める瞬間はなかったな、とわたしは北海道に住んでいたころを思い出し、ミンミンゼミの鳴く真夏の関東の昼過ぎに、猛烈に冬の北海道に帰りたくなった。
今年の夏は、松家仁之さんという存在を知ることができた、特別な夏となった。
これまで出会えなかった理由を探ってみたら、彼の異色の経歴を知り、納得がいった。
松家さんは、早稲田大学在学中の1979年に『夜の樹』という作品で文学界新人賞佳作に選ばれ、若くして一度デビューを果たしている。その後、新潮社に入社し、季刊誌『考える人』の創刊編集長や『芸術新潮』の編集長を歴任するなど、長年にわたり第一線で「言葉」と「本」に関わってきた方だった。
50歳を過ぎて退社し、満を持して2012年に発表された本格的な長編デビュー作こそが、あの『火山のふもとで』だった(同作で第64回読売文学賞を受賞)。
一流の編集者として長年良質な文学と言葉に浸り、熟成を重ねてきた歳月を経て生まれた小説なのだと知った。これからの楽しみが増えて、こころから嬉しい。


晩夏の梨、いずれもなかなか映えてお気に入り。
マリコさんの本はあっという間に読んでしまったので
丸善のまま


ライト関連の本
『神の代理人』塩野七生
『80代になるとたいていボケるか死ぬ。70代は神様から与えられた特別な時間』林真理子
『火山のふもとで』松家仁之
『スティル・ライフ』池澤夏樹
『沈むフランシス』松家仁之
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