4つの名前を生きて どうか思いを受け止めてください
終戦の日に、戦争が何をもたらすのか、私たちに教えてくれる、ある文章をご紹介したいと思います。
中国残留孤児・池田澄江さんが自身の思いを綴った文章、2002年に始まった裁判の中で書いた「意見陳述書」です。
法廷での限られた時間の中で、自分の半生と仲間の思いを伝えるために、池田さんが考え抜いて書いた文章です。
インタビューの記事を読んでくださった方も、あらためてお読みいただけると、より深く池田さんの思いを知ることができるかと思います。
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意見陳述書 池田澄江
原告番号1番の池田澄江です。原告団の3人の代表のうちの1人です。
この「池田澄江」という名前は、私が生まれた時、両親がつけてくれた名前です。
でも、この名前は、私にとって4番目の名前です。この名前にたどり着くまでに、私は5 1年かかりました。
身元が判明してから姉たちから聞いた話ですが、日本敗戦時、私の母は、満州の大混乱の中で、5人の子供を連れて、逃げまどったそうです。軍人だった父は戦地に行っており、いませんでした。母は、2歳の兄を背負って片手で4歳の姉の手を引き、片手に荷物を持ち、8歳の姉が大きな荷物を背負い、6歳の姉が0歳だった私を背負って、皆で1か月以上、歩き続けたそうです。
日本人はソ連軍に見つかったらすぐ殺され、まわりの子供たちがどんどん餓死していくなかで、母はお乳が全く出なくなりました。母は、これ以上私を連れていては家族全員がダメになると、やむなく、知り合いになった中国人に時計や指輪を渡して、私を育てて下さいとお願いしたのだそうです。その中国人の紹介で、私は養父母に引き取られました。
中国の養父母は、私に「徐明」という名前をつけてくれました。私が、最初に覚えた自分の名前です。
養父母は優しい人で、私を本当の子供のように育ててくれました。でも、物心がついたとき、私はまわりの子供たちに、シャオリーベンクイズ、日本の鬼の子、と呼ばれて、いじめられました。
7歳の時、学校で日中戦争の映画を見に行ったとき、同級生たちが私を指さして口々に「打倒日本」と叫び、唾をかけたり、頭を叩いたりました。私は椅子の下にもぐり込んで泣きました。心が深く傷つきました。この時の辛さは、一生忘れられません。
8歳の時、養父母が私に、日本人であることをはっきりと教えてくれました。日本人は悪い人ばかりでない、あなたの父母はとてもいい人だったと聞いていますよ、とも言ってくれました。この時から私は、「本当の父と母に会いたい。日本に帰って親を探したい。自分の本当のことを知りたい。」と強く思うようになりました。
私は、師範学校に入学しました。学校の成績はほとんど1番でした。それなのに、教師になると、日本人であるため、山奥の学校に赴任させられたり、給料が低かったりと、条件面で様々な不利益がありました。
1 9 7 2年に日中の国交が回復したので、私は日本大使館に手紙を書いたり、中国にいる日本人を遠くまで訪ねたりして親探しを始めましたが、手がかりは得られませんでした。ところが、1 9 8 0年、36歳の時、中国に来た日本の新聞記者を通じて、札幌に父と思われる人がいることがわかり、文通をして親子関係を確かめ合いました。私は、嬉しくて、嬉しくて、養父母と夫の許しを得、家財道具を売り払って帰国のためのお金を作りました。そして、 1 9 8 1年7月、教師の仕事も捨て、3人の子供を連れて、自費で日本に帰りました。札幌で、父と信じた人の娘の名前を名乗って、その人と4か月間、一緒に暮らしました。これが私の2つ目の名前でした。夢のように幸せな毎日でした。
ところが、詳しい血液鑑定の結果、その人は父でないことがわかったのです。父と信じた人は、朝からお酒を飲んで荒れ、「もう娘ではない。出て行け。中国に帰れ」と怒鳴りました。私は絶望のどん底に突き落とされました。でも私は、せっかく日本に帰って来たのだから、日本に残って、本当の親を探したいと思いました。私は、入国管理局に行って、中国政府が発行した中国残留孤児の証明書を見せて、私は日本人なのだから日本に残りたいと訴えました。ところが入管の職員は、怖い顔をして、「ここは日本だ。中国政府が認めても日本人とは認められない。期限前に帰らないと強制送還する。」と怒鳴り、孤児の証明書を私に投げ返しました。
祖国の政府のあまりにも冷たい仕打ちに、私は深く傷つき、自殺まで考えました。一晩で7通の遺書を書きました。でも、「ここで私が死んだら、私の子供も孤児になってしまう」と思い、何とか死ぬことを思いとどまりました。
その後、新聞で私のことを知った多くの方々に助けられて、私は1 9 8 2年、家庭裁判所の審判で、日本の戸籍を得ることができました。肉親がわからないまま戸籍を得た第1号と言われています。この時、通訳の方の苗字をいただいて「今村明子」という名前にしました。これが私の3番目の名前です。これで強制送還されずにすみました。中国から主人を呼び寄せることもできました。
しかし、それからも苦労の連続でした。中国で教師をしていたことは何の役にも立ちません。自立するために、職業訓練校で1年間洋裁の勉強をして、資格を得ましたが、1 0か所以上就職面接を受けても、言葉の壁のため、全部断られてしまいました。皿洗いや掃除のアルバイトをして必死で生活しましたが、生活に困って生活保護を受けたこともありました。生活保護を受けると、福祉事務所の人から、「早く仕事をしなさい」「フラフラ遊ぶな」と叱られました。私は、日本語を一生懸命勉強して、生命保険の外交員の試験を受け、 1番の成績をとって、やっと正社員になれました。ところが、やはり言葉の壁のため、毎日、私だけ契約件数がゼロでした。歩合給なので、ほとんど収入もありませんでした。何をやってもだめでした。どうやって生きていったらいいのか、途方に暮れました。
そんな時、私の戸籍を取る裁判をして下さった弁護士の先生が、まだほとんど日本語を話せない私を、事務員に雇って下さったのです。1 9 8 7年のことでした。私の仕事は、中国残留孤児が戸籍を取る裁判の手伝いでした。私は一生懸命に働き、働きながら少しずつ、日本語を覚えることができました。今でも私はこの事務所で働いております。このような形で就職できたことは、本当に幸運なことでした。
1 9 9 6年、奇跡が起こりました。私は、「孤児」の訪日調査の手伝いをしていた際、偶然喫茶店で話しかけてきた、実の姉に巡り合うことができたのです。血液鑑定の結果、99. 999%姉妹ですと言われたとき、どんなに嬉しかったでしょう。私はようやく、5 1年ぶりに、本名の「池田澄江」になれたのです。でも、悲しい、悔しいことがありました。私の母は、そのわずか2年前に亡くなっていたのです。
私が帰国した1 9 8 1年から、「孤児」の訪日調査が始まっていました。私は、何度も何度も厚生省に行って、訪日調査の時にマスコミに発表する「孤児」の写真や経歴の中に、私のことも載せてほしいと頼みにいっていました。しかし、いつも冷た<断られていました。自費で帰国した私には、そのような便宜は図れない、というのです。私の母は、亡くなるまで、「孤児」の訪日調査のたびに、新聞に載る「孤児」の写真 や経歴をすみずみまで見て、私のことを探していたそうです。そして母は、いつも姉たちに、「あなたたちが生きて帰ってこられたのは澄江ちゃんのお陰なのよ」と言ってくれていたそうです。だから姉たちは、母が亡くなってからも、来日した「孤児」の中に私がいないかどうか探しにきて、そこで通訳をしていた私と出会えたのです。 私は、母と同じ日本で13年間も生活しながら、夢にまで見た母に会えませんでした。母もどんなに私に会いたかっただろうと思います。厚生省が、一度でも私の願いを聞き、肉親探しに協力してくれていたら、私は必ず、母と会えたはずです。それを思うと、残念で、悔しくて、なりません。
このように、辛いこと、悲しいこと、悔しいことが、これまでたくさんありました。それでも、私は、幸運にも肉親に巡り会うこともできたし、働く場を得ることができました。ほとんどの「孤児」は、もっと悲惨な人生を歩んでいます。私は1 6年間の仕事を通じて、全国にいる1 0 0 0人以上の中国残留孤児と会い、話を聞きましたが、どの人もどの人も、例外なく、大変な苦労をしています。
帰国した「孤児」2400名の半数は、肉親が判明していません。それだけで、どれほど淋しく、孤独か、私にはよくわかります。誰もが、自分がどこの誰なのか、本当の生年月日はいつなのか、知りたいのです。本当の父母や兄弟に会いたいのです。けれども「孤児」たちは生きることに精一杯で、肉親探しをする余裕などありません。多くの「孤児」たちは、中国でさんざん苦労し、年をとってやっとの思いで帰ってきた祖国で、まともな日本語教育も受けられないまま、荒波のような日本社会に投げ出されました。日本語ができないために仕事も見つけられず、年をとるごとに生活に困り、約7割の「孤児」が生活保護を受けています。中国で一生懸命働いてきたのに、そのことは全く評価されず、年金はわずかです。これからどんどん年をとっていくのに、老後の生活はどうなるのか、不安ははかりしれません。「孤児」たちは皆、日本社会の中で、まるで虫けらのように扱われていると感じています。そして、日本政府の冷たさに怒り、泣いています。
どうして祖国の政府は、日本人である私たちに、こんなに冷たいのでしょうか。
2年前、「孤児」たちは、老後の生活保障などを求めて、国会請願のための署名活動を行いました。雨の日も風の日も街頭に立って、1 0万人分の署名を集め、国会に提出しました。「孤児」たちは、国会は私たちの切実な願いを聞き届けてくれると信じていました。
ところが、2 0 0 1年8月1 5日、400人の「孤児」が日比谷公園に集まっていた時、私たちの請願が国会で、ほとんど審議もされないまま不採択になったという知らせが届いたのです。「孤児」たちの怒りと絶望は、頂点に達しました。このとき、誰かが、「裁判を起こそう」と言い出しました。皆、その年の春、ハンセン病元患者の人たちが、国に対する裁判で勝訴判決を勝ち取り、そのことによって国の政策が大きく変わったということをよく知っていました。1 0万人の請願署名を集めても、国会は採択もしてくれない。だとすれば、国の政策を根本的に変えるためには、裁判しかない。「裁判を起こそう」と、「孤児」たちは口々に叫び、どよめきました。
この日、「孤児」たちは、この裁判に向けての第1歩を踏み出したのです。そして、引き受けてくれる弁護士を一生懸命探しました。16人目の弁護士が、やっと引き受けてくれた時、原告希望者はすでに600名近くになっていました。
裁判官の皆さん。「孤児」たちには、もう裁判しかないのです。昨年1 2月20日、私たち6 3 7名がこの裁判を起こした後も、全国各地で原告になりたいという「孤児」は増え続けています。皆、裁判に期待し、全ての望みを託しているのです。
戦争のため、幼くして中国に取り残され、長い間帰ってこられなかった私たちの不幸は、私たちの責任でしょうか。日本語ができないことは、私たちが悪いのでしょうか。どうか、裁判で日本政府の責任を認めて、苦労に苦労を重ねてきた「孤児」たちが、せめて祖国での老後を、「普通の日本人として、人間らしく」生きることができるようにして下さい。私たちの思いを、どうか受け止めて下さい。
このことを、強くお願いして、私の意見陳述を終わります。
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この文章は、2002年に起こした裁判の中で池田さんが書いたものです。
この裁判を経て、2007年に新支援法が成立し、新たな支援の制度が生まれました。
池田さんの文章の背景をより知るために、池田さんを長く取材してきた朝日新聞の大久保真紀さんによる解説をあわせてご覧ください。
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