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真夏の夜の怪奇|シロクマ文芸部 参加作品

波の音が聞きたい。
乗客の女性はそれだけ言ったきり、口を開かなくなった。


この仕事を始めて15年。他のドライバー仲間からそういった噂を聞くことは度々あった。あそこの峠は出るぞだとか、あの時間のあの通りは乗せちゃいけないだとか。
しかし、腹の底ではそんなこと現実にはないと思っていた。まさか自分の身に降りかかるだなんて、夢にも思わなかった。



深夜、前の乗客を降ろしてタクシーを走らせていると、通りがかった山のふもとの暗がりで、ボロボロの姿をした女が、雨の中ずぶ濡れで立っていた。

直感で思った。ヤバイ、と。

すぐにでもこの場を離れないと。
しかし、なぜか俺の足はアクセルではなくブレーキを踏んでいた。
この時点で俺はすでに何かに操られていたのかもしれない。


そうして今俺は、タクシーを走らせている。女の幽霊を後部座席に乗せながら。


乗せてしまったものは仕方ない。幽霊とはいえ乗客だ。行きたい場所にお送りするのがドライバーの務めだ。
波の音が聞きたいと言っていた。つまり、海に行けばいいのだろう。おそらく、彼女は海で何かがあったんだ。悲恋か、それとも。

一瞬、ルームミラーで様子を確認する。汚れたワンピース。真っ白な顔。悲し気な表情。大丈夫ですかと訊ねることすら憚られる。きっと相当つらい思いをしたに違いない。

それにしても、よく見れば息を飲むほど綺麗な横顔だ。こんな美しい彼女が既にこの世にいないだなんて。現実は非情だ。
もしも、もしもこの人が生きていれば。


……生きていれば?生きていれば、なんなんだ?

タクシーを止めて、彼女の身の上話でも聞くつもりか?それとも、そっと連絡先でも渡すか?
女性の弱みにつけこんで、そんなことをしていいわけがない。しかも俺はタクシードライバーだ。確かに邪な考えで女性客に対して魔が差すドライバーもいるとは聞く。そういう輩のせいで何もしていない俺達まで警戒される世の中だ。
俺は違う。そんな奴らとは断じて同じではない。確かに俺は女性経験はないが、だからってそういうのじゃないんだ。


そんなことを考えながら俺はタクシーを走らせて、海辺に到着した。
いつか好きな女性をここで口説きたいと思ってた、あまり知られていない穴場スポットだ。
遠くに見える夜景が綺麗なんだよな。

一番いい感じの場所でタクシーを止めて、しばらく黙った。
静かな車内で、海を眺める二人。
なんか、デートみたいだ。



ちょっと待てよ。

なにか変だ。


普段の俺ならこんなにおかしな行動は起こさない。女性客に対してこんな気持ちになることなんて絶対にない。


もしかして、俺は既に取り憑かれているのか。
自分でこの場所に来たのではなく、連れてこられたんじゃないか。



その時だった。


背後から、地獄を震わせるような声がした。



~~~~~~~


頭も、腕も、脚も、痛い。
何も思い出せない。
体の中がなんだか空っぽになった気がする。
温い雨が嫌な臭いを流してくれる。


ああ、そうか。
私、死んだんだ。


ずぶ濡れで立ち尽くす私に、眩しい光が近づく。
光は私のそばまで来て止まった。ドアが開く。
ふふ、お迎えって、タクシーなんだ。

後部座席に乗って、運転手から行き先を聞かれる。
行き先……私はどこへ行けばいいんだろう。
私が還る場所。それはきっと、海。そんな気がした。

自然と口から出た。波の音が聞きたい、と。


タクシーは夜道を走り出した。
走行音と、雨が車体を叩く振動が、なんだか心地いい。
あまりにも現実的な感触に、私の意識はだんだんとはっきりしてきた。

そこで、気付いてしまった。


ああ、そうか。


私、死んでないわ。


全然死んでないわ。めっちゃ生きてるわ。


気付いた瞬間から、これまでの記憶が一気に鮮明になった。
お盆休みで久しぶりに帰ってきた地元。友達との飲み会は大盛り上がり。楽しくて仕方なかった。みんなで店を出た後、完全に出来上がった私はいきなり「山ぁ行こうぜぃ!」と近くの山を指差し、雨が降る中を全力で走り出した。多分誰もついてきてなかった。
酔っぱらいの足では山どころかちょっとした坂道も上がり切ることができずに、途中で限界を迎えた私は盛大にゲロを吐きながら坂道を転げ落ちた。おそらくそのまま一瞬気絶して、目を覚ました私はその状況から自分が死んだと思い込んで立ち尽くしていた。


そうして今私は、タクシーに乗っている。多分、運転手に幽霊だと思われながら。


そう思われたのは完全に私が悪い。こんな格好でそんな感じ出しちゃってたし。それっぽい表情でそれっぽいトーンで言っちゃったし。なに、波の音が聞きたい、って。
でもだってその時は私本当に死んだと思ってたんだから。行き先も、墓場っていうとベタ過ぎるし、なんか夏の海っておばけっぽいかなあって思って。魂が還る場所的な。お盆だし。

ええーマジでどうしよう。心臓バックバクしてる。こんな強く脈打ってる幽霊いないよ。顔は青ざめてると思うけど。てかもう海ついちゃったし。なんか知らないけど運転手も黙ってるし。どうすんのこれ。降りるしかないか。

私は意を決して運転手に声をかけた。


「運転手さん」


緊張で唇もわなわなしてたと思う。
ポケットから財布を取り出しながら、声を振り絞った。


「タッチ決済で」


運転手はバッとこちらを振り返り、この世ならざるものかと思ってよく見たらこの世のものだったみたいな複雑な顔をしながら一瞬固まったあと、決済端末を差し出した。


静かな車内に電子音が響く。

『クイックペイ』



タクシーを降りてドアが閉まる瞬間、運転手から「あっ、連絡先」と聞こえた気がした。多分気のせいだと思う。


いつの間にか雨はやんでいた。
夜の闇に包まれて、穏やかな波の音だけが聞こえてくる。


ざざあ。ざざあ。


こんな状況なのに、不思議と落ち着く。私が還る場所は、本当にここだったのかもしれない。湿った砂浜を歩きながら、しばらく辺りを見回した。




ここ、どこ。


小牧幸助さんのこちらの記事を拝見して書いてみました。

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