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稲垣満一郎と鳥瞰図のこと④

犬山桃太郎と満一郎

犬山日本一桃太郎会では、昭和初期犬山で犬山で桃太郞に魅せられ、桃太郞伝説を再発掘し桃太郎神社を創った人々の、熱い思いを顕彰していきたいと考えています。

特に吉田初三郎はその中心的人物であり、犬山に画室を構えていた時代の活動は多くの資料で足跡を辿ることができます。
稲垣満一郎著「日本ライン宣揚最大の恩人 大正広重 吉田初三郎先生」昭和32年(1974)発行に詳しい。
その中で、犬山画室以来初三郎の門下の多くは戦死し残されたのは、二代目初三郎の吉田朝彦と満一郎となったと書いている。また後書きでは、「私が恩師を億う切ない誠心だけを汲みとり下されば有難いので故先生も定めしお喜び下さることと存じています」と門下生としての誇りと師を敬っていた事がうかがえます。
昭和11年画室が青森県へ移転しても犬山に残り活動したのは、犬山で結婚し居を構え娘が誕生し生活の基盤ができたことが理由だったのでしょう。

日本ライン宣揚最大の恩人 大正広重 吉田初三郎先生 稲垣満一郎著

吉田初三郎の黒子的な存在だった稲垣満一郎についての調査・研究は、鳥瞰図研究家 藤本一美の「吉田初三郎の弟子達の群像⑥ 稲垣満一郎 おもに日本鳥瞰図絵社・刊行社、新日本名所図絵社他の作品」が唯一のまとまった資料で、鳥瞰図絵師としての満一郎の活動が纏められています。

初三郎が発表した「桃太郎伝説地に関する一考察」は桃太郎話にまつわる地名の調査に同行した満一郎が原稿を書いたと後に自身が書いている。
満一郎は、犬山町の鳥瞰図の表紙に桃太郎を描き、桃太郎神社周辺の鳥瞰図も数点描いた。
犬山桃太郎の研究にも取り組み、昭和16年(1941)に「日本ラインの桃太郎」、昭和17年(1942年)「日本一桃太郎の研究」も書いている。
この2本の原稿は、桃太郎神社二代目宮司川治家に残されていたもの。実際に出版されたかは不明ですが、原稿用紙には書体や文字の大きさを指示が書き込まれている。「日本一桃太郎の研究」は、地元紙尾北新聞に昭和15年(1940)に連載した「日本精神の根源と日本一桃太郎の研究」を加筆修正したもの。
以下のpdfはその原稿を文字起こししたものです。

満一郎を調べていくうちに、犬山の桃太郎を語る上で欠かせない人であり、もっと評価されるべき人物なのだと強く思わされた。
初三郎門下を離れた後の犬山における活動は不明な部分も多く、これからも調査研究が必要だ思っています。