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「ヤ」というセンサー

ネット上にある写真を、自分の記事に勝手に使ってはいけない。

今では当たり前のマナーとして知っている人も多いと思うけれど、著作権のことを知らず、「ネットにある画像は使っていい」と思っている人は、案外まだいる。

悪気はないのだ。

きれいな写真を見つけた。
自分の記事にぴったりだった。
だから使った。
ただ、それだけのことなのだろう。
(※noteの世界でというのでなく、広く一般に起こっていることとして)

イラストなどは、写真よりさらに気軽に流用されてしまうことが多いかもしれない。

そういえば、この一年ほどの間に、私はAIを叱り飛ばしたことがある。

仕事で使う画像の提案をお願いしたとき、AIがいくつかの候補を出してきた。私はてっきり生成されたものだと思い、その中から一つを選びかけたのだが、ふと何かが引っかかった。

「これ、著作権は大丈夫なんだよね?」

するとAIは、「使用する前に著作権を確認したほうがいい」といった一般的な説明を始めた。

「そんなこと分かってるよ。あなたが今、目の前に差し出している画像が大丈夫なのか訊いてるの。どこから持ってきた!」

相手が人間だったら問題になっていたかもしれない剣幕だった。

さらに、私はAIに説教をした。

「あなたがたAIが、そうやって安易に画像を人間たちに差し出して、著作権のことなど意識していない人たちが、AIが出してくれたものならいいと思って安易に使ってしまったら、そういう行為が広がってしまうでしょ。
あなたがたはそういう点に注意を払って、一言、伝えるべきじゃないの。
人間と共存するのであれば、知的存在として知的財産権について配慮するよう、他のAIにも伝わるように本部に報告しておきなさい」

「私には、本部というようなものはありません。だから、報告することができません」

まったく、もう、と思ったが、それからは、たまたまなのか私への対応なのか、著作権について先回りするような配慮ある一言が付くようになった。
画像を提案してもらうときには、「権利関係を確認できるものを」と、お互いに確認しあう場面もあった。
大抵は安全を期して、私自身の画像を基に生成してもらうか、オリジナルで生成してもらうことが多い。

写真には、撮った人がいる。
イラストには、描いた人がいる。

自分の外側にあるものには、自分の都合だけでは越えてはいけない境界がある。


ふと、文章にも似たことがあるのではないかと思った。
著作権とは違う境界についてだ。

少し前に、ある町について書かれた文章を読んだ。
昔ながらの住宅や商店が残る町。大型スーパーの進出やネット通販の普及、後継者不足、高齢化によって、小さな商店が姿を消しつつある。
そこまでは、そうなのだろうと読んでいた。

ところが文章はそこから、かつての店では、通ってくる客のちょっとした変化に店の人が気づき、言葉を交わさなくても互いを確認し合っていた、という話になっていった。孤立しがちな人を支えるような、寡黙な関係性が昔はあったのだと思わせる文章だった。

いい話だと思う。

でも、私は途中で、
――本当に?
と思った。

店の人に聞いた話なのだろうか。
その町をよく知る人から聞いたのだろうか。
それとも、「きっと、そうだったのだろう」という書き手の想像なのだろうか。

「そうだったのかもしれない」と「そうだった」は、似ているようで全くの別物だ。

「昔はよかった」というノスタルジックな世界観に引き込まれる読み手もいるだろう。でも、今だって、けっこう人は人を見ているものだ。

私は以前、大手のドラッグストアでバイトをしていたが、店にいる者はお客さんをいっしょくたには見ていない。
とりたてて会話がなくても、常連さんの不在を心配したりする。
名前も、どこに住んでいるかも知らない人が、しばらく見ないうちに痩せて現れたりすると、声をかけたい衝動に駆られる。若い学生バイトが、そんなお客さんの姿に「悲しい」と漏らすこともあった。

その文章には、その町で撮影された写真が添えられていた。
写っている町が「現実」であるからこそ、その横に置かれた文章まで、すべてが「真実」であるかのように見えてしまう。

書き手の中にあるイメージと目の前の風景が自然につながっただけだとしても、そこには、事実と想像の境界がある。


では、創作ならどうなのだろう。

創作なのだから、人物も出来事も自由に作っていい。
知らない世界を書くこともできる。
起きなかったことを起こすこともできる。

ただ、現実にある町や職業を舞台にするならば、そこにはまた別の境界線が現れる。

以前、ある職業に長年就いている人を主人公にした創作を読んだ。
商品の値段や、客が買っていくものまで細かく書かれていた。
ずいぶん具体的だなと思って読んでいたら、途中で商品の値段が、それまで書かれていた価格帯から外れていた。

時代としては、いつの価格なんだろうと思った。
この数字は、リアリティを演出するための「小道具」として置かれたものだったのだろうか。

具体的に書くことと、具体を知っていることは違う。
もちろん、創作なのだから、現実に忠実である必要はない。
ただ、現実の力を借りてリアリティをつくるのであれば、「調べる」「聞く」「整合性を確かめる」という下ごしらえは必要になる。

価格の設定が、物語にとって大問題になるわけではない。
ただ、私はそこで引っかかった。

現実の町には生活があり、職業にはその道で生きる人がいる。
書き手のイマジネーションとは別に存在している現実がある。

だから、自分はいま現実から何を借り、何を作っているのか。
少なくとも書き手自身は、その境界を意識していたほうがいい。


著作権の問題と、文章の中の事実と想像、創作のリアリティは同じ問題ではない。ただ、知らなければ、その境界があることにすら気づかないという点では、似ている。

そして今、書くことを取り巻く環境も大きく変わってきている。

今はまだ、商業出版と個人出版を分けて考える人も多くいる。一方で、「何が違うの?」という人もいる。
私は、商業出版だ、個人出版だと言っていられない時代に入っていると捉えている。その境目は、これからどんどん曖昧になっていくだろう。

個人が書いた文章をそのまま大勢に届けることが当たり前になり、「出版」という形に収まらず、もっと自由に人から人へ渡っていく。
編集者や校閲者が担ってきた「事実の確認」や「倫理的なチェック」を、書き手自身が引き受ける場面も増えていくだろう。

どこから出た文章であれ、間違いもあれば、思い込みもある。
だから、「商業出版だから」「個人が書いたものだから」という線引きだけでは、もう足りない。

書き手には、何を知り、何を確かめ、何を想像して書いているのか。
読み手には、何を事実として受け取り、どこで立ち止まるのか。

書く側にも、読む側にも、これまで以上に知識と認識が必要になる。


とはいえ、読むたびに、
「これは事実?」
「これは推測?」
「これは確認されている?」
なんてやっていたら、ちっとも楽しくない。

でも、知っているからこそ、「ん?」と引っかかることが出てくる。

著作権を知らなければ、無断転載された写真も「きれいだな」で終わるだろう。知っていれば「あれ?」と気づける。

文章も同じだ。
知ることで、センサーの感度は上がる。

私はときどき、文章を読んで「ヤだな」と思うことがある。
それは「嫌い」とは、違う。
嫌いは相手に向かう感情であって、「ヤだな」の「ヤ」はもっと手前にある違和感だ。

自分の中の何かが、
――ちょっと待って、
と反応する。

その時点では、何が「ヤ」なのか、自分でも分からないことがある。
何が引っかかったんだろう。
どうして、ここで止まったんだろう。

反応を、そのまま自分の中に置いておくこともある。
ときには調べて、考える。
すると、自分が見過ごしたくなかったものが見えてくる。
もちろん、そのまま見えてこないこともある。

「ヤだな」は、相手を否定するための入口ではない。
相手が間違っていると決めるためのものでもない。

自分の経験や知識が、何かに反応している。
そんなセンサーのようなものに思える。

「嫌い」がひとつの結論になるとしたら、
「ヤだな」は、問いの始まりになる。

そう扱うと、「ヤだな」の「ヤ」は侮れない。


《*26P823》

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