岐阜屋シンギュラリティ
新宿思い出横丁のいちばん端。
いつものようにカウンターで木耳玉子炒めをアテに麒麟の大瓶をちびちび呑んでいたら、なにやら店員と客が大声で揉め始めた。

「でもChatGPTに聞いたらそう言ってたんけど!」
「ウチはソレ、ヤッテナイヨ!」
プンスカして帰っていった若いカップル。

「ははは。最近の若い人はAIを信用しすぎますね」
隣の客がこちらを見て苦笑している。
そうですねえ、実はわたしはどうもAIというテクノロジーが苦手で
「ほう」
もちろん、今や日常生活に避けては通れないものだというのは理解してるんですよ
「うんうん」
でもねえ、創作の現場なら、キミのクリエイターとしての矜持はどこに置いてきたんだい?、ということで言うに及ばずなんですが、例えば映画好きが集まるコミュニティなんかでね、
「こうこうこういう内容の映画を昔々見た覚えがあるのですがタイトルが思い出せません」
という質問する人がいるじゃないですか
「はいはい、よく見ますね」
そこに、必ずと言っていいほど現れる
「CHATGPTに聞いてみました」とか「なんちゃら(というAI)に聞いてみました」とか答える連中の無粋さがね。イヤですね
「ふふ、わかる気がしますね」
同じように、子供の頃すごく好きだった漫画、表紙に何々が描いてあって、こんな内容だった気が、とか、あの作家のこういう内容の小説があった気がするのですが思い出せません、という質問にですね、安易にAIをつかって答えを探すというのがね
せっかくコミュニティの膨大な知識や、マニアックな知見を当てにして質問してきてるのに、いい加減で軽薄で嘘つきなAI頼りの回答をしたり顔で書き込んでるのを見るとね、心底不愉快になるんですよ
「それはもう、なんだかAIアレルギーのように聞こえますが?」
そうかもしれません
パソコン通信時代、更にインターネット黎明期からね、人類の知見、マニアやオタクと呼ばれる人たちの膨大な知識に毎回感銘を受けて、自分も精進しようと努力してきたわたしみたいな人間にとってはですね、まるで赤本の解答集を見て設問を解いた気になってる受験生と同じ不気味さを感じるのですよ。手軽さや利便性は、必ずしもいい事ばかりではないと
「たしかに」
今や若い人は、友人知人、ましてや親兄弟や教師なんかに相談するよりも、チャッピーに相談することの方が自然なのでしょうね、嘆かわしい限りです

「ちなみにダグラス・アダムズの法則ってご存知ですか?」
ダグラス・アダムズ?
「はい。イギリスのSF作家なんですがね。自分が生まれたときに世の中に存在したものは普通で当たり前のものと感じる。
そして、15歳から35歳までに発明されたものは新しく刺激的で革命的に感じ、その分野で自分のキャリアを積むことができるという」
なるほど
「しかし、35歳以降に発明されたものは、自然の摂理に反したもの、受け入れがたいものと感じてしまう」
ははあ、なるほどねえ
「ふふふ、あなたにとってはAIはまさに悪魔のテクノロジーのように感じてしまうのでしょうね」
はあ、まあ、そう言われるとそうなのかもしれません。あの、シンギュラリティっていうじゃないですか。AIが人間の知能を凌駕して自我を持つ転換点。割と遠い将来のことと我々安穏としてますけれど、再帰的自己改善から生まれる超知能の出現。結構すぐそこまで来てるかもしれませんよね
「うん、既にAIが我々の生活に無くてはならないものとなっているとしたら怖いですよね」
怖いですねえ、怖い怖い

