レツノム ~レツノムの目覚め
後頭部と背中の痛み。咽頭から逆流する残留物。目を開けるなり、少女は横を向いて唾液と胃液と混ざった残留物を吐き出した。身体を丸めて酸っぱい臭いを放つ吐瀉物を眺めた。失態を誰かに見られていないかと目を動かした。膨らんだクッション状の白い壁、四本の金属に支えられた寝台以外は何もなく、誰もいなかった。甲高い音が響いているが、それが自身の内耳機能低下による耳鳴りか、警報かは判然としなかった。安堵のまばたきをし、微かに温かい床に手をつき、寝台を支える金属を掴んで立ち上がった。肉体を流れる液体が揺れるのを感じた。白く小さな自身の掌を見た。面対象の清浄と不浄。手首に縞模様状の識別子が刻まれていることに気付き、左の手首を右手の人差し指の爪で引っ搔いたが、それを落とすことはできなかった。息を吐き、吐瀉物の臭いに顔をしかめ、手の甲で鼻下を擦った。寝台から垂れ下がる金属の拘束具に触れた。自らがそこに寝かされていたことが想像できた。あたりを見渡した少女はドアが開いていることに気付き、裸足のまま部屋から出た。
カーヴを描く廊下は静かだった。温度、湿度、清浄度を調整する設備が発する鈍い音は床を震えさせ、足の裏をくすぐられているようだった。少女は足と生暖かい床が擦れる瑞々しい足音を響かせながら歩いた。天井から絶えず降り注ぐ光はぼんやりしており、眠気を誘った。少し歩くと、機械の残骸を見つけ、足を止め、膝を折り、手を伸ばし、残骸に触れた。それは鋭利な刃物と力によってねじ切られたアンドロイドの残骸だった。少し先にはアンドロイドの頭部や腕、脚が捨てられていた。少女は不凍液まみれのアンドロイドの胴体を指でなぞり、指に付着した粘質の液体を自身が着用している光沢のある白い合成繊維で拭いた。少女は肩が露出した白いウェアと太腿の真ん中までを覆う白いレギンスを見ると寒気を感じ、肩を震わせた。先ほど目を覚ました部屋に戻って再び眠ることが頭を過ぎったものの、その提案は本能によって却下された。少女は立ち上がり、歩き出した。廊下の壁に描かれた橙色や緑色の矢印から脅迫されているように感じられたが、それを怖れていないと表明するために矢印に触れ、笑みを浮かべた。
風を切る音、力強い足音、摩擦音を耳にした少女は振り向いた。それと同時に風圧や磁力ではない、腕力によって壁に押し付けられたが、拘束するものの姿は見えなかった。彼女は驚いた。そして、すぐに驚きが痛みに変わった。精一杯の抵抗として悲鳴を上げた。生臭い息を嗅ぎ、顔を背けると近くのドアが開き、上下に動く細い光線が見えた。少女は助けを求めるために声を絞り出した。開いたドアから重装甲に身を包んだ二人の兵士が姿を見せた。兵士たちは宙に浮きながら壁に押し付けられている少女を見ると、即座にパルスライフルを構えた。咆哮が響き、放り投げられた少女が床に転がった。兵士たちは引き金を引いたが、装弾数一00発にして銃身下部にポンプアクション式グレネードランチャーを装備する兵器も、姿の見えないモンスターには効果が薄かった。彼らが壁に穴を開けている間にモンスターは壁に爪を立て、そのまま、天井を走り去った。
兵士たちが発砲を止めた。銃口からはプラスチックが溶けたような臭いが漂った。兵士の一人が床に散らばった薬莢をブーツで踏み、舌打ちした。もう一人が床に転がっている少女を見て
「生存者を見つけた」と言い、少女に近付こうとすると、薬莢を蹴飛ばした兵士が静止した。
「カーマック、待て。ジェリコの様子がおかしい」
カーマックは装甲の腕部に巻かれたウェアブルコンピュータを指差し
「ホール、こいつはクソだ。いつだっておかしい」と言った。カーマックとホールの顔はおろか、全身も黒い装甲で覆われているにもかかわらず、やり取りは人間的だった。ホールがウェアラブルコンピュータに向かって人差し指を振るとウェアラブルコンピュータは赤く点滅した。信号を見たカーマックは
「こんなこと、ブリーフィングになかった」と言い、ホールが
「まぁな。だが、こういう時のこいつは大体、正しい」と言って、ヘルメットの側部に片手をやった。
「シノック・ホールより緊急通信。ブリーフィングにない奴を見つけた。危険には見えないが、指示がほしい。データを送るから解析してくれ」
二人は腰を落とすとパルスライフルを構え、銃口を少女に向けた。カーマックの
「動かないでくれ。いきなり、こんなことになって驚いているだろう。わかるよ。もし、おれが君だったら……想像できないな。クソっ……とにかく、動かないでくれ」という声は若々しかった。ホールが言う。
「『該当なし』だって? そんなことが聞きたいわけじゃない。どうすべきか、指示がほしいんだ……わかった。もう少し待つ」
「どうだった?」
「聞いただろう? 大将は腰抜けだ。この調子だと、次の指示はランチの後だ」
「この子を連れて合流しよう」
「カーマック、正気か? ブリーフィングを忘れたのか?」
「忘れていない。ただ、何事も例外があるだろう?」
「やめろ。相棒を撃ちたくない」
少女は床に寝転がりながら天井を眺めていた。いくつかの考えを手繰り寄せると、混乱と痛みによって引き寄せられた恐怖が遠ざかっていくように感じられた。耳の奥では金属を削るような音が響いていた。数秒前は遠雷のようにささやかだったものが高低差を身に着けて波打ち、神経組織を逆撫でし、その場に留まることを拒絶するように仕向けた。少女が床に手をつき、立ち上がろうとすると、カーマックは「動かないでくれ」と言った。それは命令ではなく、請願だった。
数分後、ホールは「了解」と言ってヘルメットの側部で手をヒラつかせた。ホールが息を吐く音はカーヴした廊下の最奥まで響いたように感じられた。ホールが言う。
「聞いたか? 規則通り……そういうことだ」
カーマックがホールの腕を掴む。
「もう一度、通信しよう。データが足りなかったのかもしれない」
「ジェリコはクソだが、データは十分だ。これ以上、何をする? 何度、言ったところで変わらない。残念だと思う。正直、やりたくないとも」
「おれはやりたくない」
「あの新米みたいに言うな」
二人はヘルメット越しに睨み合った。数秒経つと、カーマックは自らの怒りと憤りを靴底で踏み潰し「わかった」と言った。ホールの
「立て」という声は冷ややかだが、早口で聞き取りづらかった。床に片手をついた少女は、もう一方の手で目下を擦った。涙を拭ったように見えた。立ち上がった少女は赤い瞳で二人を見た。そして、トウモロコシの綿毛のような髪に触れ、驚いた顔をした。
「これも仕事なんだ」という言葉はホールとカーマックのどちらが発したのかはわからなかった。同じ重装甲に身を包み、同じ紋章が装甲の胸に刻まれた二人に差異はなかった。少女は両手を垂らした。絞首台から逃れる術はないこと知り、祈ることをやめた殉教者めいていた。
「いい子だ」という声はウェアラブルコンピュータが発する警戒音によって遮られた。ホールが背負う硬質なボンベを避け、彼の体内に侵入した鋭利な爪は小腸と肝臓を二つに断ち、赤黒い血液が床を湿らせた。振り返ったカーマックは宙に浮きながら両足を動かしているホールを見た。カーマックが何か言ったものの、ホールはその言葉を最後まで聞くより先に頭部を握り潰された。ホールの頭部から飛び出た眼球が床に落ち、何度か跳ねてから停止した。ビリヤード球のように見事な球形をした眼球、褐色の瞳に少女の姿が映った。頭部を失い、脱力したホールの死体が壁に叩きつけられた。壁に引かれた橙色と緑色、二本の矢印に血液の線が交わった。少女は未だに姿が見えないが、明確な敵意を持つ何かが立っていると思われる場所を見た。はじめに見えたものは真っ赤な四つの点だった。それが目であることに気付いたのは、それぞれが器用に動いているからだった。あたりに溶け込んでいたモンスターが姿を見せた。二本の大きな腕を持ち、やや短い脚。盛り上がった肩の上部からは数本、毛が生えていた。異教の神による気ままな刑罰によって皮膚と肉体を逆さまにされた民の成れの果てのようだった。モンスターの四つの目が少女を捉えた。丸い眼球の縁に朱色の点が見えた。少女は眼球に映る自身の赤らんだ姿を可笑しく感じ、笑みを浮かべた。怪物が片側二つの目を瞑り、少女も目を瞑った。そうすることが当然のことのように感じられたから。少女の額に鼻息が吹きかけられた。そして、重い足音、力任せに爪が床を引っ掻く音が遠ざかった。
目を開けた少女はカーヴを描く廊下を見た。空気が行き交う音は彼女を誘惑していた。彼女は唇を噛み、床を湿らせているホールとカーマックの血液を見た。床は真っ赤な涙を流していた。少女は死体と血液の河を飛び越え、床に散らばる薬莢を踏まないように注意しながら歩き出した。
〈つづく〉
