ファイナルレッスン in Cebu|A Cup of Life
A Cup of Life
I am here.
6週間のファイナルレッスン。
私はティーチャーHiと、40分ほど、この6週間の感触を言葉にしていた。
セブでの日々。
英語を学ぶこと。
自分の内側で起きていた変化。
静けさ。
ゆるみ。
そして、まだ言葉になりきらない何か。
そんなことを話していた時間の中で、ティーチャーHiが一枚の絵を描いてくれた。

人生を、一杯のドリップコーヒーに見立てた絵だった。
その絵を見たとき、これはただの説明ではなく、人生そのものの比喩だと感じた。
私たちはそれぞれ、自分の中に“フィルター”を持っている。
そこに、人生の出来事や経験が、コーヒービーンズのように置かれる。
そして、お湯が注がれる。
そのお湯は、いつも同じではない。
世界から注がれてしまうものもある。
自分で注ぐものもある。
誰かが、その人を想って静かに注ぐものもある。
そうして、フィルターを通って抽出されたものが、一杯のコーヒーになる。
私は、それをその人の「真(心)」だと感じた。
出来事そのものが、その人を決めるわけではない。
何が起きたかだけで、人生の味が決まるわけでもない。
大きいのは、
その出来事が、どんなフィルターを通ったかだ。
恐れのフィルターを通れば、世界は苦く、硬く、狭くなるかもしれない。
不足のフィルターを通れば、どれだけ恵まれていても、足りなさばかりが残るかもしれない。
比較や承認のフィルターを通れば、本来の香りは消えて、誰かの評価に合わせた味になってしまうかもしれない。
でも、Hiはこうも言っていた。
フィルターは取り替え可能だ。
この一言が、私の中に深く残った。
私たちはつい、自分が通しているフィルターを「自分そのもの」だと思ってしまう。
でも、それは本質ではなく、世界を通すための道具なのかもしれない。
もしそうなら、人生を変えるとは、出来事を全部変えることではない。
もしかするとそれは、
人生を通すフィルターを変えること
なのかもしれない。
これは、いま私が大切にしているConscious Life Transition
とも重なる。
生き方を変えるということは、派手に何かを壊すことではなく、静かに、自分がどんなフィルターで世界を見ているのかに気づき、必要ならそれを交換していくこと。
それだけで、同じ人生でも、味は変わっていく。
ここまで考えたとき、さらに浮かんできたイメージがある。
世界には、たくさんのカップが並んでいる。
一杯一杯、全部違う。
苦味の強い一杯もある。
甘さが際立つ一杯もある。
軽やかな酸味の一杯もある。
深いコクを残す一杯もある。
同じものは、ひとつもない。
でも、だからこそいい。
みんなが同じ味になる必要はない。
むしろ、違う一杯を持ち寄る世界の方が美しい。
そのテーブルは、どこにあるのか。
私の中では、そのテーブルは Earth だった。
地球そのものが、たくさんのカップが並ぶ大きなテーブル。
人はそれぞれ、自分の一杯を持ってそこにいる。
文化も違う。
経験も違う。
価値観も違う。
抽出される味も違う。
それでも、そこに並んでいい。
否定し合うためではなく、比べ合うためでもなく、ただ持ち寄るために。
そして、ここまで考えていった先に、ひとつの言葉が残った。
I am here.
いまの私には、これがいちばんしっくりくる。
何かを証明するためでもなく、
何者かになるためでもなく、
正解をつかみにいくためでもなく、
ただ、ここにいる。
ここにいて、自分の一杯を淹れている。
いまの私は、まだ人のカップを並べている感覚はない。
でも、自分のコーヒーを淹れながら、無意識のうちに、人に愛情を注いでいる感じはある。
それで十分なんだと思う。
無理に何かにならなくていい。
先に役割を決めなくていい。
まずは、自分の一杯を丁寧に淹れること。
するときっと、その香りに惹かれて、誰かが隣に座る日がくる。
その人もまた、自分の一杯を持ってくる。
そうしていつか、地球というテーブルの上に、たくさんの人生が並んでいくのかもしれない。
ティーチャーHiが、あの40分の対話の中で描いてくれた一枚の絵は、私にとって、6週間の学びのまとめ以上のものになった。
それは、これからの人生を見つめるための、静かなメタファーになっている。
人生は、一杯のドリップコーヒーのようなもの。
何が入るかも大事だけれど、どんなフィルターを通るかで、味は変わる。
そしてそのフィルターは、交換できる。
だから今日も、自分の一杯を淹れてみる。
焦らず。
比べず。
証明せず。
ただ、
I am here.
With gratitude to Teacher Hi.
