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正解探しの癖に、問いが与えられた朝

I feel like I’m slowly letting go of my habit of looking for the right answer.

――中道に立つという、静かな選択

2月8日(日)の夜、
僕は「ありたい姿」として選択し、握りしめていた関わりを、ひとつ手放した。

そのせいか、
上手く寝つけなかった翌朝、
小さな不安や恐れの感触が、
体の中を流れすぎていくのを感じていた。

同時に、何かが始まりそうな、
そして、すでに動き始めているような予感もあった。

セブでの日々は、とてもスムーズに進んでいた。
穏やかで、安定していて、特に困ることもない。
得たかったものが満たされている感覚。

けれど、日曜日の夜。
日本とオンラインでつないだあと、
久しぶりに、心がはっきりと揺れるのを感じた。

そこから、今朝を迎えていた。



今朝、目が覚めたとき、
こんな言葉が、順番に浮かんできた。

「自分は、いつも自分のありたい姿を選択してきた」
「どんな選択にも、得られることと、得られないことがある」
そして、
「だから、中道なんだな」

ぼんやりと、でも確かな感触を伴って。



少し立ち止まって眺めてみると、
これまで使ってきた言葉たちに、違和感が見えてきた。

「ありたい姿」は、
もしかすると、
あるべきだと信じ込んでいた姿だったのかもしれない。

「選択」は、
自由な決断というより、
自分を矯正し、縛る行為になっていたこともあった気がする。

何かを選べば、何かを捨てる。
正解を選べば、間違いを避けられる。
そんな前提の中で、
ずっと選び続けてきたようにも思う。



でも、自然界を見渡してみると、
どんな現象も、
必ず「陽」と「陰」の両方の影響を含んでいる。

光があれば、影があり、
前に進めば、同時に何かは手放される。

得ることと、失うことは、
最初からセットだった。

それなら、
「正解」を選び続けること自体が、
少しズレていたのかもしれない。



今朝、ふと腑に落ちたのは、
中道に立つという感触だった。

どちらかを選びにいくのではなく、
どちらにも傾きすぎない場所に、ただ立つ。

中道に立つと、
物事の影響に振り回されにくくなる。

外の評価でもなく、
期待でもなく、
「こうあるべき」でもなく。

自分の内側にある、
微細な直感や感性に、自然と耳を澄ませられる。



中道に立つというのは、
何もしないことではない。

むしろ、
現れてくるものを、そのまま受け入れていくことに近い。

受け入れる、というのは、
我慢することでも、耐えることでもない。

中道から受け入れるというのは、
流れに身を委ねること。

選ばなくても、
決めなくても、
流れは、ちゃんと進んでいく。



最近、
言葉に頼りすぎていたことにも気づき始めている。

覚えてきた言葉。
使いこなしてきた概念。
説明できる自分。

それらが、
知らないうちに、
感性よりも前に立っていたのかもしれない。

今は、
言葉を足すよりも、
言葉を手放すタイミングなのだと思う。



正解を探しの癖にヒントを得た朝。

正解の代わりに、
ごきげんな光を胸に抱いて、
ナチュラルに過ごしてみる。

何かを決めなくても、
何者かにならなくても、
中道に立っていれば、
必要なものは、ちゃんと現れてくる。

そんな感触を、
今朝は、静かに味わっている。

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