上手いか下手かの前に、私がいる
最近、ダンスしたい自分がいる。
歌いたい自分もいる。
でも同時に、
すぐに声が立ち上がる。
「上手いの?」
「下手じゃない?」
「人前ではやめたほうがいいよ。」
ああ、評価の世界だなって思った。
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上手い/下手。
出来る/出来ない。
僕はずっと、
この軸で自分を扱ってきた気がする。
やりたい気持ちが立ち上がる。
その上に、評価を乗せる。
下手だからやらない。
それで、何となく納得する。
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でも、ふと立ち止まった。
そんなに“上手いこと”って大切なんだろうか。
人に見せるダンスなら、
心地よいほうがいいのかもしれない。
でも、自分として踊ることに、
評価は必要なんだろうか。
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評価が外れた瞬間、
身体がゆるんだ。
そして、不思議と立ち上がった。
力が抜けるのに、
エネルギーが湧く。
縮こまっていた何かが、
自然に伸びる感覚。
ああ、評価の前に、
もう“私”は在るんだ。
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評価は消えない。
社会の中では、
基準は必要だ。
でも、それを主語にしなくていい。
「上手いかどうか」より前に、
「踊りたい私」がいる。
「出来るかどうか」より前に、
「歌いたい私」がいる。
評価は後から乗るもの。
存在は、先に在るもの。
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評価を主語にすると、
身体は少し縮む。
存在を主語にすると、
身体は自然に立ち上がる。
僕は今、
評価を手放すのではなく、
扱い直そうとしている。
基準と共生する。
でも、主導権は渡さない。
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上手くなくても、踊っていい。
整っていなくても、歌っていい。
評価の外に出るというより、
評価より前にある自分に立ち戻る。
そのとき、
身体はちゃんと教えてくれる。
今日はその記録。
