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雑記『百年の孤独』②(p35~62)ーー愛は時空を超える

第1章において「偉大な文明の利器を求め(p62)」た遠征で発見しそこなった道が、第2章の終わりに偶然見いだされることになる。

それは、出奔した長男ホセ・アルカディオの探索に出ていたウルスラの帰還に伴うものだった。

しかし、彼女は夫ほどうれしそうな様子は見せなかった。一時間ほど留守にしていただけだとでもいうように、ふだんのキスをして言った。
「ちょっと外をのぞいてみてよ」
通りに出て大勢の人間を見たホセ・アルカディオ・ブエンディアは、しばらく動揺から立ちなおれなかった。それはジプシーではなかった。(中略)彼らがやって来たのは、毎月のように郵便物が届けられ、いろいろと便利な機械が知られている、徒歩で二日がかりの低地の向こうの土地からだった。

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p62)

このように、本章でもマコンドの「外」への言及が見られる。そして、「外」から帰ってきたウルスラは、「村では見たこともない新しい型の服を着て、すっかり若返り、いかにも元気そうだった(p61)」。

前項において、毎年3月にマコンドを訪れるメルキアデスがそのたびごとに急速に老け込んでいったのは、マコンドの重力が強いからではないかと述べた。ウルスラの若返りは、これに逆行するものだ。

前項でも引いた、映画「インターステラー」に頼ろう。

この映画は重力と時間について、相対性理論や量子力学をベースに語られる。そのストーリーの背景にあるのは、地球環境の悪化である。

劇中、穀物を育てられないほどに荒廃を続ける地球を離れ、新天地を求めて恒星間航行(Interstellar travel)が計画される。この大規模な「移民」のネックになるのが、巨大な宇宙船兼居住空間(スペース・コロニー)の打ち上げおよび航行である。

物質が地球の重力を脱する速度を第二宇宙速度といい、打ち上げ時には秒速11.2kmまで達しなくてはならない。大質量のスペース・コロニーを、この速度に乗せることが第一関門だ。

さらに太陽系を脱出するための速度を第三宇宙速度と呼ぶが、現代の惑星探査機も、天体の重力を利用する「スイングバイ」という技術でこの速度を達成する(映画の中でも、主人公が宇宙船をブラックホール(!)の重力でスイングバイする場面が出てくる)。

つまり、重力の呪縛を逃れるためにはその力を上回る速度が必要だし、その速度を得るためには、より強い重力を利用するか、重力そのものを操作できなければならない。

映画においてNASAが画策しているのは、後者の重力制御である。なぜなら、地球上(1G)から大質量宇宙船を既存技術の推進力で第二宇宙速度に乗せるには、宇宙船自体を「軽く」する必要があるからだ。

前項で触れたとおり、「インターステラー」には重力が非常に強い惑星での1時間が、地球上の7年に相当するという描写が出てくる。

実際、マシュー・マコノヒー演じるクルーらは、この星で起きたアクシデントによって、地球時間で23年間を失う。その間も母船に定期的に届けられ続けていた地球の家族からのメッセージは、娘の23年分の成長とともに、地球環境のさらなる悪化と、それに伴う父・クーパー(マコノヒー)への不信(まだ帰ってこないの?)が影を落とす。

この描写はいわゆる「ウラシマ効果」に基づいており、子供が親よりも歳を取るという思考実験を見事に映像化したものと言えるだろう。

しかし、注意をしたいのは、父・クーパーは決して若返っているわけではないということだ。

彼は彼の置かれた状況において、微妙にではあるが歳を取っている(3時間強)。強い重力下で、時間はその歩みを緩める一方、不可逆であることには変わりないからだ。そう考えると、「マコンド」の重力を離れたウルスラが「すっかり若返」ったことは、やはり尋常ではない。

そもそもが本作に尋常さを求めてはいけないのかもしれない。しかし、この後のウルスラの長寿を考えると、放置してはおけない問題ではあろう。

本稿では「マコンド」の重力が非常に強いゆえ、外の世界に比べて時間の歩みが遅いと考える立場をとっていた。毎年訪れてくるメルキアデスが、そのたびに老け込んでいるのに対し、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが素手で(!)馬を倒せるくらい若々しいのがその傍証だった。

一方で、マコンドに住む者が時間に逆行して若くなるという描写は出てこない。むしろ、若くなるのは「外」からやってくるメルキアデスのほうであった。

そういうわけで、村じゅうの者がテントまで出かけていき、一センタボのお金を払ってなかをのぞくと、歯がぴかぴか光る新しいものに変わり、皺(しわ)も消えて、もとに返った若々しいメルキアデスがそこに立っていた。(中略)メルキアデスが歯ぐきにはめ込まれた歯をそっくりはずしーー彼はつかの間、昔の老いさらばえた男に返ったーーちらと一同に見せてからふたたび歯ぐきに当て、よみがえった若さを十二分に意識したにこやかな表情に戻った(後略)

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p19)

メルキアデスが若返ったのは、なんと「義歯のからくり」のおかげだった。

若返りという「超自然的な力」が「想像を絶する極限に達した」メルキアデスの知識によるのかと思ったホセ・アルカディオ・ブエンディアは、ネタあかしに「内心ほっとした(p19)」。

しかし、この「簡単だがすばらしいこのからくりに心を奪われて、彼は錬金術にたいする関心を一夜にして失(p19)」い、「文明の利器と接触させる道をひらくため(p22)」の「遠征」を試みることになるのはすでに見てきたとおりだ。

ここで注目したいのは、再三登場する「文明の利器」と、メルキアデス自身がもたらした「錬金術」が別物として扱われていることだ。

たしかに錬金術は、現代の視点からすると荒唐無稽だ。しかし、メルキアデスがもたらしたのは、磁石、レンズ、天体観測用の器具と地図など、いわゆる「正しい科学」に属するものであった(「進歩の使者(p53)」)。「金を倍加する方法」にしても、彼の工房にあった化学実験の道具や資料の中のひとつであり、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが勝手に研究を進めたものであった。

そしてもうひとつ忘れてはならないのが、ホセ・アルカディオ・ブエンディアによる「遠征」は、メルキアデスらジプシーの助けを借りることなく行われていることだ。

つまり「文明の利器」とは、ジプシーのもたらすものと対置される。少なくとも、ホセ・アルカディオ・ブエンディアはそのように考えている。第2章において「新手のジプシー(p31)=単なる慰安の行商人(p53)」がもたらしたのが「空飛ぶ魔法の絨毯(じゅうたん)(p53)」であり、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは「もっと科学的なやり方で、やつらよりうまく飛んでみせる(p55)」と発言しているのは興味深い。

メルキアデスが提供していたものが「正しい科学」であるのに対し、「新手のジプシー」が持ち込むものが魔術的(氷すら「ただ珍しい見世物として披露した(p53)」)だという対比があるのだが、ホセ・アルカディオ・ブエンディアにとっては、ジプシーのもたらすものの反対のものが科学的なものなのだ。

そう考えてくると、メルキアデスの入れ歯もただの義歯ではない。少なくともホセ・アルカディオ・ブエンディアにとっては、メルキアデスやジプシーが持ち込むものとは別口の、奇跡を起こす魅力を感じさせる何かが「文明の利器」なのだ。

事実、ジプシーら自身、メルキアデスの若返りを「ナチアンツの人びとの脅威の発見(p19)」という口上をうたっていた(ナチアンツとは、注解によると「古代小アジア、カッパドキア地方の町」)。その真偽はともかく、ホセ・アルカディオ・ブエンディアはそういった外部の町へ独自にアクセスする方法を模索し、挫折したのだった。

しかし、ウルスラの帰還は外部の町へのアクセスをあっさりと実現する。ホセ・アルカディオ・ブエンディアが望んでいたことが、一気に二つ実現する。それはなぜか?

失踪からおよそ五カ月たったころ、ひょっこりウルスラが戻ってきた。村では見たこともない新しい型の服を着て、すっかり若返り、いかにも元気そうだった。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはショックに耐えるのが精いっぱいだった。「これだ!」と大声をあげた。「こうなると思っていたんだ」。噓ではなくそう思っていた。というのは、何時間も部屋にこもって原料をいじり回しているあいだも彼は、その心の奥底で、自分の待ちのぞむ奇蹟が、賢者の石の発見でも金属に生命を与える霊気の作用でもなく、また、家じゅうの蝶番や鍵(かぎ)を黄金に変える力でもなくて、たったいま起こったこと、つまりウルスラの帰宅であることを祈っていたからだった。

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p61〜62)

ウルスラが出て行って「数カ月たったころから(p60)」、「物のお告げと解釈(p61)」できる怪異がブエンディア家を見舞っていた。これらが「待ちのぞむ奇蹟」の前触れであると、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは確信していた。

上記引用で「待ちのぞむ奇蹟」ではないとされているものが、アルレリャノとともに再開した錬金術の成就がもたらすものであることは注目に値する。つまり、ウルスラの帰宅と若返りはジプシー由来のものではなく、「文明の利器」に通じるものがもたらしたものなのだ。

では、ウルスラの帰宅と若返りが成ったのはなぜか。

ずばり、「愛」によるのだろう。
再び「インターステラ―」に頼ろう。同作には相対性理論を下敷きにした描写が多数みられるのは、今まで見てきたとおりだ。

相対性理論が描く宇宙において、もっとも速いもの。それは「光」だ。この世界に光速(秒速約299,792km)を超える速さは存在しない。

だが、時空、つまり時間と空間は、重力により伸び縮みするのだった。つまり重力によって光は曲がる。光は2点間を直線で進まないことがある。

2点間を最速、最短距離で結ぶもの。それは「愛」しかない。

Love isn’t something we invented. It’s observable, powerful, it has to mean something… Love is the one thing we’re capable of perceiving that transcends dimensions of time and space.

愛は我々が発明したものではない。愛は観測可能であり、力強く、何か意味があるものだーー愛は、時間と空間を超える唯一のものなのかもしれない。

上記は「インター・ステラー」の登場人物・アメリア(アン・ハサウェイ)によるものである。

アメリアは生物学者であり、決してオカルトなことを言っているわけではない。

つまり、こういうことだ。
愛する者を頭に思い浮かべるとき、まさに瞬時にその人の顔が浮かぶはずだ。そのイメージを延長していけば、必ず物理的に対象へ行き着く。

愛は時間と空間を超越する。つまり重力の影響を受けない。これは距離の離れたもの同士が「念力」で引き合うという、遠隔作用説の最たるものであろう。ノーラン監督は、最新の物理学に下駄を預けながら、じつはマジック・リアリズムに接近しているのだ。

ともかく、ウルスラをマコンドに帰還させたのは、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの愛であった。

そして、愛が重力の影響を受けないとするなら、「マコンド」の重力が生む内と外の時間の流れの差異をキャンセルすることができる。これこそが愛の力であり、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが求めていたものだった。

このように、ガルシア=マルケスは第2章にしてメインテーマ「愛」の核心にぐいぐい迫っている。

と同時に、本章では対となるもう一つのテーマ、「孤独」も現れている。順を追って見ていこう。

女は、彼が来るとは思っていなかったようだった。いつも女の肌に感じられる、ほのかだが絶対に間違いようのないあの体臭が家じゅうにこもっていなければ、それをたよりに進むことができたかも知れない。この孤独の奈落(ならく)の底にどうして落ちることになったのかといぶかりながら、しばらくじっと立っていると、指をひろげた一本の手が伸びてきて暗闇をさぐり、顔にさわった。

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p47〜48 ※太字引用者)

上の引用は、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの長男ホセ・アルカディオが、「家事の手伝いもすればトランプ占いもするという、口は悪いが男好きのする商売女(p44~45)」・ピラル・テルネラの寝所を初めて訪れたときの描写だ。

続く性行為の場面でも、「孤独」のフレーズが繰り返される。

もっとも、足や頭がどこへ行ったのか、どの足が自分のもので、どの頭が相手のものなのか、さっぱり見当もつかなかったので、どんな具合にそれが行われたかはついにわからずじまいだった。腎臓(じんぞう)の冷えた水音、腸を駆けめぐる風、不安、逃げだしたくもあるが同時に、このいらだたしい静寂と恐ろしい孤独のなかに永久にとどまっていたいと思う矛盾した気持ち。それらにもはや耐えられなくなっている自分を彼は感じていた。

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p48 ※太字引用者)

なぜ、よりにもよって、この場面に「孤独」が使われるのだろう。ホセ・アルカディオの生い立ちに沿って見ていこう。

妻ウルスラの「少しは子供たちの面倒をみたらどうなの(p28)」のひと言で、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが息子二人を「発見」したことは、前回見たとおりだ。それまでホセ・アルカディオとアウレリャノ少年の兄弟は、ホセ・アルカディオ・ブエンディアにとって不可視の存在だった。

存在しないのだから、この時点では孤独も何もない。しかし、「早くから錬金術についてまれにみる勘の良さを示していたアウレリャノ」に対して、「若いホセ・アルカディオはほとんど仕事を手伝おうとしなかった」。

またもや不可視の存在になりかけたホセ・アルカディオであるが、「堂々たる体格をした若者(p44)」に長じたその裸体を、生母ウルスラが目の当たりにしてしまう。

裸の男を見るのは夫についでこれが二度めだったが、息子は異常ではないかと思われるほどみごとな体をしていた。折から三度めの妊娠中であったにもかかわらず、ウルスラはあらためて花嫁の不安を感じさせられた。

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p44)

ここにはすでに一族を惑わせる近親相姦の萌芽が見られる。

実際、ホセ・アルカディオのほうも、暗闇の中でピラル・テルネラと事におよんだときに、ウルスラの顔が浮かんでしまう。

女の顔を思い浮かべようとすると、ウルスラの顔が目の前にちらついた。彼は漠然とではあったが、ずいぶん前からしたいと思っていたことを、だが実際にはできると考えてもみなかったことを、げんにしているのだと意識した。

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p48)

つまり、ホセ・アルカディオの孤独とは、母ウルスラとは交われないという絶望のことだ。

と同時に、ピラル・テルネラと交わっているときに生じた「恐ろしい孤独」には、性交相手との合一のなかで、彼我の足と頭の区別もないくらいに融合しているがゆえの寂しさが描かれている。相手と一つになったとき、相手はいない。だから孤独なのだ。

そう考えると、母親と合一化するよりも、他の女と交わって母の顔を浮かべるほうが、ホセ・アルカディオにとってはよいのかもしれない。

それは先述のように、「愛」が思い浮かべるだけで最速でイメージを招くことにもつながる。ピラル・テルネラの暗闇に満ちた「迷宮めいた部屋(p49)」はその舞台にふさわしい。さらに彼女は「息をこらし心臓の鼓動を抑えることを教え、人間がなぜ恐れるのかを理解させてくれた(p49)」。

さて、ピラル・テルネラとの逢瀬に夢中になっていたホセ・アルカディオは、父ホセ・アルカディオ・ブエンディアと弟アウレリャノ少年が、炭に化けていたウルスラの金貨を復元させたことで、家中が上を下への大騒ぎをしていることにも気づいていなかった。

(ホセ・アルカディオ・ブエンディアは)取り戻した金をおさめた壺(つぼ)をみんなに披露した。(中略)いちばん最後に、近ごろ工房へとんと顔を見せない長男(ホセ・アルカディオ)の前にやって来て、からからに乾いた、黄色っぽい塊をその鼻先でちらちらさせながら聞いた。「何だと思う、これを?」ホセ・アルカディオは本気で答えた。
「犬のくそだろ」
父親は手の甲で、血が吹き出し、涙がこぼれるほど強く、彼の口のあたりをなぐった。

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p50)

この件は、ホセ・アルカディオの心に「父親に対する激しい怨(うら)み(p51)」を生じさせている。

しかし、この怨みは、殴られたことだけに向けられているのではあるまい。ウルスラを独占しながら、錬金術にうつつを抜かしている父親に対するねたみと怒りが同居している。父親の過剰な暴力も、自身に向けられた息子の嫉妬とさげすみを感じ取ってのものだったというのは考え過ぎだろうか。

そもそも近親相姦に対する忌避は、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラが結ばれる前には存在しなかった。いとこ同士とはいえ、「何百年も前から血をまじえてきた両家(p36)」なわけだから、何をいまさらといったところだろう。

しかし、「栓抜きのような形をして先端にぽさぽさと毛のはえた軟骨のしっぽ」を有した「恐ろしい先例(p37)」が繰り返さないよう、ウルスラの母親は過剰反応し、あろうことか娘に貞操帯を授け、しっぽの生えた子供の誕生を阻止しようとした。夫妻は「愛の行為にかわるものになったと思われる切なさ、激しさで」、「何時間ももみ合(p38)」うのみであった。

結果的にこの事態を動かし、哀れな犠牲者となったのがプルデンシオ・アギラルであった。闘鶏の賭けで敗けたプルデンシオ・アギラルは、夫妻の夜の営みをからかい、逆上したホセ・アルカディオ・ブエンディアに手槍でのどを射貫かれ、絶命する。

ホセ・アルカディオ・ブエンディアは血のしたたる槍を持ったまま寝室へ向かい、妻に貞操帯を取れと命じる。

彼は高びしゃに言った。「今すぐ、そいつを脱げ!」ウルスラは夫の決意のほどを疑わなかった。「何が起こっても、あんたの責任よ」とささやいた。ホセ・アルカディオ・ブエンディアは床に槍を突きたてて言った。
「お前がイグアナを産んだら、二人で育てればいい。しかし、お前のせいで村からまた死人がでるようなことは、絶対にさせないぞ!」

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p39~40)

これはなかなか不思議な応酬である。

まず、ウルスラは近親相姦の責任を夫に転嫁する。「あなたは今から私をレイプすると言っているけれど、わかっている?」といった態度だ。これに対して、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは、共同体に死人が出るような事態を天秤にかける。いわばこれは、禁忌を破るうえでの二人の契約なのだ。結果、「ふたりの一生は愛よりも強いきずなで、同じひとつの悔いによって結ばれ(p36)」る。

こののち、喉に穴を空けたままのプルデンシオ・アギラルが幽霊(?)として登場。夫妻のまわりを徘徊し始める。

はじめは「とっとと消えろ!(p440)」とどなっていたホセ・アルカディオ・ブエンディアだが、やがて幽霊(?)に同情し始める。

「あいつ、ずいぶんつらい思いをしているらしいな」と、彼はウルスラに話しかけた。「ひとりっきりで、きっと淋しいんだ」。

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p41)

ここにもひとつの孤独の形がある。そして、プルデンシオ・アギラルに「できるだけ遠くへ行って二度と戻ってこない」と告げて始まった旅の途上で誕生したのが、長男ホセ・アルカディオである。

そして先に見てきたように、まるでプログラムが自動的に起動するように、ホセ・アルカディオも近親相姦のループにまんまと入り込む。しかし、ホセ・アルカディオは父ほどの激情に駆られたり、妙な理屈をでっちあげることはなかった。

にもかかわらず、事態は進む。ピラル・テルネラが妊娠したのだ。

「あんたももう一人前ね」。自分の言おうとしていることが相手に通じないのを見て、嚙(か)んでふくめるように言った。
「あんたに、子供ができる、ってことよ」

(『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p54)

これはまあ、時代や地域を問わず、重大な責任が問われる事態であるわけだが、ホセ・アルカディオもご多分に漏れず「例の気がかりから逃れることができなかった」。「食欲も睡眠も失って、時おり仕事に失敗した父親が見せるような不機嫌な状態に落ちいった(p55)」。「それまでの率直さを失っていた。何でも打ち明ける気さくな人間から、内にこもりがちで反抗的な人間に変わっていた」(p55)。

ホセ・アルカディオはメンタルをやられ、人格崩壊まで起こしている(この人格の変容は、こののち彼の弟であるアウレリャノ少年(アウレリャノ・ブエンディア大佐)、そして彼の子孫であるブエンディア家の男子に繰り返されていく)。

やがて、ホセ・アルカディオはジプシーの少女と駆け落ちし、マコンドを去る。それを追いかけてウルスラは旅立ち、数か月後に文明との接触をへて舞い戻るのは最初に述べたとおりだ。

このように第2章では、第1章で触れられなかったマコンドの発祥とその因縁の始まりとともに、一族に貫かれる「愛」と「孤独」の構図がコンパクトに描かれている。

そして、さらっと書かれているが、ピラル・テルネラとホセ・アルカディオの間に生まれた私生児・アルカディオが、家系図の下半分の祖になるということを忘れてはならない。つまり、ブエンディア家における正式な婚姻による結びつきは、ここで絶たれるのである。

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