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闇 695(親父の癌と訃報編)

闇 695(親父の癌と訃報編)

2026/09/16 wed
※ピアノは格闘技へ向けた情熱を小説へ返還させる過程の接着剤だったのかもな。だから2003年で止まったままなのだろう。
前回の章


二千二十四年八月九日、金曜日大安。

目を覚ますと風呂に入り、出掛ける準備をする。

今日は休みなので、じっくり小説を書きたいところだが、前に櫻井さんからの電話で驚くべき事実を聞き、次の休みを使い地元川越に向かおうと思っていた。
出掛ける前に櫻井さんへ電話をすると、うちの親父が癌転移して入院したが、見舞いに行こうとしたら、すでに一週間前に退院したと言う。

ホームラン劇場の櫻井さんから、家族の訃報をいつも聞いて知る俺。
おじいちゃんの時も、お袋の時もそう。

本当に俺の家族は、こういった事すら連絡一つない。
完全に壊れた家系。
まあ心筋梗塞で死に掛けた時でさえ、病院へ来たのは親父だけだもんな。
これは死んでも関係など修復不可能だというようなもの。

せっかく出掛ける気満々だったので、市役所とサブ携帯電話の忘れ物を川越警察署に保管したままだったので、休みを利用して行くかと自称俳優マンションを出た。

あれ?
ちょっと思っている事、かなりおかしくないか?
少し整理してみよう。

俺が櫻井さんから親父が癌で入院したというのを聞いたのが、八月の頭だったっけ?
死なれたら嫌だなという気持ちはあったが、正直俺と親父の絆はそこまでない。
だから頭の片隅には置いてあったのに、闇を書き出しのめり込み、記憶からすっかりその事を忘れていたのだ。

それで今日見舞いには顔を出そうと思っていて、行く前に親父の状況を櫻井さんに確認したら、一週間前に退院したと言われた。

携帯電話のサブについては、でったんと本多まりの三人で町鮨とろたくへ行った三月十三日まで遡る。

あの店でサブ携帯電話を忘れた俺は、川越まで取りに行くのが面倒で、ずっと放置していた。
赤心堂病院の定期健診で、ついでにとろたくへ行けばいいやと思った程度。
しかし電話で店に確認したのに、とろたくは警察署へ落とし物として出してしまう。

つまり駅からかなり離れた川越警察署まで取りに行くのが面倒で、これだけの時間が経ってしまった感じなのである。

先日出口から送られてきた本川越駅周辺の冠水情報を見て、多少の心配はあった。
色々なものが積み重なり、今俺は地元へ向かっている。
今回は高田馬場で西武新宿線に乗り換えて終点まで。

携帯電話のでったんからメッセージに気付く。

『神田くん、威勢は良いけど、呑むと忘れちゃうのかな?  出口9:20』

何とも言えない違和感が全身を覆う。
彼の見当違いなチグハグな意見。

飲むと忘れるレベルの事じゃねえだろ。
人を選んで披露宴祝儀十万円を強要してきた件は、どう説明する?
俺の親しい人たちが立て続けに亡くなった時、飲みに行こうとしつこいから断ると、俺が何かしたかと抜かした思想はおかしくないのか?
散々くだらない金の使い方はしたくないと言ったのに、繰り返し散財させた事はどうなる?

詐欺被害発覚当日の、自称俳優の馬鹿げた騒ぎの時もそう。
どの辺が龍平の熱くていい人なんだ?

こういうところが俺にはまったく理解できなかった。
しかし関わらないほうがいいという話とは別。
同級生としては仲良く関係を保ち、こういった事の的外れな返答以外は特に問題はないのである。

シンプルに伝えるから、本当に少しは理解してくれよ……。

『いや、アイツの頭の中は、俺と岩ヤンで全部出せばいいやって思ってんたよ。  岩上11:12』

ようやく電車は本川越駅に到着。
駅前の岩上整体があった跡地に来て、とりあえず写真を撮った。

2024/08/09 本川越駅前 岩上整体跡地

現在は、あるゾウ賃貸館なんて意味不明な不動産になってしまった岩上整体と王賛の場所。
あのまま頑張って整体を続けていたら、道路拡張の立退料で金をもらえていたのになあ……。

たった三万円のファイトマネーに整体を畳む見栄の為、すべてを台無しにしてしまった。

こんな悲惨な運命を辿る結果となってしまった起因を作った同級生の内野正人。
あの馬鹿ヤクザに金など貸すんじゃなかったのだ。
地に足をつけた考えだったら、家賃を支払う分まで犠牲にしてまで人に金を貸す必要性などないのだから。

すべては自分の甘さが招いた種。

この道が冠水して大変だったようだが、もう何事もなかったかのようにとっくに乾いている。
まあまだ水が残っていたところで、俺ができる事など何もないけどね。

久しぶりに実家へ帰り、親父の顔を見て、食欲あるようなので食べたい好きなものを聞いて買いに行く。

大正浪漫通りへ向かい、加賀屋のおばさんに顔を見せ、親父の容態を中心に話をした。

あとは息子のヤスのカガヤカフェへ行くと、櫻井さんとバッタリ会う。
親父の件の情報に対しお礼を述べ、今日はこれから川越警察署へ忘れ物を取りに行く事を伝えると、わざわざ車で乗せて行ってくれると言い出す。
悪いからというのに、面倒見のいい先輩は車を出してくれた。

まずは川越市役所で保険証の手続き。
家で探すのが面倒な俺は、いつも紛失届を出し、再発行してもらう。

次に川越警察署で忘れ物を受け取る。
受付口が平日しかやってないから、ここまで時間が経ってしまったの原因の一つだ。

2024/08/09 川越警察署 サブ携帯電話

そのあとは再び櫻井さんとまことやで、カレーライスと太麵焼きそばを食べながら酒を飲み、再びカガヤカフェで飲む。
これで何軒目だ?
レストランシブヤで櫻井さんはヒレカツ単品。
俺はミートソース!

この時悲しいニュースを聞く。
シブヤのオヤジさんは数ヶ月前に亡くなってしまったらしい。
また一人亡くなってしまったのか。

さらにくらづくり本舗の中野正剛さん…、兄が衆議院議員の英幸さんの訃報も聞く。
正剛さんって、俺より四つ上ぐらいだろ?
まだ六十前なのに早過ぎるって!
脳の病気だったらしい。

このあと焼肉なんでむんへ行き、また飲んで、実家に戻り一旦軽く睡眠を取る事にする。
朝から動いていたので、少し休憩を取りたかった。

『ギョワギョワ…、地震です地震です。ギョワギョワ…、地震です地震です』

警報で飛び起きると、辺りは暗くなっていた。
新宿へ帰る前に、閉業してしまった呑龍の跡地の写真を撮りに行く。

2024/08/09 立門前通り 呑龍跡地

ひと気のない立門前通りを歩き、熊野神社の前を通る。
本川越駅に到着すると、正剛さんを思い出しながらくらづくり本舗で和菓子を買った。
先日お世話になった柏原へ、川越のお土産を持っていきたかったのである。

2024/08/09 本川越駅ビルPepe くらづくり本舗

俺がくらづくり本舗の記事をフェイスブックに書くと、正剛さんが律儀にいつもお礼のコメントくれていたんだよな……。

正剛さーん、もう一回一緒に飲みたかったよー!

もう一軒寄って行こうかな。
同級生の加藤弓枝の店スペイン料理ベントゥーラへ入る。

2024/08/09 川越市中原町 ベントゥーラ

茄子のグラタンや大好物のスペインオムレツを注文。
このお店、内装も本当に凝っているよなあ。

柏原へお土産を買ったと電話を入れると、良かったら自宅へ来ないかと招かれる。
二つ返事で了承し、通話を終えると料理が出てきた。

先日このオムレツをパクろうとして失敗したから写真に収めておこう。

2024/08/09 川越市中原町 ベントゥーラ

東武東上線川越市駅に着くと、計ったように川越特急が来る。
この電車は池袋まで、途中で朝霞台しか停まらない素晴らしい乗り物なのであった。
時代の流れって本当に素晴らしい。
西武新宿線もこれを見習え。

新大久保へ着き、土産を持って真っ直ぐ大久保通りをひたすら歩く。
よく行く北新宿公園手前の道を左折したところに、柏原のマンションはあった。

奥さんと離婚したばかりという彼は、手料理を出しながらもてなしてくれる。
酒を飲みながら時計を見ると、もう少しで十二時になるところだった。


二千二十四年八月十日、土曜日赤口。

彼の家では四種類の鳥を飼っていた。

柏原は文鳥のクーちゃんと言っていたが、おそらくこれは十姉妹。
手乗りの鳥に接するのは初めてなので、本当に可愛いし癒される。
昔飼っていた真っ白のモツに少し似ているな。

そしてオカメインコのヒーちゃん。
二回りほど身体は大きいが、とぼけた表情で幸せなら手を叩こうを囀っている。
しかし微妙に一小節多かったり妙にリズムが変で、聞いていて本当に面白い。

あとの二匹は柏原の娘が、公園で傷つき弱っていたのを拾ってそのまま育てている雀。
そして凶暴でやたら嘴で突くインコ。

何だか、また鳥飼いたくなっちゃったなあ……。

柏原の子供は全部で三兄妹。
大学卒業手前の長男に、浪人一年の次男、そして高校生の長女。
みんな初対面の俺に礼儀正しく挨拶をしてくれ、楽しいひと時を過ごしてから、自称俳優マンションへ戻った。

部屋に着くと疲れていたのかすぐ寝てしまう。

起きると料理をするのも面倒だったので、焼肉市場のランチへ行く事にした。
以前中国人の錐と、デートで使った焼肉屋。
ここのランチ安いんねん。
さあ食うで、和牛A5肉!

2024/08/10 大久保通り 焼肉市場

帰りにドンキホーテへ寄って、ヨガマットを購入。
早速広げてトレーニングをする時用に使った。

これからもうちょっとしたら仕事なのが怠い。

インカジ『レディ』の仕事を終えると、茄子の味噌炒めと焼うどんを作る。

味噌ダレは、味噌、醤油、ゴマ、ニンニク、オイスターソース、ブイヨン、砂糖を調合し、豚肉に片栗粉まぶしてバンバカ揚げていく。
強火で手早く混ぜて完成。

2024/08/10 自称俳優マンション 茄子の味噌炒め

そういえば昨日今日とまったく小説を書いていないけど、たまにはこんな風にのんびり過ごすのも悪くない。

早く王賛のマスターが作った味噌料理のあの領域の味を出せるようになりたいなあ。

今日はもうゆっくりお風呂に入ってから、すぐ睡眠を取ろうじゃないか。


二千二十四年八月十一日、日曜日先勝、山の日。

あんまり書きたくない部分なんだよね。
自分がフラれる格好悪いシーンなんて……。

でもしょうがない。
赤裸々に嘘偽りなく書くのが、自身に課した闇なのだから。

再び休みの日に、春美の店へ行く事にする。

俺はまだ彼女に、ザナルカンドを捧げていない。
近い内に、プライベートで逢わないといけない。
そんな危機感もあった。

席に着いた彼女は、相変わらず綺麗で可愛かった。
顔を見ただけで幸せな気分になる。
またそんな春美がこんなキャバクラで働くという現実に苦しさを感じていた。

「岩上さん、少し疲れているんじゃないですか?」

相変わらず春美は優しい。
そんな言葉一つで、俺は癒される。

「そう? 顔に疲れ出てた? でも春美の顔を見たら癒されたよ」
「もう、相変わらず口が上手いですね」

「そんなんじゃないって、必死だよ。まだ君にピアノを聴かせていないし、やってない事がたくさんある。まだ、君を抱いてもいないし……」

俺の台詞に春美は表情を曇らせた。

「そんな言い方は、好きじゃありません」

また春美の機嫌を損ねてしまったようだ。
ここが正念場である。
俺は覚悟を決めた。

「仕方ない。俺は春美が好きなんだから……」

「……」
「好きだから君を抱きたいっていうのは当たり前だ。もちろん心も一緒にね。知り合えて嬉しいけど、店でしか逢えないもどかしさも正直感じている。春美も俺も忙しい。やらなければいけない事があるのも分かっている。でも、俺は現状を思うと少し寂しい。だから焦っているのかもしれない。好きだから、焦るのは仕方がないんだ」

「……」

春美は無言で黙っていた。
俺は構わず話す。

「君が好きだ。何度だって言う。だからピアノだって始めた。一つの曲を完成させた。それもすべて君に捧げたかったなんだ。迷惑かい、俺の気持ち……」

「迷惑なんかじゃありません。もちろん嬉しいです。こんな私の為に岩上さんが頑張ってくれるなんて……」
「ありがとう」

「お礼を言うのは私のほうです。いつも色々してもらって……」

俺の待ち望んでいたムード。
彼女をとことん理解したかった。

頭の中ではザナルカンドが鳴り響いている。

「まだまだ…。君に色々するのは、まだこれからだよ。カクテルだって作ってあげていない。デートだって一度しかしていない。しかも最期は俺の格好悪いところを見せてしまっている。名誉挽回もしたい」

「やだ…。まだ、気にしていたんですか?」
「それだけ、真剣なんだ……」

春美は頬を赤らめた。
黙って下をうつむいている。

「すいませーん、お客さま、そろそろ延長のお時間となりますが……」

従業員が、俺たちの甘いの桃色の空間に土足で上がり込んできた。
俺はジロリと睨みつける。
いいところを邪魔しやがって。
黙って財布から一万円札を取り、テーブルの上に放った。
金を受け取り、その場からいなくなる従業員。

「駄目ですよ。お金を投げるなんて……」

春美が怒った表情で俺に言ってきた。
そういえば前も同じ事で注意されたっけ。

優しいだけでなく、こういうしっかりした一面もあるんだ。
注意された事すら心地良く感じる。

「ごめんよ。以後、気をつけるよ」
「ええ、そのほうがいいですよ。粗末に扱わないほうがいいです」

俺が謝ると、春美はにっこり天使の微笑みをプレゼントしてくれた。

「でも、岩上さんって凄いですよね」

「何が?」
「バーテンダーってだけでも凄いのに、ピアノにまで弾けるようになっちゃうなんて…。私は何もできませんから」

罪悪感を覚えた。
そう、俺は春美に対し、バーテンダーだと一つだけ嘘をついている。

今、裏稼業ゲーム屋の仕事をしているなど、口が裂けても言えやしない……。

「酒の事に関しては、俺はとても大事な事として、とらえているからさ。ピアノに関しては前にも言ったろ。春美…、君と出逢えたからこそ、俺はピアノを聴かせたいと思ったってね。他の連中など、どうでもいい。君さえ聴いてくれればいいんだ」
「私のどこが、そんなにいいんですか? 私には分かりません……」

「どこがって全部さ。顔立ちも、性格も髪型も、目も鼻も唇も耳も、目の下のホクロもすべてが気に入っている。何よりも君の存在そのものが好きだ。君の声は俺を優しく癒してくれる。反対に君がその気になれば、俺を簡単に傷つける事もできる。どんなものにも代えられない世界でただ一人の大切な人なんだ」

「……」
「どうしたの?」

「恥ずかしいです…。そんな事、言われたら……」
「そっか。でも、どんどん恥ずかしがってほしい。俺はそんな君の表情も大好きだよ」

「もう…。話題変えましょう……」

プチトマトのように真っ赤な顔をした春美。
ここが店なのかじゃなければ、抱き締めたいぐらいだった。

「少し私の兄に似てるんです。岩上さんって……」
「顔?」

「いえ、考え方というか…、持っている雰囲気というんですかね…。上手く言えないですけど」
「どうだろう。でも、俺はね。春美がここで働いているのを知りながら、怒るだけの兄って違うと思う。自分は就職だって決まってないのに、春美を責める兄貴は馬鹿野郎だ。あと、俺に好きだとちゃんと言ってくれない春美も馬鹿野郎だ」

どさくさに紛れて我ながら、とんでもない事を言ったものである。

「そうですね…。でも、ここじゃ、言いたくありません」
「ありごとう。それだけで俺は満足だよ」

キャバクラとは本来、客と女の騙し合いの場所である。
男は女とセックスしたいが為に金を使う。
女は男から上手い具合に心を切り売りして金を貢がせる。

ただ例外だってあるだろう。
俺はその例外の一つになりたかった。

こんな場所だって、ちゃんとした恋愛ができる。
俺は春美と出逢ってそう感じた。
いや、そう思いたいというほうが適切か。

いい雰囲気のまま、俺は店をあとにした。

ここまでは良かったのだ。
ここまでは良かったのだよ。
おいおい、ザクとは違うのだよみたいな言い方すんなって。
うぅ……。

ああ、辛いよな。
悲しいよね。
でも書け。

仕事へ向かう途中、春美へメールを入れた。

今日の内容は一味違う。
この間春美との話し合いで、俺はある確信があった。

そろそろちゃんと付き合ってもいいだろう。
そんな想いが日に日に強くなっている。
春美は俺に好印象を抱いてくれている。
それについて自信があった。

だからいい意味でメールを送ろう。
何度も俺の気持ちは伝えたつもりだ。

『これから仕事だよ。今日は雨が降って嫌だね~。春美と相々傘をしながらなら、きっと楽しいんだろうね。春美、突然だけど、俺と付き合ってほしい。好きだというのは言った。ただ、君とどうしたいかをちゃんと言ってなかった。俺と正式に付き合ってほしい。君は俺の宝物だ。それでは仕事へいってきます 岩上智一郎』

送信ボタンを押すと、心臓がドキドキした。
焦りはあったが、タイミング的にちょうどいいと思う。

久しぶりに電車から見える外の景色に、目を向ける事ができた。
いつも見慣れているはずの景色が新鮮に映る。
この駅と駅の間には、こんな田舎っぽい部分もあったのかと、改めて感じた。

新宿に着いても、春美からの返事はまだ来ない。
いつもならさほど気にならない事が、今日はピリピリしている。
心に余裕がないのだ。

まだメール送って一時間も経ってないだろ?
落ち着けよ。
自分へ言い聞かせるも、仕事中ずっとソワソワしていた。

奥の休憩室へ向かう。
俺は早速メールが来ていないかチェックしてみた。

「……!」

春美から待望のメールが届いている。
思わず心が躍った。

疲れきっていた精神がシャキンと回復する。
男って本当に単純な生き物だ。
悲しいぐらいに……。

『岩上さん、メールありがとうございます。岩上さんの気持ち、とても嬉しいしく思います。でも今の私は学業、アルバイトとプライベートの時間も少なく、ある自分の目標というか目的もあります。まだ、それについては実現していないし、まだ目標の段階なので詳しくは言えません。私の現状が忙しくいっぱいいっぱいなのです。もう少し考えさせて下さい。時間を下さい。お願いします。私のわがままかもしれませんが、本当に余裕がないのです。 品川春美』

春美にしては長いメールだった。
俺は何度も何度も読み返す。
彼女の気持ちがよく理解できないでいた。

忙しいのは分かる。
俺だってそれは同じだ。
だからこそお互いを支え合っていきたい。
何故そう言ってくれないのだ?

ある目的……。

確か初デートの時も言っていたが、何も言わないんじゃ俺には分かるはずがない。
知り合って三ヶ月以上は経っている。
俺はピアノをまだおまえに捧げてないんだぞ。

俺の何が不満なんだ?
神経がピリピリ苛立っていた。

仕事を終え、ずっと帰りながらも春美の事を考える。
とりあえず寝て一旦落ち着こう。

しかし起きて風呂に入っても、イライラ感はまるで無くならない。
出勤時間よりも早く家を出て、近くの焼鳥屋へ入る。
俺はウイスキーのストレートとチェイサー代わりにレモンハイを注文した。

飲む事で落ち着かせたかった俺は何杯もお代わりをして、胃袋へ不味い酒を流し込む。

「お兄さん、酒強いんだね~」

捻りハチマキを頭に巻いた店のオヤジが声を掛けてくるが、無視をする。
今の俺はそれどころじゃない。

春美からのメールを何度も読み返したあと、メールを打ち込んだ。

『春美、心して返事してほしい。イエスかノー。俺が聞きたいのはどっちかなんだ。それぐらい真剣に聞いている。お茶を濁したような言い方はしないでほしい。俺は君の本心が聞きたいんだ。 岩上智一郎』

もう一度ウイスキーを一気飲みしてから俺は、メールを返信した。

目の前へある焼鳥をがっつきながら食べる。
すると春美からの返事が届いた。

『ごめんなさい。岩上さんが私の気持ちを理解せず、そのような事を言うのなら、私たちもう逢わないほうがいいみたいですね。何かガッカリしました。 品川春美』

携帯を持つ手が震える。

何だ、このメールは……。

何故、こうなるんだ?
俺が悪いのか?

違うだろう。
春美は何故こんな事を言ってくるのだろう。
この間までうまくやってきたじゃないか。

それとも他のキャバ嬢みたいにいい加減な子だったのか。
俺を都合のいい客として、心の中でせせら笑っていたのか。

頭の中で色々考えたが、ネガティブな発想しか浮かばない。

「何だい、お兄さん。顔が青褪めてるぞ。ちょっと飲み過ぎじゃないのかい?」

店のオヤジがまた声を掛けてくる

「うるせえ! 少しは黙ってろよ」

「……」

シーンとなる店内。
回りの客は一斉に俺を見ている。

「すみません、少し苛立ってました……」

別にこのオヤジが悪い訳じゃないのに俺はどうかしている。
こういう時こそ落ち着かなきゃ駄目だと自分に言い利かせた。

会計を済ませ、外に出る。

先ほど届いた春美からのメールを何度も読み返した。
もう終わりだと言うのか?
何故だ……。

すっかり熱くなった頭が感情を暴走させる。
俺は返信メールを打ち出した。

『分かったよ。とても残念だ…。春美の本音がよく分かったよ。俺にもっと真剣に向き合ってくれてると思ったよ。俺の単なる自惚れだったみたいだね。まあ、君の本音が聞けて良かったよ。だったらもっと早く言ってくれよ。無駄な時間、使わなくても良かったのに……。 岩上智一郎』

あえて酷い内容を書いた。
頭の中を血が激流のようにグルグルと回っている。
ヤケクソだった。

こいつもしょせん、他のキャバ嬢と同じだったなんだ……。

ふざけやがって……。

言いようのない怒りが全身を覆う。
打ったメールを送ろうとした。
でも、送信ボタンを押せないでいる。

これを送れば、春美との仲は終わる……。

それだけは分かっていた。
何度も深呼吸をする。
落ち着きたかった。
自分でも混乱しているのが分かる。

帰りの電車に乗っても、自分の打ったメールを何度も読み直した。

男として俺は生きてきたつもり。
自分の言いたい事を相手に伝えれば、別れに直結してしまうかもしれない。
逆に言えば、これだけ真剣なんだと分かってほしい気持ちもあった。

春美なら俺のこのメールの本意が分かってくれるんじゃないか。
目を閉じ満身の想いを込めて、俺は送信ボタンを押した。

ねえ、一言いいかな?
何を?
バーカ、バーカ、バーカ、激烈バーカ!
ぐぬぬ……。

仕事明けで疲れているはずなのに、中々眠れないでいた。

『くっきぃず』に行ってみようか……。

先生にグランドピアノを弾かせてもらおう。
一人で考えていると、頭がおかしくなりそうだった。

朝の九時過ぎだというのに、先生は嫌な顔一つせず、グランドピアノを弾かせてくれた。

俺は目を閉じて、一つ一つの鍵盤を丁寧に叩く。
自分の感情の乗った綺麗で寂しい音が、耳に流れ込んでくる。
耳を澄ませながら、心を込めて弾く。

「随分と頑張ったのね……」

真面目な顔で先生は話し掛けてくる。
俺は一瞬だけ微笑んで、左右逆にして弾く。
曲が弾き終わるまで室内は、俺のせつなさを乗せた音だけが飛び回っていた。

グランドピアノは残酷である。
弾いた演奏者の心を丸裸にしてしまう。
泣きそうになるのをグッと堪え、最後までザナルカンドを弾いた。

パチパチパチ……。

演奏が終わった途端、先生が拍手をしてくれる。

「驚いたわ。そんな弾き方までできるなんて……」
「俺…、これしか弾けないですから……。でもこの曲だけは、世界で一番俺が上手く弾きたかったんです……。もうどうでもいいんですけどね……」

「岩上君、ちょっと私に弾かせてくれるかな?」

「はい……」

俺は椅子から立ち上がり、先生の演奏を後ろから眺める事にした。

指が魔法を唱えるように動き出す。
俺には絶対に真似できない動きだった。

先生の奏でるメロディは力強く、そして元気を与えるような曲だった。
初めは細かく小刻みに。
テンポも凄まじい速さだった。
指があっちこっちに飛び乱れ、激しい曲を形成していく。

その姿を見て素直に感動した。
先生って本当に凄いんだ……。

どこか引っ掛かるような感じの音が、俺の沈んだ気持ちを徐々に奪っていく。
削られた部分に暖かい血液が注ぎ込まれ、暗雲漂う魔界のようだった心に光が差し込んでくる。
あれだけ激しかった指先がピタリと止まり、先生は静かに口を開いた。

「ショパンの英雄ポロネーズって曲よ」

「へえ……」

もっと他の曲も聴いてみたい。
素直にそう思った。
俺もまだピアノを続けていきたい。

「岩上君、もう一曲だけ、先生が弾いてもいいかしら?」
「え、はい。お願いします」

俺の心を読み取ったのか、先生は優しく微笑み、視線をピアノに向ける。

耳を澄まさないと聴こえないぐらいの小さい音。
丁寧に細かく奏で、リズミカルにだんだんと音がはっきり聴こえてくる。
白と黒だけの鍵盤で、指を縦横無尽に走らせる先生。
俺なんかとは、レベルが違い過ぎる……。

似たようなメロディをこれでもかというぐらい繰り返し、曲は一気に爆発した。
俺の体に電撃が走る。
音に俺は圧倒されていた。

一つ気付いた事がある。

先生はピアノを弾いている時が、本当に一番楽しそうだった。
まさにこの人にとって、ピアノの仕事って天職なんだ。
これじゃ亡くなる寸前、ピアノで棺桶を作ってちょうだいとか言い出しそうだ。

「格好いい曲ですね」
「でしょ?」

先生は少女のように、はしゃいで喜んでいる。

「迫力があって、曲の強弱も……」

「元気出た?」
「はいっ!」

「ドビュッシーの舞曲、スティリー風のタランティアって曲」

非常に綺麗で鮮やかさを感じさせ、尚且つ力強い曲だった。

「先生って、ピアノ弾いている時、本当に楽しそうですよね」
「うん、だって本当に楽しいもん」

嬉しくて仕方がないといった表情の先生。
まるで無邪気な子供のようだ。

「先生って、得意なジャンルは何になるんですか?」
「私はもちろんクラシックよ」

それなのにザナルカンドも受け入れ、俺をここまで弾けるように仕上げてくれたのか。
感謝しても仕切れない。

傷ついた俺の心を癒したのはザナルカンドではなく、先生の力強いクラシックだった。

ザナルカンドは、せつなさや悲しみを感じさせる曲。
今の俺を元気づける事は難しい。

一曲でいい。
クラシックの曲を弾けるようになりたかった。

はいはい、現実逃避でいくら芸術性を出そうとしても、無駄なのね。
うっせー。
クラシック?
音符も読めないのに?
カ、カタカナ振ってもらうから。
で、何よ、またスイートキャデラックでグレンリベット飲んで現実逃避?
ああ、そうだよ、悪いのか!
別に……。

店内いっぱいに漂う優雅なコーヒーの香りが溜まらなく好きだった。

ポケットに入れていた携帯のバイブが振動しだした。
電話かな?
携帯を取り出し見てみると、春美からのメールだった。
俺の心臓はドキッと大きな音を鳴らしていた。

『随分と自分勝手な人だったのですね。こんな人だったのかってガッカリしました。私、本当にいっぱいいっぱいで余裕がないんです。今の現状が…。でも岩上さんとの時間作りたかったから20歳最後の前日、時間を作りました。付き合ってくれって言われ、一人でずっと真剣に悩んでいたのが、何だか馬鹿みたいですね。自分中心な意見、どうもありがとうございました。もうメールしないで下さい。 品川春美』

「……」

時間がすべて止まったような感じがした。
何だ、この感覚は……。

目の前の景色がグニャリとボヤける。

自分であんな酷い内容のメールを送り、割り切ったつもりでいた。

それでも春美からのメールは深く心に突き刺さった。
まるで鋭利な刃物でズブッと突き刺されたようだ。

鍵盤の流れる夥しい鮮血に染まったような感覚。
一人でずっと真剣に悩んでいた?
何故それを早く言ってくれないんだ……。

何度も春美のメールを読み返してみた。
こんな気持ちを持っていてくれたなんて……。

勝手に焦り、自分で墓穴を掘ったのか、俺は?
呼吸が荒くなる。

落ち着け……。
冷静になれ……。

気が動転している。
おかしい。
どうかしている。

春美が俺との事を真剣に考えていてくれた?
嘘だろ……。

何で今更こんな事、書くんだよ。

「マスターすみません。すぐに戻りますから……」

俺は慌てて店の外に出て、電話を掛ける。
何度コールを鳴らしても、当然春美は出ない。

悪戯に彼女を傷つけたのか?
また電話をする。
二十回コールを流しても出てくれない。

諦めてスイートキャデラックに戻った。

これで完全に終ったのか?
そんなのは嫌だ。
席に着き、メールを打ち始めた。
俺は土壇場になると女々しい……。

『本当にごめんなさい。どうかしてた。とても反省してる。君の気持ちを考えていなかった。春美に逢いたいよ。今すぐにでも……。 岩上智一郎』

メールを送る。
自分の馬鹿さ加減にうんざりした。

頭を抱え込み、カウンターに突っ伏すと「ねえ、あなた、ピアノを弾くの?」と横の女性が声を掛けてくる。
俺のいない間、マスターに何か聞いていたのだろうか?

「え? 弾くってそんな大層なレベルでもないですよ」
「ぜひ聴いてみたいわ。あなたのピアノ」

人が塞ぎ込んでいるというのに、この女性はどういうつもりだ?

「こちらのお客さん、ピアニストなんですよ。色々な場所で語り弾きをしているんです。今日はプライベートでいらしてますけど」

マスターが、間に入り説明してきた。
プロのピアニストか……。

本来、春美に捧げるはずだったザナルカンド。
もう俺にとって意味のないものになってしまった。

このままじゃやるせない。
このまま一人で考え込むぐらいなら、プロに演奏を聴いてもらうのも悪くないか。

「分かりました。俺、弾いてみます」

席を離れる前に、トニックウォーターを一口飲む。
ジュワッとした炭酸が、喉を刺激する。

店内の音楽がふとやんだ。
俺は席を立ち、ピアノの方向へ歩き出す。

ここのピアノを弾くのは何度目だろう。

今の心境に、ザナルカンドはしっくりくる。
何も考えず、今の気持ちを指先に込めて弾けばいい。

ジャズバーに似合わない音楽がこだまする。

春美……。

こんなにも俺は、おまえを想っているんだぞ。
このピアノの音色、春美に届け……。

聴こえているかい?
俺のザナルカンド……。

清らかな夜空を通って、春美にプレゼントしてくれ。
そして彼女を癒してほしい。

威風堂々、力強く。
この想い、天まで届け……。

いつものせつないメロディが、心なしか力強く聴こえた。

俺だけのザナルカンド。
この想いを鳴り響かせろ。

演奏が終わると拍手が起きた。

俺は立ち上がり、頭を下げる。
たった二人の拍手が今の俺に、優しく染み渡る。

「綺麗な曲を弾くのね。聴いた事ないだけど」
「ゲームの曲なんです。オープニングの……」

以前、水野がゲームの曲だと知った瞬間の豹変ぶりを思い出しながら、あえて言ってみた。

「いいじゃない。へえ…、ゲームの曲なんだ? 本当に素晴らしい曲だわ」

素直に嬉しく感じた。
ザナルカンドをいい曲と言われると、自分まで褒められているような気がする。

あー、また文字数が多分ギリギリになっちゃったよー。
まだ途中なのに。
しゃあないな。
またこれで次の章?
だってそれで詐欺まで続けるつもりなんだろ?
長いね。
うん、長いね。
まだ二千一年だったよね?
あと二十三年分、ネタに困らないじゃん!
ブッフフーッ!

コイツ、壊れやがったよ……。

ほら、はよアップせい。
そろそろインカジ『レディ』へ行く時間やで。

俺は闇十八章(決裂編)をアップして、着替え始めた。




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