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「方法二元論」——『法哲学事典』読解(4)

『法哲学事典』(丸善出版)を一日一項目ずつ読んでいく連載の4回目です。今日読んだのは「方法二元論」という項目。正直に言うと、いよいよ内容が難しくなってきました。でも、それだけに考えがいのあるテーマです。

方法二元論とは、ひとことで言えば、事実(「〜である」)と当為(「〜べきである」)とを、厳格に区別する立場とのことです。今日は、この区別の意味をたどったうえで、私がどうしても抱いてしまう疑問(「事実と当為って、そんなにきれいに切り分けられるのだろうか?」)を、正面から考えてみたいと思います。

まず結論:二元論は「世界の正確な描写」というより、「だまされないための道具」として効く

先に、私のたどり着いた見立てをお伝えします。事実と当為の区別は、理屈のうえでは分かるし、とても大事です。特に、「〜である」をいつのまにか「〜べきである」にすり替えて人を動かそうとする語り口への強力な警戒装置になります。

ただ、現実の世界で、この二つが定規で引いたようにきれいに分かれているかというと、私は疑わしいと思っています。つまり方法二元論は、世界がそうなっているという「描写」としてよりも、思考を規律するための「道具」として受け取るのがよいのではないか。これが今日の結論です。順を追って説明します。

方法二元論とは何か

「である」から「べきである」は出てこない

出発点は、哲学者ヒュームにさかのぼります。ヒュームは、「〜である」という事実の記述をいくら積み重ねても、そこから「〜べきである」という当為は論理的には導けないと指摘しました(ヒュームの法則)。

たとえば、「多くの人が信号を無視している」という事実から、「だから信号無視してよい」という当為は出てきません。事実の世界と、べき論の世界との間には、論理の飛び越えられない溝がある。この直観が、方法二元論の核にあると思います。。

法学では、ケルゼンの土台になった

この区別は、その後の哲学(新カント派と呼ばれる潮流など)で磨かれ、法学の世界では、ケルゼンの考え方の土台になりました。ケルゼンは、法学を、社会の事実からも、道徳からも切り離し、当為の体系としての法だけを純粋に扱う学問にしようとしたのです。

見取り図:事実に傾くか、当為に傾くか

この事実/当為という軸を使うと、法をめぐる思想の地図が、ざっくり描けます。

「法とは、つまるところ事実だ」という方向に傾けば、リアリズムと呼ばれる立場に近づきます。たとえばアメリカのリーガル・リアリズムには、「法とは、裁判所が実際に何をするかの予測にすぎない」という見方があります。法を、当為ではなく、観察できる事実の側に引き寄せる発想です。

逆に、「法とは当為だ、しかもその正しさは人間の取り決めを超えたところにある」という方向に強めれば、自然法思想に近づいていきます。

ここで面白いのが、ケルゼンの位置です。ケルゼンは法を「当為」の体系と見ました。しかし同時に、道徳という別の当為からも法を切り離しました。つまり、〈事実から当為を切る〉だけでなく、〈当為の中でも、法と道徳を切る〉という二段構えの区別をしたのです。だから「当為を重んじる=自然法」と一直線にはならない。このあたりがケルゼンの独特なところだと思います。

私の疑問:「誰でもないところから見た事実」など、あるのか

さて、ここからが今日の本題です。方法二元論は、事実と当為をくっきり分けます。でも、その前提には「純粋な事実というものが、当為から独立して、そこにある」という想定が置かれているように見えます。私は、ここに引っかかるのです。

神の目から見れば、分けられるかもしれない。でも、、、

もし、誰の視点でもないところから世界を眺められるなら(いわば「神の目」から見た事実を想定できるなら)、事実と当為はきれいに分けられるかもしれません。哲学者トマス・ネーゲルは、まさにこうした視点を「どこでもないところからの眺め(The View from Nowhere)」と呼び、人間の認識がそこへ完全に到達できるのかを問いました。

問題は、私たち人間は、決して「どこでもないところ」からは世界を見られないということです。事実は、必ず誰かを通じて知覚されます。哲学者の永井均さんの言葉を借りれば、世界は常に〈私〉に開かれた仕方でしか現れないとも言えるでしょう。その知覚に、関心や価値観といった主観がまったく入り込まないということが可能なのでしょうか。

観察には、すでに理論が織り込まれている

科学哲学の世界には、この疑いを支える有名な議論があります。「観察の理論負荷性」と呼ばれるもので、私たちの観察は、白紙の目で世界を写し取っているのではなく、あらかじめ持っている理論や概念の枠組みに導かれているという指摘です。同じ夜明けの太陽を見ても、天動説を信じる人と地動説を信じる人とでは、「見えているもの」の意味が違うかもしれないということです。

純粋な事実の観察ですらそうなのだとしたら、「事実の世界」と「価値の世界」とを完全に無菌状態で分離するのは、そもそも人間には難しいのではないか。そう思えてくるのです。

記述と評価が溶け合った言葉

たとえば「残酷」という言葉。誰かの行為を「残酷だ」と言うとき、私たちは事実を記述していると同時に、評価もしています。「勇敢」も同じで、事実の描写と称賛が、一語の中に溶け合っています。この二つの成分を、あとから完全に分離することはできません。私たちの言葉の多くがこの種の二面性を持っているのだとすれば、事実と当為の境界線は、思っているよりずっと入り組んでいることになります。

それでも、二元論には効用がある

ここまで、方法二元論への疑問を並べてきました。では、この区別は捨ててよいのかというと、私はそうは思いません。むしろ、実践的な効用ははっきりあると考えています。

それは、「である」を「べきである」にすり替える語りへの警戒です。「みんなやっている(事実)。だから許される(当為)」。「昔からこうだった(事実)。だからこうすべきだ(当為)」。こうした語り口は、事実を語っているふりをして、実は当為を忍び込ませています。当為をまるで事実であるかのように語れば、聞き手は「そういうものか」と吟味しないまま受け入れてしまいやすい。方法二元論は、この手のすり替えを見抜くための、切れ味のよい検問所として働くのです。

つまり、こういうことだと思います。事実と当為の区別は、世界がそのように二つに割れているという描写としては、おそらく厳密には成り立たない。けれども、私たちの思考を規律し、レトリック(巧みな語り口)にだまされないための道具としては、手放すべきではない。理論への疑いと、実践での効用。この二つは、矛盾なく両立するのだと思います。

まとめ:区別できないからこそ、区別しようとする

「事実と当為は、現実にはきれいに切り分けられないかもしれない。でも、だからこそ、切り分けようと努力する構えに意味がある」。今日の私の結論は、そんな逆説めいたものになりました。

完全な分離が不可能だからといって、区別の努力を放棄すれば、事実と当為はなし崩しに混ざり合い、「〜である」の顔をした「〜べきである」が、検問なしで通り抜けていきます。方法二元論とは、到達できない理想を掲げることで、私たちの思考を引き締める装置なのかもしれません。

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