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百年続くマグロの循環。ツナ缶の街・清水で繋いできたもう一つの物語。

プロローグ

1949年。静岡県の清水市、袖師(そでし)の海岸には、強烈な潮の香りと、独特な「魚の匂い」が漂っていました。

照りつける太陽の下、砂浜で黙々とマグロの頭や骨を広げ、天日に干す一人の男がいました。私の祖父、伊豆川埈次(いずかわ・しゅんじ)です。

創業当時の伊豆川飼料の工場

当時、清水の街は「ツナ缶」という新しい産業の熱狂の中にありました。工場の煙突からは白い煙が立ち上り、港には世界へ向けて出荷を待つ缶詰が山積みになっていました。その華やかな光景のすぐ真横で、祖父が向き合っていたのは、工場から捨てられるはずの「残渣(ざんさ)」でした。

「ツナ缶を作る」という光の仕事と、「マグロを最後まで使い切る」という影の仕事。 この二つの歯車が重なった瞬間、清水という街にマグロにまつわる一つの循環が産声を上げたのです。

これは、何度も大きなピンチに陥りながらも、決して途絶えることのなかった「命を別の命に還す」一族の物語です。

「豆腐マグロ」が宝に変わった日

この物語の始まりは、さらに遡ること1929年。当時の漁師たちが、ある魚を少し皮肉を込めてこう呼んでいたことから始まります。

「豆腐マグロ」

それはビンナガマグロのこと。身が白くて柔らかく、刺身には向かない。当時の日本ではほとんど価値がないとされていた魚でした。しかし、この「見向きもされなかった魚」に目をつけた人物がいました。静岡県水産試験場の村上芳雄氏です。

彼はこの豆腐マグロ(ビンナガマグロ)を油漬けの缶詰にする技術を開発しました。これが、日本のツナ缶の夜明けです。1930年に日本初のツナ缶工場「清水食品」が操業を開始すると、その品質は輸出先のアメリカで爆発的な支持を得ました。

これが、日本のツナ缶のはじまりです。清水食品に続いて、1931年(昭和6年)には同じ清水市内に2番目の工場として「後藤缶詰所」(現在のはごろもフーズ)が誕生しました。翌1932年(昭和7年)には、3番目の工場となる「清水水産」が発足しています。

ちょうどその頃、世界恐慌の時代。日本国内でも仕事を探している人が多い反面、戦争の影響で男手は不足していました。でも豆腐マグロはたくさん獲れる。獲れたマグロを長期保管する冷凍設備なんてない時代にツナ缶工場は、女性でも働ける加工業として広がっていき、清水港の周りには次々と缶詰工場が建ち並びました。最初のツナ缶の開発からわずか3年で15のツナ缶工場が静岡に誕生したそうです。

次々と誕生したツナ缶工場、清水食品が製造を始めた1930年は年間の輸出数量が81函(ケース)だったところから、1933年には680,282函まで驚異的に増えたという記録が残っています。ちなみに輸出先はアメリカが約99%を占めていたそうです。

ここまで輸出が伸びた要因は、日本のツナ缶の品質が良く、為替の影響で安価で買うことができたということでした。

この急激な輸出増はアメリカ国内業者の脅威となり、猛烈な輸入制限運動を引き起こしました。これに対処するため、日本側は1934年から許可制による生産統制輸出枠の割り当て(自主規制)を導入し、例えば1935年にはアメリカ、カナダ向け生産枠が350,000函に制限されました。1937年には再び583,690函まで盛り返しましたが、第2次世界大戦の激化により1941年に施行された「貿易統制令」により食糧品の輸出が全面的に禁止され、戦前の輸出記録は途絶えることとなりました。


一族の仕事と戦争

1936年、清水・由比の地で産声を上げた一つの会社がありました。私の親族(祖父の叔父)である吉原延次と、伊豆川一族の武雄(祖父の従兄弟)が設立した「平和缶詰」です。

当時は、日中戦争の影が忍び寄り、世の中が次第に戦時体制へと塗り替えられていく不穏な時代でした。そんな中、彼らがあえて「平和」という名を会社に冠したことには、単なる商号以上の、並々ならぬ覚悟があったように思います。「食」という、命を繋ぎ、平和な家庭の象徴である仕事への誇り。それがその社名には込められていたはずです。

しかし、歴史の荒波は容赦なく彼らを飲み込んでいきました。第二次世界大戦が激化する1942年、政府による「一県一社」の断行。静岡県内にあった60以上の缶詰工場は、強制的に一つの統合会社「静岡県缶詰株式会社」へと集約されました。平和缶詰もまた、その例外ではありませんでした。

由比の工場からは、マグロを蒸す豊かな香りが消えました。代わりに鳴り響いたのは、金属を削る冷たい音。資材と労働力を軍需に振り向けるため、平和缶詰は社名を「由比航器株式会社」と変え、工場は航空機の「ネジ」を作る軍需工場へと転換せざるを得なかったのです。

終戦を迎え、ようやく統制の鎖が解かれた1948年。奪われていた「平和」の名を取り戻します。工場を由比から清水の袖師へと移し、「平和食品」として再出発を切ったのです。

当時の平和食品の人たち

「これからは、本当の平和産業の時代だ。マグロとミカンの缶詰で、もう一度この街を、日本を元気にしよう」

資料に残る当時の人たちの言葉には、二度と戦争のための部品を作らなくて済むことへの、そして自分たちの技術を「食」に注げることへの、喜びが刻まれています。この時に掲げられた「平和産業への復帰」という旗印こそが、今の私たちにまで続く不屈のDNAの正体なのです。

また、荒波に立ち向かっていたのは、私たちの親族だけではありませんでした。

1948年、強制統合されていた「静岡県缶詰株式会社」が解体されると、返還された工場を手に、多くの仲間たちが一斉に産声を上げました。「清水食品(SSK)」「後藤缶詰所(現在のはごろもフーズ)」「清水水産」「稲葉食品」「由比缶詰所」……。現在、誰もがスーパーで見かけるあのブランドたちも、当時は同じように、失われた「平和産業」を取り戻そうと必死に前を向いていました。

面白いのは、彼らの関係性です。市場では熾烈なシェア争いをするライバルでありながら、一歩工場の外へ出れば、技術を教え合い、互いを鼓舞し合う「同志」でもありました。

資料には、各社の技術者が「静岡缶詰協会」という場所に集まり、隠し事なく最新の技術を共有し、共に品質を磨き上げていった姿が記されています。「自分一社だけが良ければいいのではない。静岡全体で、世界に誇れるツナ缶を作ろう」。その高い志が、清水を単なる加工地ではなく、世界から信頼される「ツナ缶の聖地」へと押し上げたのです。

こうして、街中にマグロを蒸す香りが戻り、活気が溢れ出したのと時を同じくして、祖父・埈次もまた、平和食品のすぐ横で一つの決断を下します。

「これだけのツナ缶が作られるのなら、必ず同じだけの『命の残り』が出る。それを単なるゴミとして捨てるのではなく、別の命を育む糧にしよう」

平和食品の前でポーズを取る若き日の祖父

1949年、ツナ缶産業が再び黄金時代へと駆け上がろうとするその足元で、マグロの命を、家畜や農産物といった「別の命」へと繋ぎ直す挑戦が、静かに始まりました。


蒲原の「次郎長」がつないだ命のバトン

1950年代、清水の街がツナ缶の輸出に沸き、1万人もの工員たちの活気で溢れていた頃。その喧騒から少し離れた袖師の海岸に、ひときわ威勢の良い声が響いていました。

私の祖父、伊豆川埈次。

周囲からは、清水のヒーロー・次郎長に例えられるような、少しアウトローだけど義理人情に厚く、誰からも愛される豪快な人でした。

祖父の周りには、いつも人が絶えませんでした。お客さんが来れば、「もっと食べな!遠慮するな!」と、お腹がいっぱいだと言っているのに無理やりお代わりを薦める。帰り際には、「泊ってけ!」と言って、両手でも持ちきれないほどのお土産を「これ持ってきな!」と持たせる。そんな、情熱が服を着て歩いているような人でした。亡くなって25年以上経ちますが、今でも「あなたのおじいさんには世話になったんだよ」とその武勇伝を聞くことが多々あります。

そんな祖父が、平和食品のすぐ近くで始めたのが、ツナ缶工場から出るマグロの残渣(頭や骨)を引き取り、飼料や肥料へと繋ぎ直す仕事でした。

当時のツナ缶製造は、いわば「光」の当たる華やかな輸出産業。一方で、そこから出る膨大な量の頭や骨は、放っておけばただの廃棄物。しかし、祖父の目には、それは廃棄物ではなく、「仕事の糧、命の塊」に映っていたはずです。

昔から豪快だった祖父

「捨てればゴミだが、活かせば次の命を育てる宝になる」

祖父のあのお節介なまでのサービス精神は、仕事の上でも遺憾なく発揮されました。平和食品から出る残渣をただ処理するだけでなく、それを最高の状態で回収し、すぐに乾燥させ、豚や鶏の力強い体を作る飼料へ、あるいは静岡の茶畑を豊かにする肥料へと、徹底的に磨き上げて届けたのです。

一族が営む「平和食品」という光と、埈次が担う「伊豆川飼料」という影。 この二つが合わさって、初めて清水のマグロは、その命を余すことなく使い切ることができたのです。

ちなみに伊豆川飼料の初代社長には平和食品や缶詰業界で要職を務めていた伊豆川武雄が就任しています。缶詰会社から出る残渣をスムーズに集めるため、また事業としてうまく軌道に乗せるため、彼の力を大いに借りていたという話です。

袖師の海岸の傍らで天日干しされたツナ缶の残渣

黄金時代と平和の進撃

1950年代、清水の街は「海と山のゴールドラッシュ」に沸いていました。

それを裏付ける象徴的なデータがあります。1950年(昭和25年) この年のマグロ缶詰輸出は約146万函に達し、戦前の最高記録の2倍以上を叩き出しました。そして長らく清水港の輸出額のトップに君臨していた「緑茶」を抜き、ツナ缶が輸出額1位の座を奪ったのです。まさに、清水が「お茶の街」から「マグロの街」へと塗り替えられた瞬間でした。

ツナ缶の裏でミカン缶詰もまた、イギリスなどの欧州諸国へ向けて怒涛の勢いで輸出されていました。

夏はマグロ、冬はみかんという季節性のある原材料がそれぞれ違う時期に豊富に手に入るこの静岡の土地は、缶詰工場をフル稼働させるのに適していたのです。ミカン缶詰のシーズンになると、清水や焼津の工場にはおびただしい数の季節従業員が集まりました。主には、 農閑期となる東北、長野、新潟などから、冬の期間だけで数千人の女性たちが静岡へ働きに来ました。最盛期には常雇いを含め約1万1,000人の労働者が工場に集中し、その活気は「見事な盛観」と評されました。

伊豆川飼料も当時、缶詰工場から出るミカンの皮を集めて乾燥させ「陳皮」や「シトラスパルプ」と呼ばれるものを製造していたそうです。これも飼料や漢方薬の原料として使われていたそうで、地域の産業がうまく循環していました。(オイルショックの時期にその事業はやめています。)

その熱狂のど真ん中で、親族が営む「平和食品」は、静岡でも指折りの巨大メーカーへと成長を遂げていました。清水だけにとどまらず焼津の「大和缶詰」を買収し、傘下に収めます。清水の商売の巧さと、焼津の圧倒的な原料供給力。この二つを手に入れた平和食品は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。資本金は1,775万円、従業員220名を抱え、年商は約14億円に達し、県内の缶詰業者の中でも5番目、全国のみかん缶詰業者の中で4番目の製造量を誇る時期もあり、「県内大手34社」の一角を占める存在でした。

昭和30年当時の平和食品社員旅行の様子(右端に延次、埈次がいる)

平和食品の社長や専務を務めた伊豆川武雄も、単なる一企業の経営者にとどまらず、「静岡缶詰協会」や「日本鮪缶詰輸出水産業組合」の理事、「日本蜜柑缶詰工業組合」の副理事長といった要職を歴任し、業界内でも確固たる地位を築いていきます。

しかし、あまりにも成功しすぎたことが、皮肉にも次の試練を招き寄せます。

1970年、日本のツナ缶輸出が史上最高である684万函を記録し、頂点を極めます。日本のツナ缶がアメリカの食卓を席巻し、現地のシェアを奪い始めると、アメリカ国内から猛烈な「ストップ」がかかりました。「自主規制」という名の輸出制限です。あまりに安く、あまりに高品質な日本のツナ缶は、巨大なアメリカ市場にとって「脅威」となってしまったのです。

そして1971年。 輸出という一本の細い糸に頼り切っていた栄華は、あまりにも残酷な形で断ち切られることになります。


ツナ缶の時間が止まり、新たな歩みへ

1971年、ツナ缶業界はまたもや大きな危機を迎えます。

アメリカによる品質問題(デコンポジション問題)とドル・ショックによる為替の変動です。当時の日米貿易摩擦が大きく関わっていたという話もありますが、ここで世界が一変してしまいます。

アメリカのFDA(食品医薬品局)が、マグロに含まれる水銀量に厳しい基準を設け、さらに品質への疑いをかけたことで、清水港から海を渡ったツナ缶が、行き場を失い、巨大な返品の山となって港に戻ってきたのです。

輸出中心だった静岡のツナ缶産業は再び大きな打撃を受けました。平和食品も、輸出した約7,000函が返品されることになったり、成長を信じて巨額の借金で買い集めていた「輸出枠(生産実績)」が、輸出停止と急速な円高によって一瞬にして膨大な「負債」へと姿を変えたのです。

私の父・徹三(現伊豆川飼料社長)も、経営の凄惨な現場を目の当たりにしました。1971年9月、平和食品は大手パッカーとして最初の休業に追い込まれます。当時の新聞でも大きく報じられていたそうです。平和食品以外の缶詰工場も10社以上がこの影響で閉鎖されたと記録されています。そしてその2ヶ月後、経営を支えてきた吉原家の常務が、心労の末に自ら命を絶つという悲劇が起きました。

しかし、私たちの志は折れませんでした。「形を変えてでも、清水の食卓を守る」。その不屈の精神で吉原家から生まれたのが、今や静岡のソウルフードとなった「お弁当のどんどん」です。お弁当のどんどんは、今や68店舗を展開するできたてのお弁当を提供するチェーン店で、平和食品の社長だった吉原延次の孫にあたる一裕が大きく広げました。現在は株式会社unlock.lyという会社に事業を譲渡しています。

いまでも残る「平和食品」と「どんどん」の看板

吉原家が「食」の道で再起を果たす傍ら、私たち伊豆川家の「循環」の仕事もまた、細く、長く、形を変えて、この街の産業を陰で支えてきました。

この頃、会社は大きな転換期を迎えていました。平和食品だけでなく、他の清水の缶詰会社から発生するツナ缶の残渣やみかんの皮を回収する体制を整え、自社工場のみならず他社への委託や買い取りも行う調整魚粉メーカーとしての機能を強化していったのです。

この飛躍の原動力となったのは、埈次の「人を動かす」圧倒的な情熱でした。 当時、日本指折りの食糧商社であった東食(現在は世界的な穀物商社の日本法人であるカーギルジャパンが事業を引き継いでいる)との絆は、通常のビジネスの枠を超えたものでした。埈次は、静岡で出来立ての釜揚げしらすを携えて「今から飯を炊いて待ってろ」と東京の東食の事務所に電話をし、そのまま車で乗り込み、そこにいる誰にでも気さくに声をかけたといいます。そんな彼の人柄に惚れ込んだ商社マンたちは、こぞって清水の埈次の自宅に泊まり、共にゴルフに興じ、家族のような信頼関係の中で全国の飼料工場へと販路を広げていきました。その販路は商人系、全農の飼料工場などがあり、二代目の徹三、そして現在の私が引継ぎ、今でも取引が続いています。

東食の方々を囲んで

「国民食」への進化と、忍び寄る静かな影

1971年の事件の影響で親族の平和食品を始めとした多くのツナ缶工場は閉鎖されることになりました。しかし、嵐が去った後、静岡のツナ缶業界は驚異的な粘り強さで再生を果たします。それまでの「輸出頼み」から、日本の食卓へ向けた「内需」への大転換です。

1978年、戦後初めて国内の販売数量が輸出を上回りました。この頃から、ツナ缶は単なる保存食ではなく、サラダ、パスタ、そして今や国民食とも言える「ツナマヨおにぎり」の具材として、私たちの生活に欠かせない存在になっていきました。

現在、静岡県はツナ缶の国内生産シェア98.6%(2024年)を誇る、圧倒的な「ツナ缶王国」です。ツナ缶の生産とともに増えてきたマグロの輸入量や1世帯あたりのマグロ支出金額も日本一なんです。(漁獲量も宮城県と1位と2位を毎年争うほど。)私たちは、日本で最もマグロを愛する街になりました。

静岡県のホームページから

しかし、この繁栄の裏側で、かつての危機とは質の異なる「三度目の波」が静かに押し寄せています。

それは、加工現場の「空洞化」です。

効率化や低価格の維持を追い求めた結果、現在日本の国内で流通しているツナ缶の約6割は海外の工場で作られたツナ缶になってしまっています。約20年前までは、国産が6割だったものが逆転しています。かつては輸出で世界を席巻していた日本のツナ缶の姿はなくなってしまいました。

缶詰時報の統計からイズカワがまとめたもの

更には国内の製造工場であっても、マグロを丸ごと仕入れて捌く工程は激減しました。代わりに主流となったのは、海外で頭や骨、内臓をあらかじめ落とされ、加熱されて冷凍され、ビニールに包まれ段ボールに詰められた「クックドロイン」を輸入し、このマグロの身だけを缶に詰めるだけの工程です。

加工され冷凍されたマグロ

私が現場で目にしたのは、かつての祖父が向き合っていた「血の通った命の塊」ではなく、無機質なプラスチックゴミの山でした。ロイン加工は効率的で清潔です。でもそこには肥料になる骨も、飼料になる頭もありません。

ですが、今の缶詰メーカーを責めることはできません。むしろ、長引くデフレと景気後退の中で、「物価の優等生」と表現されるように一缶の価格を長年維持し、私たちの食卓を守り続けてくれた企業努力には、心からの敬意を持っていますし、なによりも輸出バブルに左右されることなく常に内需を大事にしてきたことは本当に素晴らしい事だと思います。

「安くて良いもの」を求める私たちの声に応えるため、彼らは血の滲むような努力でコストを削り、工程を簡略化し、ロイン加工や輸入に活路を見出しました。その結果として、先人たちが「この街でマグロを丸ごと使い切り、別の命へとつなぐ」という100年続けてきた地域産業の循環が、採算に合わないものとして消えようとしている。それが今の現実です。

先を行く世界が私たちに追いつく時

最近、「SDGs」や「サーキュラーエコノミー(循環型経済)」という言葉を耳にしない日はありません。欧米の先進企業がこぞって「持続可能性」を掲げ、世界のトレンドをリードしています。

しかし、その「最先端」と言われる考え方を紐解いていくと、私はある確信に至ります。

シーフードレガシータイムズの2026年のインタビューで、国際魚粉魚油機構(IFFO)のフランシスコ・アルドン氏は、こう語っています。

「現在、世界の魚粉の約3分の1は、人間が食べる魚の加工から出る副産物(残渣)から作られています。これを有効活用することは、貴重な海洋資源を無駄にしないための、究極の『アップサイクル』なのです」

https://times.seafoodlegacy.com/francisco-aldon_jp_1/

世界が今、ようやく言語化し、新しいルールとして定義し始めたこの「究極のアップサイクル」。 実はこれこそが、私たちの祖父・埈次が1949年に袖師の砂浜でマグロの骨を広げていたあの光景、そのものなのです。

当時は「サステナブル」なんて洒落た言葉はありませんでした。あるのはただ、「海からもらった命を、一欠片も無駄にしない」という、泥臭くも真っ直ぐな思いだけ。1971年の絶望的な不況の中でも、祖父、そして父が守り抜いてきたのは、この「当たり前の循環」でした。

もちろん、現代のサステナビリティの潮流は世界がリードしています。しかし、その潮流が目指しているゴールは、私たちが77年間、一歩一歩進んできた道と、驚くほど重なっています。でも世界がようやく言語化し始めたこの価値を、静岡の茶畑やみかん山はもっとずっと前から知っていました。

「伊豆川さんとこの肥料を使うと、お茶が良くなるんだよ」
「今年のみかん、魚が効いてうまくできたから食べてみてよ」

私がこの仕事をするようになって15年ほどになりますが、お付き合いのあるお茶やみかんの生産者さんたちから、そんな嬉しい声をいただくことがよくあります。マグロの命を丸ごと引き受けた肥料は、土を豊かにし、巡り巡って私たちの喉を潤し、心を満たす美味しさへと姿を変えています。 「もったいない」から始まった循環は、今、静岡を支える確かな力になっています。

伊豆川飼料が長年つないできた静岡の循環

「世界が今、ようやく私たちの足跡に追いついた」

私は、誇りを持ってそう言いたい。私たちがずっと「影の仕事」として守り続けてきたこの循環こそが、これからの世の中が必要としている「表の道」だった。その想いが三代目である私の背中をいつも強く押してくれています。

昭和の激動の時代も変わらずありつづけた伊豆川飼料

次の百年へ、もう一度

「世界が追いついてきた」と胸を張って言える今だからこそ、 先代たちが作り、百年守ってきたこの仕事を、私たちの代で途絶えさせてはいけないと強く思うようになりました。

しかし、ただ「守る」と口にするだけでは、この大きな波には抗えません。だから私は今、三代目として自ら新しい風を起こそうと動いています。

ツナ缶のことを知ってもらう

この素晴らしい静岡のツナ缶のことをより多くの皆さんに知ってもらうために、原点に戻り、自社ブランドのツナ缶製品である「とろつな」や「しろつな」を地元清水の缶詰会社の駒越食品さんと一緒につくっています。駒越食品さんは、伊豆川飼料が昔から残渣を仕入れている長いお付き合いの会社で、 効率化のために身だけを輸入するのではなく、あえて手間のかかる「原魚(丸ごとの魚)」から職人の手でマグロを捌き、ツナ缶をつくっています。その誇りや思いを、丁寧に一缶一缶に閉じ込めました。「美味しいから選ぶ」という喜びの先に、実は「地域の循環を知り、守る」という想いが隠れている。そんな体験を届けていきたいというのが一番のねらいです。

「とろつな」と「しろつな」

次世代へ意識の種まき

私は積極的に社外へ飛び出し、学校や企業などで授業や講演を行っています。 子どもたちやビジネスパーソンに、清水の歴史や、普段食べているものがどうやって作られているのかを伝えています。「安い」の裏側にあるもの、そして「選ぶ」ことの力。私たちの食卓と、静岡の海と山は繋がっているんだということを知ってもらい、静岡のことを好きになってもらう。多くの人に意識の種をまくことも、私の大切な仕事です。

とある中学校での授業

「現場の熱」を、直接肌で感じてもらう

そして、一般の方々を私たちの工場に招き、直接お話をさせていただく機会も作っています。 実際に工場のにおいを嗅ぎ、音を聞き、原料を触り、働く人の姿を見てもらう。時にはツナ缶を食べ比べしてもらうこともあります。

ここには、段ボールやビニールのごみだけからは決して感じられない「命の気配」や「ものづくりの執念」に触れたとき、参加者の皆さんの目が変わる瞬間を何度も見てきました。現場こそが、最も雄弁に物語を語ってくれるからです。

地域の人たちに工場の扉をオープンする「ファクハク」での1コマ

生産者のみなさんと共に歩む

私たちの仕事は、単に肥料を製造して販売するだけの仕事ではありません。私たちの肥料を使って育ったお茶やみかん、お米といった生産物の価値を、農家さんと一緒になって高め、世の中に届けていく。いわば「肥料メーカー」の枠を超えた、共創型のブランド支援です。

「TUNA-GOU」という名前をつけていますが、これにはいくつかの想いを込めています。 マグロ(TUNA)から生まれたバトンを次へ繋ぐ(GO)、そして、生産者と消費者、過去と現在と未来が手を取り合う。そんな世界を目指しています。

生産者のみなさんと共に生きる

「買い物は未来への投票」

最近、私の心に深く刺さった言葉です。 私たちが何を買い物カゴに入れるか。そのひとつひとつが、実は「どんな未来を残したいか」という社会への投資になっているという意味です。

すべてを国産にと言いたいわけではありません。 ただ、もし可能であれば、「5回に1回」でいい。 静岡の、日本の、この土地の命や歴史や産業を丸ごと引き受けて作られたものを、意識して選んでみてはいただけないでしょうか。

その一缶は、単なる食べ物ではありません。この街の技術や文化・歴史を守り、雇用を支え、そして私たちが作る肥料を通じて、また次のおいしいお茶やみかんを育てるための「未来への一票」になります。

もちろん食べ物だけではなく、日本や静岡の工場でつくられた素晴らしいものにも思いが込められています。この話が普段使っているもの、買っているものがどのように作られているのか考えてみるきっかけになれば嬉しいです。

エピローグ

祖父・埈次は、戦後の清水の砂浜でマグロを干していました。 父・徹三は、逆風の中でも黙々とその場所を守り抜きました。

そして三代目の私は、先代たちが築いてきた「海から山へ」の地域のバトンを、もう一度一本の太い線で結び直そうとしています。

清水の男たちが向き合ってきたマグロ。それがツナ缶になり、そこから生まれたものが肥料となって、静岡の代名詞であるお茶やみかんを育む。この、海と山に関わる人たちが手を取り合うような小さな循環を、私は「つなめぐり」と再定義しました。

それは、大きな経済の仕組みから見れば、まだ小さな、目立たない環かもしれません。 でも、この「つなめぐり」の環が広がることは、この街から命の躍動を消さないこと、そして私たちが「命を丸ごと引き受ける責任」を取り戻すことだと信じています。

私はこの仕事を通じて、100年前から続く、あの活気に溢れ、決して諦めることのなかった人たちの想いを、これからも繋いできたいと思っています。

最後までお読みいただきありがとうございました。

伊豆川飼料株式会社 三代目・伊豆川剛史

私が好きな「つなめぐり」を体現している清水の風景

参考にした文献
まぐろ缶詰史(日本鮪缶詰輸出水産業組合)
静岡県缶詰史(静岡缶詰協会)
静岡県鮪蜜柑罐詰工業について(清水商工会議所)
袖師町誌
由比町史
貿易と産業(合同通信社)
ほか

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