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合成ゴム技術を1941年へ前倒しすれば、日本のタイヤ不足は防げたのか

太平洋戦争の南方作戦で、日本はマレー半島とオランダ領東インドという世界有数の天然ゴム産地を手に入れた。地図の上では、日本はこの戦争でゴムに困らないはずの国になった。

ところが実際に起きたのは逆だった。ブリヂストンの社史をたどると、自動車タイヤの生産額は1941年をピークにその後著しく低下している。天然ゴム、コード、カーボンブラックといった原材料の不足が、その低下の理由として記録されている。産地を占領した側が、原材料不足でタイヤを作れなくなる。この逆説から、この記事は始まる。

もう一つ、読者が抱きやすい直感がある。合成ゴムの作り方さえ渡してしまえば、南方航路がどれだけ危険になっても、日本は国内だけでタイヤ用ゴムを作り続けられたはずだ、というものだ。米国はこの時期、天然ゴムの供給を絶たれながらGR-S(米国式合成ゴムの呼称で、当時はBuna Sとも呼ばれた)によって自動車社会を回し続けた。同じ処方を1941年の日本に渡していたら、歴史は変わったのではないか。

この問いを検証するために、まず区別しておかなければならないことがある。合成ゴムには複数の種類があり、それぞれ原料も工程も用途も違う。GR-S(米国での呼称。国内ではSBRという分類名でも呼ばれる汎用合成ゴム)はブタジエンとスチレンの共重合体で、タイヤのように大量かつ汎用的な用途に向く。これに対してNBR(ニトリルゴム)やクロロプレンゴム(CR)は、耐油性や耐候性に優れる特殊ゴムで、ホース、パッキン、電線被覆といった限られた用途に使われる。同じ「合成ゴム」という言葉でくくられていても、この二系統は別物であり、片方が作れても、もう片方が自動的に作れるわけではない。

米国のGR-Sがどう成立したかを見ると、単一の発明というより、供給網の作り込みだったことが分かる。1942年3月26日に確定した米国の共同処方は、ブタジエン75%、スチレン25%を基本骨格とし、これに過硫酸カリウム、石けん、水、ドデシルメルカプタンを組み合わせるものだった。処方自体は、この時点でほぼ確定していた。

問題は、この処方をどうやって国全体の生産量に変換するかだった。米国のBaruch委員会は、モノマー(ブタジエンとスチレンの原料)とポリマー(合成ゴムそのもの)を作るための工場を、51か所建設・運転するよう勧告した。実際に初期プラントは、着工からおよそ9か月で立ち上がったという記録があり、政府資本と複数企業が参加した体制のもとで、4社の1942年生産量は合計2,241tに達した。国立科学博物館の報告によれば、米国全体のSBR生産量はその後、1942年に2.4千t、1943年に18万t、1944年に67万t、1945年に72万tへと急拡大している。

この数字の伸び方が示しているのは、GR-Sの成功が「化学式を知っていたから」ではなく、「51か所の工場網を数か月から数年のスパンで立ち上げ、動かし続けたから」だということだ。処方を知っていることと、その処方どおりの製品を年間数十万トン単位で安定して供給できることの間には、決して小さくない距離がある。

では、日本には1941年の時点で、この距離を埋めるだけの手がかりが全くなかったのだろうか。

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