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ひと口のラフテーから思い出したばあちゃんのことと思い巡らせた沖縄料理のこと

そのラフテーをひと口頬張った瞬間に、ばあちゃんがいた頃のばあちゃん家の風景と匂いが立ち現れた。
噛み締めた時の豚の脂の甘みと、ほどける肉の繊維の歯触り。そしてほのかだけれど、全体に確かな奥ゆきを与えているカツオ出汁と泡盛の香り。

かなり久しぶりに外食した沖縄料理で、こんなにプルースト的な体感をガッツリ味わうことになるとは夢にも思わなかった(プルーストについては「プルースト マドレーヌ」で検索を)。

沖縄出身で沖縄に住んでいると、いわゆる沖縄料理をわざわざ飲食店に行って食べることはそんなに多くない(もちろん個人差はあると思う。外食の沖縄料理が好きな沖縄の人もたくさんいるはずだ)。
ゴーヤーチャンプルーなどの炒め物、ポーク(スパム)やヘチマなどを使ったンブシー(蒸し煮)は基本的に家庭で食べるし、家庭の味があるから。

強いて言えば、ダシを効かせてラードを使い、強火力で炒めた“定食屋のチャンプルー”は時折強烈に食べたくはなるし、居酒屋で気まぐれに何かのチャンプルーをオーダーすることくらいはある。ちなみに海ぶどうは普段全く食べないが、もずくはとても好きである。
(あと、沖縄そばはまた別枠で、この話をすると逸れるのでここでは置く)

また、沖縄料理にもグラデーションがあり、上記のような家庭料理的なもの、ジャンクな要素を含んだローカルフード的なものに加えて、琉球王朝の宮廷料理的なものがある。

宮廷料理は時間と手間をかけて見目麗しく仕立てる。各家庭レベルで行う伝統行事でも、宮廷料理としてカテゴライズされている料理や、それを多少簡素化したものを作る場合もあるけれど、あくまでハレの日のもので、日常の食卓に出るものではない。

宮廷料理を味わえるお店は限られていて、そこそこのお値段のするコースで堪能することになる。もちろん沖縄での食の体験としてはとても良いもので、歴史なども踏まえれば間違いなく充実したものになるだろうけれど、居酒屋に行くのとはやはりワケが違う。

そんなわけで、能動的に沖縄料理を提供する飲食店にはなかなか行かないのだけれど、県外から訪れる友人たちと、少し前から複数の知人に噂を聞いて気になっていた沖縄料理屋さんに行くことになった。

初めて行ったその店で食したのが、冒頭のラフテーなのであった。

「ラフテー」は豚の角煮のこと。一般的に味付けは醤油と砂糖と酒の甘辛くして、とろとろに柔らかくなるまで煮込んだものだ。

沖縄でなくても豚の角煮はあるし、中国のトンポーローなどもある。ちなみに県外の豚の角煮は味わいは多少似ているかもしれないが、皮がついていないことが多い。トンポーローは煮るだけでなく「蒸し」の工程が入るし、八角も使うため食感も風味も異なる。
そして沖縄のラフテーはというと、カツオ出汁で煮て泡盛でくさみとりと香りづけをすることもあるので、前出の2つとは違った風味になる。

しかし、冒頭のラフテーは甘辛い味付けではなかった。写真を見てもらえたら分かる通り、醤油の色味は皆無で、白っぽい肉に黄色いタレがかかっている。
この店のラフテーは、塩とカツオ出汁でじっくりと炊いた豚肉に、味噌だれをかけるスタイルということだった。

ここでやっとプルースト的な、あの記憶の湧きあがりの話にたどり着く。

醤油ではなく、カツオ出汁で煮込んでいた豚肉を噛み締めた時に広がる香りが、俺のばあちゃんの豚肉料理のそれとかなり同質の要素を持っていたのである。

豚肉の動物性の脂が持つ甘み、特に沖縄の豚が持つ濃厚な味の芳醇な甘みを、カツオ出汁の鋭さを感じさせるようなはっきりとした強い旨みとかすかな酸味が支える塩梅が似ていたのかもしれない。
ちなみに、豚とカツオ出汁の組み合わせは沖縄料理ではだいぶスタンダードな出汁の合わせ方で、色んな料理に多様されている。宮廷料理でも、塩分を控えながら強めの出汁で奥ゆきを出して、十分な食べ応えを感じられるように仕立てたものがある。

この塩梅というのが繊細かつ重要なポイントで、甘辛い味付けだと醤油の存在感にかなりマスキングされるため、思い出すものもの思い出せなかっただろうが、かと言って、醤油を使わずにカツオ出汁で煮た豚肉であれば何でもかんでもばあちゃんの味を想起するわけでもない。

バランスだったのだ。

そこには色んな要素が絡み合ってくる。使う豚肉の部位、取り除く脂の量、出汁の濃度、塩分量、煮込む時間、その料理をしている時の温度や湿度…たぶん、もっとまだまだある。ともかく、それらの色んな条件の中でいくつかの項目が少なからず重なったからこそ、ばあちゃんの味と姿を思い出したのだ、きっと。

沖縄には「てぃあんだ」という言葉がある。

直訳すると「手の脂」ということになり、衛生的な面でアレな感じがするが、実際は「手間と時間をかけて作ったものに込められている愛情や真心」といったニュアンスで使う。

いわゆる「おふくろの味」とか「ふるさとの味」に感じるような「温もり」を生み出している「何か」にかなり近いかもしれない。先のラフテーの味わいのバランスも、この「てぃあんだ」によるところが大きいのだと思う。

同じレシピを、食材や調味料の重さや用量まで厳密に同じくしても、作る人によって出来上がりの味わいに違いが出るということはままある。実際、以前母親から聞いたレシピを自分で作ってみても、いつも食べていた母親が作った料理と比べると何か物足りなかったりすることがある。その足りないものを説明する時にも「てぃあんだの差」だと言ったりすることもある。

こうして書いてみると、かなりチートめなマジックワードのような気もするが、しかし「てぃあんだ」でしか説明できないことはけっこうある。特に沖縄料理を食べている時には。

ラフテーを食べた店はおばあさんと孫が料理をしていて、2人ともお喋りで、料理の説明をしてもらい、食べ、感想を言う、というサイクルを繰り返しながら食事を楽しんでいた。

ラフテーを口にして、鮮烈に込み上げる記憶に少し震えながら俺が「この豚肉の味、俺のばあちゃんの料理とめちゃくちゃ同じでびっくりしました…」と感動を伝えると、にこにこしたおばあさんが当然のように「おばあのてぃあんだが入ってるからねえ」と言った。

それは最も正しくて華麗な「てぃあんだ」の使い方だった。

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