子どもの声を聴かない社会は滅びる
前回のお話はこちら↑
IFラボさんの投稿には、いくつかのコメントが付いていた。
今回はそれらを読んで、の考察をしてみよう。
もしそれらのコメントにご興味があればぜひ、IFラボさんの投稿まで覗きに行っていただきたい。
コメント①が示している、致命的なズレ
このコメントで起きているのは、
徹底した「結果による上書き」だ。
「最後はできたよね」
「笑顔だったよね」
「努力は報われた」
「チームでフォローしてた」
だからOK、という論理。
でも、問われているのはそこじゃない。
「恐怖によって行動が変えられたこと自体を、教育として肯定していいのか」
それなのに、
「間違えたら怒られるかもしれないは勘違い」と言ってしまう。
これは、子どもが感じた恐怖を、事後的に「誤認」として勝手に書き換える行為だ。
さらに、
「叱られて尊厳が傷つくなら、自己肯定感が育っていない証拠」
これは完全に逆転している。
本来は
尊厳が守られる → 自己肯定感が育つなのに、
叱られても傷つかない → 自己肯定感がある
になってしまっている。
つまり、
「傷つかない人間になること」がゴールになる。
それはもう教育ではなく、耐性選別だ。
「どんな子も頑張れます」という言葉も同じ。
実際そこで「頑張れなかった子」は??どこへ行ったの。
見えない子は、存在しなかったことになる。
これが、不登校を量産する論理だ。
コメント②と③に共通するもの
②の
「合格させなければよかった」
③の
「課題をやってこなかったから叱った」
一見、違う意見のように見えるけれど、
どちらも根底では同じ発想に立っている。
ついてこれない子は、
最初から排除するか、
あとから大人の論理で評価し、
切り捨てる、という発想だ。
また、
「特性を見ての声がけ」という言葉で、すべてが正当化された気になっているけれど、
結果として、
「その場に入れなくなった」という彼女固有のトラウマ体験は、どこにも議論されていない。しかも、
特性を見て🟰劣性を見る眼差しだ
私の過去記事にもたくさん書いてあるがとりあえずこれを↓
あの投稿についたコメント群を前に正直、私は思った。
「やっぱりこの国を変えるのは無理かもしれない」
だってこのコメント群には、
尊厳の話を努力にすり替える
子どもの語りを否定する
零れ落ちた子を最初から数えない
結果が出たらすべてOK
という、日本の制度的思考がそのまま無自覚に、善き事という主張の下で並んでるから。
でも、一つだけ確かなことがある。
IFラボさんのnoteに200以上の「スキ」がつき、ここまで議論が起きているという事実。
あのコメントを書いているのは、
「守られてきた側」
「適応できた側」
「生き残った側」だ。
一方で、フリースクールに来る子どもたちの声を、ここまで正確に言語化できる文章は、学校側からは、ほとんど出てこない証拠を示唆している。
それでも、絶望だけじゃない。
変わらない「国」ではなく、価値観の地層、子どもの権利の地層は、確実に割れ始めている。
公教育が、
「回っているからOK」
「結果が出ているからOK」
「ついてこれないのは個人の問題」
で動いてきたとしても、
「それ、誰の犠牲で成り立っているの?」と問える言葉を、私たちはもう手にしている。
今はまだ点在しているだけ。
でも、確実に、そこにある。
