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原節子ものがたり💌『原節子・誕生 』


石井妙子著「原節子の真実」
その他より 抜粋させて頂きました。

          〇

原節子(本名・曾田昌江)は 
大正9年・横浜市保土ヶ谷で生まれた。
上に2人の兄と 4人の姉がいる。

その頃の昌江の家は 離れも中庭もあるモダンな家で
上の姉たちは 振り袖に袴姿で
東海道線の二等車(グリーン車)で
横浜のフェリス女学校に通っていた。

昌江の父・藤之助は彫りが深く
「外人さんみたい」と言われる容貌の美男子であり
母のナミもそれに劣らぬほどの 美しい女性であったという。

美男・美女の両親、上の2人の兄も高学歴。
美しく手入れの行き届いた家。
家の中では
横浜山手の お嬢さん言葉が 飛び交っていたことだろう。

しかし この穏やかで豊かな生活は
昌江の誕生後、長くは続かなかった。

昌江3歳の 大正12年9月1日の正午前。
突然、大地が引き裂かれるように 激しく揺れ
地響きと共に会田家の瀟洒な家は 音を立てて崩れ落ちた。

関東大震災である。
震源地は相模湾沖で 横浜の受けた被害は甚大であり
このとき
台所で煮炊きをしていた母は 頭から熱湯をかぶり
その結果、心身ともに病むことになってしまった。

更にその後の 昭和4年 
アメリカのウォール街に端を発した 株価の暴落は
昌江の家庭を直撃、にわかに困窮していった。

そんな中、昌江は女学校に入学したが
その頃 姉の夫である日活の熊谷久虎監督に
「女優にならんか」と誘われ はじめて映画に出演した。

この時のことを 後に原節子はこう語っている。

「当時、私の家は経済的に困難の度を加えてきましたから
 義兄や姉がすすめるのなら
 そのほうがいいのかしらと思いました」

デビュー作 『ためらふ勿れ若人よ』

「原節子」誕生である。

「節子」は このときの役名であり
「原」は 単なるゴロの良さで決められたという。
ずいぶん安直な 決め方だったものだ。

このように「日活」は 節子のデビューに
大きな期待も 関心も抱いていなかったが
この後も脇役ながら オファーが舞い込み 
一年が経った頃

遂に節子は ある監督の眼にとまった。
若き天才と言われた 山中貞雄監督である。

山中監督 (26歳)
「あの子はええ、女優にあんな子は珍しい
 素直で、無口で、あどけない・・
 今にあの子は 日本でも指折りのスターになりよる」

こうして節子は
山中監督の『河内山宗俊』に出演。

しかし、この先見の明のあった山中貞雄は
この翌年『人情紙風船』を撮った後、召集され
後の大スター・原節子の 片鱗も見ぬまま
28歳で戦死した。

『河内山宗俊』15歳

そして このときの『河内山宗俊』の
撮影現場を見学に来ていたのが 
次回作のヒロインを探していた
ドイツの巨匠アーノルド・ファンク監督だった。

節子はこの日の撮影を終え、楽屋にいるところに
「外国の偉い監督さんが来ているので
 一緒に記念撮影をしてください」と言われ

メイクも落としてしまったので
行きたくないと渋ったが 
無理やりスタジオに連れて行かれ ファンク監督に会った。

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懐かしい映画の裏話など 頑張って頑張って書きました。

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