26人を撃った男が、謝らずに死んだ テロを「義勇兵」と呼ぶことの危うさ
日本赤軍の岡本公三容疑者が、亡命先のレバノンで死んだ。78歳だった。7月23日、彼を保護してきたパレスチナ解放人民戦線(PFLP)が死亡を発表した。
名前にピンとこない人も多いかもしれない。だが、彼がしたことは、戦後日本のテロの歴史でも際立って残忍なものだった。1972年5月30日、テルアビブの空港で、彼は仲間二人とともに自動小銃を乱射し、26人を殺害した。犠牲者の多くは、聖地巡礼に来ていたプエルトリコ人のキリスト教徒だった。武器を持たない、無関係の民間人である。
そして彼は、最期まで、その罪を正面から詫びることはなかった。
「赤軍兵士」を名乗った被告
事件直後、仲間二人は死に、岡本ただ一人が生き残って逮捕された。イスラエルの法廷で、彼は自らの職業を問われて「赤軍兵士」と答えた。民間人を殺したことについて、謝罪の言葉はなかった。
終身刑が確定したが、1985年、捕虜交換であっけなく釈放される。彼はレバノンに渡り、イスラエルと敵対する勢力の庇護のもとで、その後の人生を生きた。日本の警察は釈放直後から国際手配を続けたが、レバノン政府は彼の政治亡命を認め、身柄が日本に戻ることはついになかった。26人を殺した男は、一度も日本の法廷に立たないまま、生涯を終えたことになる。
晩年、彼は取材に対し、犠牲者への哀悼らしき言葉を口にしたこともある。だが2017年には、「事件はテロではなく、武装闘争だった」「武装闘争は今も昔も最高のプロパガンダになる」と語り、反省と謝罪を問う記者の質問には答えなかった。
哀悼と、正当化。この二つが同居しているところに、この人物の最後まで解けなかった歪みがある。
「義勇兵」という言い換え
産経新聞の報道によれば、かつて日本赤軍の最高幹部だった重信房子氏は、岡本容疑者の死を「義勇兵」と表現して悼んだという。
この一語に、私は立ち止まらざるをえない。
義勇兵。自らの信念に基づき、志願して戦いに身を投じる者――そう呼べば、たしかに響きは美しい。だが彼が「戦った」相手は、軍隊ではない。空港のロビーで荷物を待っていた、丸腰の巡礼者たちだった。武装した兵士同士の戦闘ではなく、無防備な民間人への一方的な殺戮である。それを「義勇兵の戦い」と呼ぶのは、言葉によって現実を塗り替える行為にほかならない。
「テロ」を「武装闘争」と言い換える。「無差別殺人」を「革命」と呼ぶ。「テロリスト」を「義勇兵」と讃える。この言い換えの連鎖こそが、半世紀にわたって、彼らが自らの罪と向き合うことを妨げてきたのだと思う。言葉を美しくすればするほど、26人の死は、抽象的な「闘争の代償」へと薄められていく。
私たちが慣れてはいけないこと
誤解のないように書いておく。パレスチナの人々が置かれてきた苦境や、中東をめぐる歴史の複雑さを、否定するつもりはまったくない。そこには、真剣に考えるべき現実がある。
だが、それと、無関係な民間人を撃ち殺すことのあいだには、越えてはならない一線がある。どれほど大義を掲げようと、丸腰の人間に銃口を向けた瞬間、それは正義ではなく、ただのテロになる。目的が手段を正当化しない――これは、右も左も関係のない、文明社会の最低限の約束事のはずだ。
だからこそ、テロリストの死が「義勇兵」への追悼として語られることに、私たちは慣れてはいけないと思う。慣れてしまえば、次は誰かが同じ論理で、同じことを繰り返す。彼を英雄視する物語が生き延びるかぎり、テルアビブの悲劇は「過去」になりきらない。
悼まれるべきは、誰か
岡本公三の死に際して、思い出されるべき名前がある。それは彼の名ではない。あの日、聖地を目指し、空港で命を奪われた26人の名前である。
彼らには、帰るべき家があった。待っている家族がいた。その未来を、一人の男が「革命」の名のもとに奪った。そして半世紀後、その男は謝罪も裁きもないまま、支援者に囲まれて世を去り、「義勇兵」と悼まれている。
この非対称を、静かに記録しておきたい。悼まれるべきは、撃った側ではない。撃たれた側だ。そのことだけは、どんな言い換えにも譲ってはならない。
[文・構成=編集部]
