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ゴッホ〈ジャポネズリー〉

日本人に人気の高い画家の一人、フィンセント・ファン・ゴッホ。
ゴッホもまた日本に憧れていた、という話はよく知られている。ついにはフランスの中にある日本に似た場所と信じて、南フランスのアルルに移り住み、理想郷の建設を夢見ていたほどだ。
しかし、なぜゴッホは日本に憧れるようになったのか。
彼の夢はどのようにして育って行ったのか。
その鍵を握る作品として、今回は〈ジャポネズリー:花魁〉誕生の物語に迫ってみたい。

①ヨーロッパの日本ブーム

長い間、ヨーロッパの人々にとって、日本は中国よりもはるかに東、海を越えた向こうに存在する謎のベールに包まれた国だった。唯一オランダが出島で限定的な形での貿易を許されていたが、その実態を知る者はごくわずかだった。
しかし、1854年、日米和親条約締結を機に長きにわたる鎖国体制が解け始める。そして浮世絵や屏風、扇子など大量の日本の文物が一気にヨーロッパに流入し始めたことで、「日本趣味(ジャポニズム)」ブームが各地を席巻していく。
ゆったりした着物は女性たちの部屋着となり、陶磁器や屏風などはエキゾチックなインテリアグッズとして部屋を飾った。
モネの〈ラ・ジャポネーズ〉やホイッスラーの〈陶器の国の姫君〉などの作品には着物を羽織った女性だけでなく、扇や団扇などのアイテムが描かれており、日本ブームの浸透ぶりが伺える。

クロード・モネ、〈ラ・ジャポネーズ〉、1876年、ボストン美術館(パブリックドメイン)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BA)


ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、〈陶器の国の姫君〉、1863〜65年、フリーア美術館(パブリックドメイン)(出典:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Princess_from_the_Land_of_Porcelain)


だが、当時のヨーロッパ文化、とりわけ美術に大きな影響を与えたのは浮世絵だった。
伝統的な西洋美術の表現に飽き足らないものを覚えていた当時の若い画家たちにとって、浮世絵は新しい表現の宝庫だった。特に印象派の画家たちは、鮮やかな色彩や大胆な構図に惹かれ、積極的に自らの制作に取り入れていったのである。

②ゴッホ、パリで浮世絵と出会う

フィンセント・ファン・ゴッホがパリにやってきたのは1886年の2月末だった。故国オランダではバルビゾン派の画家ミレーに心酔し、彼の影響のもと茶色や灰色などをベースにした暗い色調で農民や労働者などのモチーフを描いていた。
だが、フランスに出てきて、印象派という最先端の絵画表現を前にしたゴッホは、大きな衝撃を受ける。
印象派の画家たちは絵の具を混ぜ合わせず、細かな筆触を並べていく「筆触分割」や明るい色使いによって、ミレーら先輩画家たちとは全く異なる画面を作り上げていたのである。
ゴッホは文字通り目から鱗が落ちるような思いだった。
早速赤や青、黄色などの明るい色彩や筆触分割 、その発展形である点描技法を自分の作品でも意識して使うようになっていく。膨大な実践を経て、それらはゴッホ自身の血肉となっていった。

フィンセント・ファン・ゴッホ、<アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ>、1887年、オルセー美術館(パブリックドメイン)(https://docs.google.com/document/d/1iqG5nI1xhfWm1xKmvDyQuoziLzqU_8jcuNY2DpBCQsw/edit?tab=t.0)


そして、さらにゴッホが学ぶべき対象として目を向けたものこそ、印象派も影響を受けた日本の浮世絵だった。
ゴッホは弟のテオと共に夢中で浮世絵を収集し、レストランで展示会まで開いた。


フィンセント・ファン・ゴッホ、〈タンギー爺さん〉、1887年、ロダン美術館(パブリックドメイン)(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%BC%E7%88%BA%E3%81%95%E3%82%93)


この絵の具商を描いた〈タンギー爺さん〉でも、背後の壁に兄弟が集めたと思しき浮世絵がびっしりと隙間なく貼り並べられている。
その密度からも、兄弟の熱中ぶりは伺えるだろう。
が、ゴッホはただ作品を集めるだけに終わらなかった。1887年秋、彼は、油彩技法によって浮世絵作品の忠実な模写を行った。

③ジャポネズリー

ゴッホが模写対象として選んだ作品は3枚ある。
広重の名所絵シリーズ『名所江戸百景』の中の2枚、〈大橋あたけの夕立〉と〈亀戸梅屋舗〉。
そして溪斎英泉の〈雲龍打掛の花魁〉。
このセレクトを見ると、ゴッホは目的意識を持って模写に取り組んでいたのかもしれない。
例えば 〈大橋あたけの夕立〉では、橋をはるか上空から見下ろすような構図と、降りしきる雨をたくさんの線によって表す描き方に引かれたのだろう。


歌川広重、<名所江戸百景 雨の大橋あたけ>、1857年(パブリックドメイン)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E6%A8%A1%E5%86%99%E4%BD%9C%E5%93%81)


フィンセント・ファン・ゴッホ、<ジャポネズリ―:雨の大橋>、1887年、ファン・ゴッホ美術館(パブリックドメイン)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E6%A8%A1%E5%86%99%E4%BD%9C%E5%93%81)


歌川広重、〈名所江戸百景 亀戸梅屋舗〉、1857年(パブリックドメイン)(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E6%A8%A1%E5%86%99%E4%BD%9C%E5%93%81)


フィンセント・ファン・ゴッホ、<ジャポネズリー:亀戸の梅>、1887年、ファン・ゴッホ美術館(パブリックドメイン)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E6%A8%A1%E5%86%99%E4%BD%9C%E5%93%81)


〈亀戸梅屋舗〉でのモチーフを前景にはみ出さんばかりに大きくクローズアップして、遠近感を強調する「近像構図」は、〈夜のカフェテラス〉や〈星月夜〉など後の多くの作品で応用されている。

https://note.com/jbcde_2019/n/n06b4fcd6f30c

描くにあたっては、升目を使ってトレースするなど、できる限り形を正確に写し取ることにこだわっていたようだが、色彩をより鮮やかなものに変えるなど 独自の工夫を試みてもいる。
また画面の両端には、漢字らしきものまで描き込まれている。これらの漢字は原作にはないもので、ゴッホがその意味を理解していたとは考えにくい。おそらくは日本を想起させるモチーフとして別の作品などから引用し、描き込んだのかもしれない。
そして唯一の人物画が〈ジャポネズリー:花魁〉だ。


フィンセント・ファン・ゴッホ、<ジャポネズリー:花魁>、1887年(パブリックドメイン)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E6%A8%A1%E5%86%99%E4%BD%9C%E5%93%81)

もともとゴッホは人物画家になることを志していた。〈タンギー爺さん〉の背景にも、美人大首絵や花魁の全身像を描いた美人画が描き込まれており、日本の人物表現にも強い関心を寄せていたことが伺える。
なおこちらは他の2枚と違い、雑誌『パリ・イリュストレ』の表紙に転写されたものを原画としているため、英泉の原画とは左右が逆になっている。


「パリ・イリュストレ」誌1886年5月号 (パブリックドメイン)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E6%A8%A1%E5%86%99%E4%BD%9C%E5%93%81)


渓斎英泉、<雲龍打掛の花魁>、千葉市美術館、1830年頃(パブリックドメイン)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%93%E6%96%8E%E8%8B%B1%E6%B3%89) 


濃い黄色の背景や青い簪など、ゴッホの模写には、原画よりもはるかに鮮やかな色が使われ、より華やかな印象に仕上がっている。
そして興味深いのは、花魁を描いた黄色い画面の外側に水辺の風景が描き込まれていることだ。
竹や睡蓮などの植物だけではない。鶴や蛙、さらに遠くには船に乗った2人の人物のシルエットも見える。これらのモチーフは、他の複数の日本の版画からゴッホが気に入ったものを選び、引用したものと推測されている。
このように気に入ったモチーフを取り出し、一つの画面の中に再構成して新たなイメージ世界を作る手法は、現代のコラージュ作品に通じる発想と言えるだろう。
他の2枚の作品に漢字を描き加えたのも、日本らしさを加えることで、自分の中の「日本」のイメージをより強く表そうとしたのかもしれない。

ゴッホは模写を通じて技法を習得しただけではない。描き重ねる中で自らの理想とする「日本」のイメージを作り上げ、憧憬を強めていった。
そしてその思いは、1888年2月、「日本」に似た場所と信じたアルルへの移住を後押しし、同地に理想郷を建設するという夢へとつながっていくのである。


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