龍蛇信仰と羽衣伝説 靖国・君が代・朝鮮半島3 (歴史の改ざん・日韓対立への道.20)
「羽衣」が示す「月宮殿」

写真は明治40年(1907年)10月16日・17日に韓国を訪問した際に「景福宮 慶会楼」で撮られた一枚になります。

能の謡曲「羽衣」より画題が採られた大壁画「羽衣」が掲げられていた「朝鮮総督府庁舎」。
外壁もレンガではなく「永久不滅の月世界」を示す花崗岩(白と黒が混じった岩石・墓石にも使われる)を使用していました。
※MSNのリンクは「近代日本の象徴”だった名作レトロ建築の世界。爆破解体された「朝鮮総督本庁舎」を写真で振り返る」になります。
すばらしいことに新韓国皇帝の王宮予定であった「月宮殿」がカラーで保存されています。

シテ 天人 ワキ 伯良(※白龍とも書く) ワキツレ 漁夫
ワキ一聲三人謠「風早の、三保の浦わをこぐ舟の、浦人騒ぐ浪路かな。
ワキサシ謠「是は三保の松原に、伯良と申す漁夫にて候。
ワキ三人謠「萬里の好山に雲忽に起り、一楼の明月に雨始て晴れり。げにのどかなる時しもや、春のけしき松原の、浪立ちつゞく朝霞、月も残りの天の原、及なき身の眺めにも、心そらなるけしきかな。
下歌「忘れめや、山路をわけて清見潟(※徳川幕府が、李王家が送った朝鮮通信使を接待した清見寺の門前で、静岡市清水区興津の辺りにあった景勝地)、遙に三保の松原に、立ちつれいざや通はん、立ちつれいざや通はん。
上歌「風向ふ、雲の浮浪たつと見て、雲の浮浪たつと見て、釣せで人や歸るらん。待てしばし春ならば吹くものどけき朝風の、松は常盤の聲ぞかし、浪は音なき朝なぎに、釣人おほき小舟かな。釣人おほき小舟かな。
ワキ詞「われ三保の松原にあがり、浦のけしきをながむる所に、虚空に花ふり音楽きこえ、霊香四方に薫ず。是唯事と思はぬ所に、これなる松にうつくしき衣かゝれり。よりてみれば色香妙にして常の衣にあらず。いかさま取りて歸り古き人にも見せ、家の寶(※宝)となさばやと存じ候。
シテ詞「なうその衣は此方のにて候。何しにめされ候ぞ。
ワキ詞「是は拾ひたる衣にて候程に取りて歸り候よ。
シテ詞「それは天人の羽衣とて、たやすく人間に與ふべき物にあらず。元の如くに置き給へ。
ワキ詞「そも此衣の御主とは、さては天人にてましますかや。さもあらば末世の奇特に留めおき、國の寶となすべきなり、衣を返す事あるまじ。
シテ詞「かなしやな羽衣なくては飛行の道も絶え、天上に歸らんことも叶ふまじ。さりとては返したび給へ。
ワキ謡「此御詞を聞くよりも、いよいよ伯良力を得、
詞「本より此身は心なき、天の羽衣(※天皇が大嘗祭で身に着ける湯帷子も天の羽衣である)とりかくし、
謡「かなふまじとて立ちのけば、
シテ謡「今はさながら天人も、羽なき鳥の如くにて、あがらんとすれば衣なし、
ワキ謡「地にまた住めば下界なり、
シテ謡「とやあらんかくやあらんと悲めど、
ワキ謡「伯良衣をかへさねば、
シテ謡「力及ばず、
ワキ謡「せんかたも、
地謡「涙の露の玉鬘、かざしの花もしを花もしをと、天人の五衰も、目の前に見えてあさましや。
シテ謡「天の原ふりさけみれば霞たつ、雲路まどひてゆくへ知らずも。(※丹後風土記の羽衣天女の歌)
地謡「住み馴れし空にいつしかゆく雲の、うらやましきけしきかな。
上歌「迦陵頻迦(※上半身が人、下半身が鳥の仏教上の想像生物)のなれなれし、聲今さらにわづかなる、鴈のかへりゆく、天路を聞けばなつかしや、千鳥鷗の沖つ浪。ゆくか歸るか春風の、空に吹くまでなつかしや、空に吹くまでなつかしや。
ワキ詞「いかに申し候。御姿を見たてまつれば、あまりに御痛はしく候程に。衣をかへし申さうするにて候。
シテ詞「あらうれしやこなたへ給はり候へ。
ワキ詞「暫く。承り及びたる天人の舞楽、只今こゝにて奏し給はゞ、衣をかへし申すべし。
シテ謡「うれしやさては天上に歸らん事をえたり。このよろこびにとてもさらば、人間の御遊のかたみの舞、月宮を廻らす舞曲あり、只今こゝにて奏しつゝ、世のうき人に伝ふべし。さりながら、衣なくては叶ふまじ。さりとては先かへし給へ。
ワキ詞「いや此衣をかへしなば、舞曲をなさでそのままに、天にやあがり給ふべき。
シテ詞「いや疑は人間にあり。天に僞なきものを。
ワキ謡「あら恥かしやさらばとて、羽衣を返し與ふれば。
シテ謡「少女は衣を著しつゝ、霓裳羽衣の曲(※唐の玄宗皇帝が楊貴妃に贈った舞曲)をなし、
ワキ謡「天の羽衣風に和し、
シテ謡「雨に潤ふ花の袖、
ワキ謡「一曲を奏で、
シテ謡「舞ふとかや。
地謡「東遊の駿河舞、東遊の駿河舞、此時や始めなるらん。
クリ地謡「それ久方の天といつぱ、二神出世の古(※伊弉諾尊・伊弉冉尊が誕生したはるか昔)、十方世界(東西南北・北東・北西・南東・南西・上下の十の全ての世界)を定めしに、空は限りもなければとて、久方の空とは名づけたり。
シテ、サシ謡「然るに月宮殿の有様、玉斧の修理とこしなへにして。
地謡「白衣黒衣の天人の、數を三五(※月世界を陰陽15人【15夜】づつ)に分つて、一月夜々の天少女、奉仕を定め役をなす。
シテ謡「我も数ある天乙女、
地謡「月の桂の身を分けて、假に東の駿河舞、世に傳(※伝)へたる曲とかや。
クセ「春霞たなびきにけり久かたの、月の桂も花や咲く。げに花かつら、色めくは春のしるしかや。面白や天ならで。こゝも妙なり天津風、雲の通路吹きとぢよ、少女の姿、しばし留りて、此松原の、春の色を三保が崎(※南伊豆、古代の祭祀遺跡がある)、月清見潟富士の雪、いづれや春の曙、たぐひ浪も松風も、長閑なる浦の有様。其上天地は、何を隔てん玉垣の、内外の神の御末にて、月も曇らぬ日の本(※日本)や、
シテ謡「君が代は、天の羽衣まれに來て、
地謡「撫づとも盡きぬ巌ぞと、聞くも妙なり東歌、聲添へてかずかずの、笙笛琴箜篌(※大陸から伝わった雅楽で使用される楽器)、孤雲の外に満ち満ちて、落日の紅は、蘇命路の山をうつして、緑は浪に浮島が、拂ふ嵐に花ふりて、げに雪を廻らす、白雲の袖ぞ妙なる。
シテ謡「南無帰命月天子(※月宮殿に住み、薬師如来の右脇に従う菩薩)、本地大勢至。
地謡「東遊の舞の曲、
(序の舞)シテ、ワカ謡「あるひは、天つ御空の緑の衣、
地謡「又は春立つ霞の衣。
シテ「色香も妙なり少女の裳裾、
地謡「さゆふさ、さゆふ颯々(※風の吹く様)の、花をかざしの天の羽袖、なびくもかへすも舞の袖。
(端の舞)地謡「東あそびの數々に、東あそびの數々に、その名も月の宮人は、三五夜中の空に又、滿願眞如の影となり、御願円滿国土成就、七宝充滿の寶を降し、国土に是を施し給ふ。さるほどに時移つて。天の羽衣浦風に、たなびきたなびく三保の松原、浮島が雲の、足高山や富士の高嶺、かすかになりて天つ御空の、霞にまぎれて失せにけり。
謡曲「羽衣」を画題にしたことで、天女の羽衣と、唐の玄宗皇帝が残したとされる舞曲などの複数の意味が掛けてありました。
「東遊の駿河舞、東遊の駿河舞、此時や始めなるらん。それ久方の天といつぱ、二神出世の古、十方世界を定めしに、空は限りもなければとて、久方の空とは名づけたり。然るに月宮殿の有様、玉斧の修理とこしなへにして。」
東遊の駿河舞とは、東国の舞曲で奈良時代に宮中の舞楽に取り入れられました。
駿河(静岡県 )に天人が降りて舞ったものが起源と言われていますが、出雲国造の千家 尊福が出雲族の調査のため国の指示で知事となった場所が埼玉県と静岡県でした。
また「月宮殿」とは、須弥山にある玉斧(玉で飾った斧)で造られた月天子という、多くの天女を侍らし、その寿命は500歳といわれるインドの月の神の住む永遠の宮殿になります。
ここを仙人に導かれ訪れたとされる人物が唐の玄宗皇帝であり、その際に耳にした天人の舞楽にならって作った「霓裳羽衣の曲」を愛妾 楊貴妃に贈ったと伝わっています。
「羽衣」の天女の秘密

謡曲「羽衣」の舞台は静岡県の三保の松原ですが「天の原振りさけみれば霞たつ雲路(家路)まどいてゆくえ知らずも」と豊受大神が老夫婦によって追われた際に詠んだ歌が謡われており、この2つの「羽衣天女」が同じ話であることを示していました。
その「羽衣伝説」が丹後国 丹波郡の比治の里(京都府 京丹後市 峰山町)に伝わるものでした。
逸文によれば、丹後国 比治山(現今の京都府 京丹後市 峰山町の磯砂山)の山頂にあった麻奈井(真名井)の井(泉)で、天女八人が水浴びしていたとき、和奈佐という老夫婦が、一人の天女の衣装(羽衣)を隠し、恥ずかしがっていた彼女が求めてもなお欺罔を(※騙そうとしていると)疑って返さず、帰れなくなった天女を養女にした。
天女はたった一杯で万病に効くという酒をつくり、おかげで家は富む。十余年、天女は共に暮らした。
しかし豊かになると老夫は「汝は吾が子ではない」と言い天女を追い出してしまう。天女は慟哭しつつそこを去り、次の歌を詠む:
天の原 降り放け見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも
老夫婦の村(今は比治の里の村というが)は、いっとき栄えて土形の里まで呼ばれるようになっていたが、天女が自分の心情を「荒塩」のようだと言い残したので、荒塩の村ともいわれるようになった。
すなわち、追い出した後の村は荒廃した。天女は丹波国 哭木の村に行きつき、そちらの村人には、「これで私の心は奈具志久(おだやかに)なった」と言った。
ここに奈具神社が創建され、祀られたこの天女こそ豊宇賀能売命である、とする(旧社地は不詳だが、現在は竹野郡 弥栄町 船木に再建される)。
また京都府 京丹後 市 峰山町には、「月の輪田」と呼ばれる「三日月形(弓張月・半月の形)の田」があります。
月の輪田は、京都府 京丹後 市 峰山町 二箇にある、京丹後市が所有する約7平方メートルの水田史跡。
稲作発祥の地とする伝承がある。
「月の輪」の名は三日月形の田であることに由来し、「三日月田」ともいう。京丹後 市峰山町 二箇と苗代の間に所在する、三日月形の小規模な田である。
江戸時代に編纂された『丹後旧事記』などによると、食物の女神・豊受大神が、天照大神のために籾種を蒔いて稲作をした場所が、月の輪田であるとされる。
豊受大神は丹後地方で広く信仰される神で、この田で稲を育てて天照大神に献上したという伝承が残る。
豊受大神は、古くは月の輪田の付近に所在する比沼麻奈為神社に鎮座していたと伝えられ、後に三重県の伊勢神宮外宮に祀られるようになった。
京丹後・鳥取・島根・吐含山 海を越えてつながっていた「羽衣伝説」
朝鮮半島と日本列島をつなぐ別の「羽衣伝説」は日本海に沿う形で残っていました。
それが、「大国主命と因幡の白兎」の出雲神話が残る鳥取県(因幡・伯耆)の羽衣伝説「打吹山(現在は打吹山)の羽衣伝説」でした。
東伯郡(鳥取県 東伯郡 湯梨浜町)に伝わるものですが明治45年(1912年)に出版された「因伯昔話」にありますので、これを引用して説明します。
伯耆國東伯郡に羽衣石山といふ山があります。峰は高く雲をいたゞき麓には東郷池が堪へて(※あって)、誠に景色のよい山であります。
此山に一つの大なる石があつて、この石を羽衣石と呼びます。
これについては次のやうな話があります。
この羽衣石山はまことに景色のよい神々しい所でありますから、時々天女が天から下りて來て休息いたします。天女は美くしい大きな石を好んで其上で舞ふのが、何よりもの楽でありました。
此山の石も奇麗な磨いたやふな石でありますから、此石に下りて來ては羽衣の袖で石を輕く打ち、打つては空中に舞ひ上ります。(※謡曲「羽衣」では「撫づとも尽きぬ巌かな」)
或日いつものやふに羽衣石山に來て羽衣を飜して舞つてゐましたが少々疲れたと見えて羽衣を其石の上にかけて木蔭に寢んでしまひました。
こゝに此近くの農夫でありましたが偶々此山に上つて見ますと、石の上に見訓れぬ(※見馴れぬ)美くしい着物があります。
農夫は「これは美しい着物だ、天人の羽衣といふものかも知らん」と思ひ、手早く其着物を奪つてサッサと歸(※帰)つて行きました。
天女は目覺めて其處らを見ますと、脱いで置いた羽衣がない。風が奪つて逃げたのかしらと彼方此方を探しましたが見當りません。泣き悲しんでゐましたが、何處からとも無く。
「和女は暫時の間、人間界に住ま無ければならん。何年かの後に白い花の咲いた蔓草の下で子供に救はれるであらう。」と云ふ聲がしました。
ところが不思議や、これまで天女であつた乙女はスツカリ天上の事は忘れて全くの人間となつて了ひました。
たゞの人となつて見ると衣服が薄いので寒さを覺えて來ます、だんだんお腹が空いて來ます。羽衣石の山の上に居ても少しも食物とてはありませんので乙女はスゴスゴと山を下り、人里近くに來て食物を求めました。
さて或農家まで來まして食物を求めますと其家からは老齢の婆さんが出て「マアお気の毒な、見れば舊は立派なお姫さんらしいが、大層寒さうでご座いますこと。お腹も空いたのでせう、どうか遠慮なく召上んなさい、着物も立派なのではないが差上げませう。お差支えなければ私共の宅へお留りなさい」と親切に云つて呉れました。
此家はかの羽衣石山で羽衣を奪つて歸つた農夫の家であります。
しかし農夫も婆さんもこれが天女であることは知りません。天女も固より自分が天女であることは忘れてゐました。
天女の乙女は此農夫と夫婦になつて此家に久しく暮しましたが、其中に二人の可愛らしい女子を設けました。
子供はだんだん成長しましたが、二人の子供は非常に親孝行で、父母の仰せは未だ一度も背いた事はありません。
又楽しみとしては音樂が大層好きで、笛、鼓、鐘、笙、篳篥の類誰も教えないのに上達して來ました。(※雅楽の国風歌舞に使われる楽器であり謡曲「羽衣」では「東遊の駿河舞」)
そして何時も父母の望によつて之を奏して(※演奏して)其心を慰めて居ました。
或日、此農家の人は一同揃つて倉吉の神坂といふ所に遊びに來ました。其家を出る時に農夫は「宅に餘程以前から一枚の着物が大切にしてある、今日は一同が樂しく遊歩に出るのだから、これを姉に着せやう」と云つて。かの羽衣石山で拾つて來た羽衣を着せて出掛けました。
さて一同は神坂まで來まして此處で休息まうと云ふので、芝の上に休みました。
此時姉の少女は「今日は私こんな着物を着てゐるから、舞ひませう和女は笛を吹いて」と妹の少女に笛を吹かせて舞ひました。
妹は「私も舞つて見ませう」と姉と入替って舞ひました。
此時天女の母親は舞の手を見て居ましたが「その手の伸し方が少し拙い、妾が教えて上げませう。少時その羽衣をお貸しなさい」と云つて、羽衣を身に着けました。
羽衣を身に附けて舞ひかけますと最早人間の心は悉皆失くなつて、忽ち羽衣石山の大磐石の上に休んでゐた時の心持になりました。
同時に身體は輕くなつて、空中に浮んでゐます。
子供は驚いて「アレ阿母さん。どうしたのです。今一度、降りて下さい、アレ阿母さん」とオロオロしてゐます。
母親の天女は「妾は、全く忘れてゐましたが元來は羽衣石の山にゐた天人です。今、はからず、何も彼も分りました。其時、妾の羽衣が紛失なつて、それきり人間になりましたが、今も今とて羽衣とも知らず此着物を着たればもとの天人となりました。
二人の子供も伴れて行きたいが天上には人の子の住む所がありません。白い花の咲いた蔓草の下で子供に救はれると聞きましたが、もし其處らに白い花の咲いた蔓草は有りませんか檢べて見て下され、もしあつたら、是きりの御縁と斷念めて下さい、ずいぶん身體を大事に」と云つて、遠く高く天上に消えて行きました。
見れば鳥井の側に一つの井戸がありまして夕顔の花が白く咲いてゐます。
二人の女子は「ア々仕方がないせめてあの山の嶺に上つて音樂を奏したら阿母さんの耳に届くかも知れない。阿母さんは音樂が大層好きで在つた」と此山に上つて姉妹の子供は笛を吹き鐘をならして母のあとを慕ひました。
しかし天上の人は再び地下の人とはなりません。永く打吹山の音樂の響のみ殘つて哀れを後の世に傳へました。
打吹山といふのは此時から名けた名であります。
この「打吹山(東伯郡)」が、私の父豊田 稔の話していた「重要な羽衣伝説」と同じものになります。

父は祖父豊田 靖国のお供でたびたび朝鮮神宮に連れていかれ社務所で正座をして祖父と宮司の話を聞かされていたため、このことも、その際に聞いた話とのことでした。
ここでは「此山に上つて姉妹の子供は笛を吹き鐘をならして母のあとを慕ひました。」と書かれていますが、父の話では楽器は太鼓(を打つ)と笙(を吹く)の2つでした。
どれも雅楽や神楽に使われる楽器で、雅楽と共に中央アジアや東南アジア方面から船や陸路で中国、朝鮮半島を経由して日本に伝わったとされています。
神功皇后が祀られている大阪府 大阪市の住吉大社には豊臣家が奉納した石舞台(大阪府 大阪市の四天王寺と、広島県 廿日市市の厳島神社の石舞台とあわせて日本三大石舞台と呼ばれている)があり、羽衣伝説同様に、その石の上で舞楽が奉納されていました。
さらに父の話では、記憶を取り戻して打吹山の天女が去っていった先が、朝鮮半島と聞かされたということでした。
「白い花の咲いた蔓草」という出雲族が尊んだという「白色」と「花の咲いた蔓草」が「打吹山」で書かれていますが、この植物が「夕顔」でした。
かんぴょうの材料となる食べられる夕顔(ウリ科ユウガオ属の植物)と、乾燥させて容器に使われるひょうたん(瓢箪・瓢、ウリ科ユウガオ属)は同じ瓜科の植物であり、原産地はインドや北アフリカだそうです。
また、白色を尊ぶ文化(白蛇・白龍・白鹿・白馬・白牛・白山など)もインド・中国を経由して日本に伝わったとされています。
朝鮮半島の新羅からの新羅人または渡来神と伝わるアメノヒボコの子孫にあたる田道間守は、垂仁天皇のために常世国に非時香菓(現在の橘・みかんの類)を採りに行きました。
この橘は伊豆の山野にも奈良時代以前より自生していたそうですが、インドやミャンマー、タイ一帯が原産地とされ、中国で本格的に栽培されて後、日本に伝わったと考えられています。
※韓国 済州島(三姓穴)・九州一帯・四国地方・和歌山県(熊野・徳川御三家 紀州藩)愛知県(東三河・徳川御三家 尾張藩)・静岡県(伊豆毛・三嶋大社)・神奈川県(武蔵国 橘樹郡)・千葉県(千葉氏)・茨城県(徳川御三家 水戸藩)など出雲族と縁が深い場所は柑橘類で有名です。
このインド・中国方面から日本に来たことを示唆する天女が「白い夕顔の花」が咲き天へと帰ったことが、朝鮮半島の斯盧国(白国・新羅)初代の王「朴 赫居世」へとつながるとのことでした。

斯盧国では朴は瓢箪・匏のことで、天上から降りた白馬が産んだ瓢箪のような卵から生まれたことから「朴 赫居世」と名付けられたと高麗の史書「三国遺事」に記録されています。
そして白馬は「西遊記」に出てくる、四海龍王の4人の内の西海龍王敖閏の第三太子玉龍の様に、龍が変じたものとされていました。

これは地上世界を治めるべく天より遣わされた「王・皇帝」は、この世での勤めを果たすと龍の姿になって再び天へと帰って行く(王の存在とその生死)という大陸から伝わった「龍蛇信仰(龍神信仰)」の一部でした。
そのため宮廷の重要な儀式が行われた「紫宸殿」も、建物の屋根を示すウ冠に龍の意味もある「辰」となっていました。

昭和56年(1981年)出雲大社に参拝した際に父が説明してくれたものですが、古くは日本にも「王・天皇=天より遣わされた龍人」という考えがあったものの明治維新を迎えるずっと前に「天皇=龍」という考えは無くなったと祖父たちが話していたとのことでした。

しかし「天人=龍人」の考えは、形を変えて残り続けました。

月の世界で罪を犯し下界に降ろされた籠女(籠舟に入れられて天の川から下界に流されたかぐや姫)。
竹取の翁によって光り輝く竹から取り出されると成長の後に迎えに来た月の使者と共に帰って行きました。

その際に、かぐや姫も「天の羽衣」を身に着けると地上での記憶を失くしたとされています。
現在でも昔話として広く知られている「かぐや姫の物語」もまた「白鳥処女説話」の一つでした。
さらに、これらの伝説は高天原から新羅の曾尸茂梨に降りたとされる「スサノオノミコト」と関わる伝説とつながっていました。
日本と大陸をつなぐ「天人・天女」の秘密
新羅の三日月形をした土地に作られた月城(半月城)(現在の韓国 慶尚北道 慶州)までつながる「天人(龍人)・羽衣伝説」。

明治40年(1907年)に山陰道行啓として島根県の「出雲大社」参拝を前に嘉仁親王(大正天皇)が拝まれた神社が丹後国の一宮、京都府 宮津市の「籠神社」でした。
籠神社のすぐ側には天橋立があり「イザナギノミコトが九志備の浜の北の真名井原に住むイザナミノミコトへ天から通うために梯子を作ったが、寝ている間に倒れてしまった」という由来で知られています。

伊勢神宮と籠神社にのみある飾り玉「五色の座玉」。
その由来である女媧の「錬石補天」の伝説は、現在はほとんど語られることはありません。
私の父の話によると大東亜戦争(太平洋戦争)敗北前は比較的知られていた伝説だったそうです。

古代中国から伝わり陰陽道へと独自進化した「陰陽五行思想」。
七夕(七七・7月7日)で願いを書く短冊の色も「五色の短冊」となっています。
また「七七四十九」とは仏教では、薬師如来により後生(死後の行き先)が定まる「四十九日」「七七日(しちしちにち・ななぬか)」とされています。
そして薬師如来(泰山府君・妙見菩薩・牛頭天王)は「スサノオノミコト」になります。

伏羲は手に「矩(曲尺・指金)」を、女媧は手に「規(コンパス)」を持っています。
指金は北斗七星(天人が水を汲む柄杓)にも例えられる大工の道具ですが、日本には聖徳太子の時代に秦河勝がもたらしたと伝わっています。

徳川の国譲り「大政奉還」のため岡山藩の牧野 権六郎らと動いた後藤 象二郎の旧土佐藩、高知県 宿毛市の妹背山(古くは妹背島)にも「伏羲と女媧」の洪水伝説が残っています。


五色の座玉の籠神社の奥宮が伊勢神宮外宮に祀られるまで「豊受大神」が鎮座していた故事のある「真名井神社」でした。
古くは、ひょうたんの褒め言葉である「天のよさづら」から「匏宮」とも呼ばれていました。
また「打吹山の羽衣伝説」では「天女は美くしい大きな石を好んで其上で舞ふのが、何よりもの楽でありました」とありましたが、真名井神社の背後には神が宿る磐座が祀られています。

そして鳥取県で嘉仁親王(大正天皇)が訪れていた場所が「打吹公園」でした。
鳥取県 倉吉市 仲ノ町の打吹山の麓にある公園に建てられた「飛龍閣」は嘉仁親王(大正天皇)の宿舎として使用されました。
そして、ここもまた「飛龍」の名が示す通り「夕顔の花が咲き天女が天へと帰って行った=籠女が再び龍へと変えり天へと昇った」という「羽衣伝説」の場所だったのです。
「易経」を生んだ伏羲を祭る中国の典礼では太鼓と鐘が奏でられますが、笙(匏)は女媧が生み出したとされています。
「太鼓や鐘を打ち鳴らし笙を吹く」から「打ち吹き山」となり、子供を疫病から守る牛頭天王(スサノオノミコト)より授かりし「26の秘文」とされる陰陽道の呪い歌にも「里のみやげに 何もろた でんでん太鼓に笙の笛」と歌い込まれています。

島根県に入った嘉仁親王(大正天皇)が訪れていた場所の一つ江津村(島根県 江津市 嘉久志町)
その土地の岩根神社に伝わる「胸鉏比売」の伝説が箱舟(籠舟)で海岸に流れ着き老夫婦に拾われ育てられたスサノオノミコトの娘の話でした。
神がこの世を収めていたころの話。
今の江津市波子の海岸に一艘の箱舟が流れ着いた。通りかかった老夫婦が中を覗くとそこにはかわいい女の子が入っていたので、連れ帰って育てることにした。
その女の子は身分のある者らしく良い着物を着て上品であった。
老夫婦は我が子のように慈しんで育てた。何年か経って女の子は美しい娘に成長した。
ある日、おじいさんが「お前はどこから来たのかね?」と問うと、娘は黙って東の方を指した。何度聞いても娘は黙っていた。娘は美しく成長したが、毎日のように弓矢の稽古に励んでいた。また、家の中では必ず上座に座った。
娘が十三歳になったある日、東の出雲の方に狼煙が上がり、天をこがした。それを見た娘はついに出自を明らかにした。娘は出雲の須佐能男命の娘で田心姫といった。幼い頃、心が荒々しかったため、父の怒りに触れ流されたという。
夢のお告げで娘が出雲に帰れば、十羅の賊を打ち負かすことができるとのことで、娘は急いで帰らなければならないと言った。老夫婦は泣いて引き留めたが、娘は振り切って走り出した。跡を追った老夫婦だったが、娘は岩陰に隠れてやり過ごした。
老夫婦は浅利の海岸まで来たところで力尽きて亡くなってしまった。出雲に戻った田心姫はたちまちの内に十羅の賊を滅ぼし、十羅刹女の名を贈られた。
併合時代、出雲に因んだ地名を付けていた京城(ソウル)。
「岩根町」はこの「胸鉏比売」の伝説から採られていたそうです。

そして父親の不興を買い箱舟(籠舟)に入れられて流された伝説の子供を女の子から男の子に変えると、スサノオノミコトが高天原から降りたとされる新羅の古都 慶州にある「月城(半月城)」の主であった、「卵で生まれたため父王の不興を買い、箱に入れられ海に流された。鵲に導かれて日本から朝鮮に渡って新羅の王となった」倭人 昔 脱解」の話になるのでした。
本日はありがとうございました。
かなり長いものになりましたが、お付き合いいただきありがとうございました。
