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龍蛇信仰と羽衣伝説 靖国・君が代・朝鮮半島3 (歴史の改ざん・日韓対立への道.20)



羽衣はごろも」がしめす「月宮殿げっきゅうでん

中央ちゅうおう 嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)・子供こども李垠りぎん韓国かんこく皇太子こうたいし

写真しゃしん明治めいじ40年(1907年)10月16日・17日に韓国かんこく訪問ほうもんしたさいに「景福宮けいふくきゅう 慶会楼けいかいろう」でられた一枚いちまいになります。

景福宮けいふくきゅう敷地内しきちない大正たいしょう15年(1926年)に竣工しゅんこうした朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃ

のう謡曲ようきょく羽衣はごろも」より画題がだいられた大壁画だいへきが羽衣はごろも」がかかげられていた「朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃ」。
外壁がいへきもレンガではなく「永久えいきゅう不滅ふめつ月世界げっせかい」をしめ花崗岩かこうがんしろくろじった岩石がんせき墓石ぼせきにも使つかわれる)使用しようしていました。

※MSNのリンクは「近代日本の象徴”だった名作レトロ建築の世界。爆破解体された「朝鮮総督本庁舎」を写真で振り返る」になります。
すばらしいことにしん韓国かんこく皇帝こうてい王宮おうきゅう予定よていであった「月宮殿げっきゅうでんがカラーで保存ほぞんされています。

小学しょうがく国語こくご読本どくほん国語こくご科学的かがくてき研究けんきゅう尋常じんじょう学年がくねんかん3・4)より「羽衣はごろも


シテ 天人てんにん ワキ 伯良はくりょう(※白龍はくりょうともく) ワキツレ 漁夫ぎょふ

ワキ一聲いっせい三人さんにんうたい風早かぜはやの、三保みほうらわをこぐふねの、浦人うらびとさわ浪路なみじかな。

ワキサシうたいこれ三保みほ松原まつばらに、伯良はくりょうもう漁夫ぎょふにてそうろう

ワキ三人さんにんうたい萬里ばんり好山こうざんに雲忽におこり、一楼いちろう明月めいげつあめはじめれり。げにのどかなるときしもや、はるのけしき松原まつばらの、浪立なみたちつ朝霞あさがすみつきのこりのあまはらおよびなきながめにも、こころそらなるけしきかな。

下歌さげうたわすれめや、山路やまじをわけて清見潟きよみがた(※徳川とくがわ幕府ばくふが、李王りおうおくった朝鮮ちょうせん通信つうしん使接待せったいした清見寺せいけんじ門前もんぜんで、静岡しずおか清水しみず興津おきつあたりにあった景勝地けいしょうちはるか三保みほ松原まつばらに、ちつれいざやかよん、ちつれいざやかよん。

上歌あげうた風向かぜむかくも浮浪うきなみたつとて、くも浮浪うきなみたつとて、つりせでひとかえるらん。てしばしはるならばくものどけき朝風あさかぜの、まつ常盤ときわこえぞかし、なみおとなきあさなぎに、釣人つりびと小舟こぶねかな。釣人つりびと小舟こぶねかな。

ワキことば「われ三保みほ松原まつばらにあがり、うらのけしきをながむるところに、虚空こくうはなふり音楽おんがくきこえ、霊香れいきょう四方よもくんず。これ唯事ただごとおもところに、これなるまつにうつくしきころもれり。よりてみれば色香いろかたえにしてつねころもにあらず。いかさまりてかえふるひとにもせ、いえたから(※たから)となさばやとぞんそうろう

シテことば「なうそのころも此方こなたのにてそうろうなにしにめされそうろうぞ。

ワキことばこれひろたるころもにてそうろうほどりてかえそうろうよ。

シテことば「それは天人てんにん羽衣はごろもとて、たやすく人間にんげんあたべきものにあらず。もとごとくにたま

ワキことば「そも此衣このころも御主おんぬしとは、さては天人てんにんにてましますかや。さもあらば末世まっせ奇特きとくとどめおき、くにたからとなすべきなり、ころもかえことあるまじ。

シテことば「かなしやな羽衣はごろもなくては飛行ひぎょうみちえ、天上てんじょうかえらんこともかなまじ。さりとてはかえしたびたま

ワキうたいこの御詞おんことばくよりも、いよいよ伯良はくりょうちから
ことばもとより此身このみこころなき、あま羽衣はごろも(※天皇てんのう大嘗祭だいじょうさいける湯帷子ゆかたびらあま羽衣はごろもである)とりかくし、
うたい「かなまじとてちのけば、

シテうたいいまはさながら天人てんにんも、はねなきとりごとくにて、あがらんとすればころもなし、
ワキうたいにまためば下界げかいなり、
シテうたい「とやあらんかくやあらんとかなしめど、
ワキうたい伯良はくりょうころもをかさねば、
シテうたい力及ちからおよばず、
ワキうたい「せんかたも、

地謡じうたいなみだつゆ玉鬘たまかずら、かざしのはなもしをはなもしをと、天人てんにん五衰ごすいも、まええてあさましや。

シテうたいあまはらふりさけみればかすみたつ、雲路くもじまどてゆくらずも。(※丹後たんご風土記ふどき羽衣はごろも天女てんにょうた

地謡じうたいれしそらにいつしかゆくくもの、うらやましきけしきかな。

上歌あげうた迦陵かりょう頻迦びんが(※上半身じょうはんしんひと下半身かはんしんとり仏教上ぶっきょうじょう想像そうぞう生物せいぶつ)のなれなれし、こえいまさらにわづかなる、かりがねのかりゆく、天路あまじけばなつかしや、千鳥鷗ちどりかもめおきなみ。ゆくかかえるか春風はるかぜの、そらくまでなつかしや、そらくまでなつかしや。

ワキことば「いかにもうそうろう御姿おんすがたたてまつれば、あまりに御痛おんいたしくそうろうほどに。ころもをかもううするにてそうろう

シテことば「あらうれしやこなたたまそうろう

ワキことばしばらく。うけたまわおよびたる天人てんにん舞楽ぶがく只今ただいまにてそうたまはゞわばころもをかもうすべし。

シテうたい「うれしやさては天上てんじょうかえらんことをえたり。このよろこびにとてもさらば、人間にんげん御遊ぎょゆうのかたみのまい月宮げっきゅうめぐらす舞曲ぶきょくあり只今ただいまにてそうしつのうきひとつたべし。さりながら、ころもなくてはかなまじ。さりとてはまずたま

ワキことば「いや此衣このころもをかしなば、舞曲ぶきょくをなさでそのままに、てんにやあがりたまべき。

シテことば「いやうたがい人間にんげんにあり。てんいつわりなきものを。

ワキうたい「あらはずかしやさらばとて、羽衣はごろもかえあたれば。

シテうたい少女おとめころもちゃくしつ霓裳げいしょう羽衣ういきょく(※とう玄宗げんそう皇帝こうてい楊貴妃ようきひおくった舞曲ぶきょくをなし、

ワキうたいあま羽衣はごろもかぜなごし、
シテうたいあめうるおはなそで
ワキうたい一曲いっきょくかなで、
シテうたいとかや。

地謡じうたい東遊あずまあそび駿河舞するがまい東遊あずまあそび駿河舞するがまい此時このときはじめなるらん。

クリ地謡じうたい「それ久方ひさかたあめといつぱ、二神にじん出世しゅっせいにしえ(※伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみこと誕生たんじょうしたはるかむかし十方じっぽう世界せかい東西南北とうざいなんぼく北東ほくとう北西ほくせい南東なんとう南西なんせいじょうじゅうすべての世界せかい)をさだめしに、そらかぎりもなければとて、久方ひさかたそらとはづけたり。

シテ、サシうたいしかるに月宮殿げっきゅうでん有様ありさま玉斧ぎょくふ修理しゅりとこしなにして。

地謡じうたい白衣びゃくえ黒衣こくえ天人てんにんの、かず三五さんご(※つき世界せかい陰陽いんよう15にん【15】づつ)わかつて、一月夜々いちげつやや天少女あまおとめ奉仕ほうじさだやくをなす。

シテうたいわれかずある天乙女あまおとめ
地謡じうたいつきかつらけて、かりあずま駿河舞するがまいつた(※つたたるきょくとかや。

クセ「春霞はるがすみたなびきにけりひさかたの、つきかつらはなく。げにはなかつら、いろめくははるのしるしかや。面白おもしろあめならで。こたえなり天津風あまつかぜくも通路かよいじきとぢよ、少女おとめ姿すがた、しばしとどまりて、この松原まつばらの、はるいろ三保みほさき(※みなみ伊豆いず古代こだい祭祀さいし遺跡いせきがある)つき清見潟きよみがた富士ふじゆき、いづれやはるあけぼの、たぐなみ松風まつかぜも、長閑のどかなるうら有様ありさま其上そのうえ天地あめつちは、なにへだてん玉垣たまがきの、内外うちとかみ御末みすえにて、つきくもらぬもと(※日本にほんや、

シテうたいきみは、あま羽衣はごろもまれにて、
地謡じうたいづともきぬいわおと、くもたえなり東歌あずまうたこえてかずかずの、笙笛琴箜篌しょうちゃくきんくご(※大陸たいりくからつたわった雅楽ががく使用しようされる楽器がっき孤雲こうんほかちて、落日らくじつくれないは、蘇命路そめいろやまをうつして、みどりなみ浮島うきしまが、はらあらしはなふりて、げにゆきめぐらす、白雲はくうんそでたえなる。

シテうたい南無なむ帰命きみょう月天子げってんし(※月宮殿げっきゅうでんみ、薬師如来やくしにょらい右脇みぎわきしたが菩薩ぼさつ)、本地ほんじ大勢至だいせいし

地謡じうたい東遊あずまあそびまいきょく
じょまい)シテ、ワカうたい「あるあま御空みそらみどりころも
地謡じうたいまた春立はるたかすみころも
シテ「色香いろかたえなり少女おとめ裳裾もすそ
地謡じうたい「さゆさ、さゆ颯々さっさつ(※かぜさま)の、はなをかざしのあま羽袖はそで、なびくもかすもまいそで

まい地謡じうたいあずまあそびの數々かずかずに、あずまあそびの數々かずかずに、そのつき宮人みやびとは、三五さんご夜中やちゅうそらまた滿願まんがん眞如しんにょかげとなり、御願ごがん円滿えんまん国土こくど成就じょうじゅ七宝しっぽう充滿じゅうまんたからふらし、国土こくどこれほどこたま。さるほどにときうつつて。あま羽衣はごろも浦風うらかぜに、たなびきたなびく三保みほ松原まつばら浮島うきしまくもの、足高山あしたかやま富士ふじ高嶺たかね、かすかになりてあま御空みそらの、かすみにまぎれてせにけり。

謡曲集ようきょくしゅう 上巻じょうかん (有朋堂ゆうほうどう文庫ぶんこ)」より「羽衣《はごろも》」

謡曲ようきょく羽衣はごろも」を画題がだいにしたことで、天女てんにょ羽衣はごろもと、とう玄宗げんそう皇帝こうていのこしたとされる舞曲ぶきょくなどの複数ふくすう意味いみけてありました。

東遊あずまあそび駿河舞するがまい東遊あずまあそび駿河舞するがまい此時このときはじめなるらん。それ久方ひさかたあめといつぱ、二神にじん出世しゅっせいにしえ十方じっぽう世界せかいさだめしに、そらかぎりもなければとて、久方ひさかたそらとはづけたり。しかるに月宮殿げっきゅうでん有様ありさま玉斧ぎょくふ修理しゅりとこしなにして。

東遊あずまあそび駿河舞するがまいとは、東国とうごく舞曲ぶきょく奈良なら時代じだい宮中きゅうちゅう舞楽ぶがくれられました。

駿河するが静岡しずおかけん)に天人てんにんりてったものが起源きげんわれていますが、出雲国造いずものくにのみやつこ千家せんげ 尊福たかとみ出雲族いずもぞく調査ちょうさのためくに指示しじ知事ちじとなった場所ばしょ埼玉さいたまけん静岡しずおかけんでした。

また月宮殿げっきゅうでんとは、須弥山しゅみせんにある玉斧ぎょくふたまかざったおのつくられた月天子がってんしという、おおくの天女てんにょはべらし、その寿命じゅみょうは500さいといわれるインドのつきかみ永遠えいえん宮殿きゅうでんになります。

ここを仙人せんにんみちびかれおとずれたとされる人物じんぶつとう玄宗げんそう皇帝こうていであり、そのさいみみにした天人てんにん舞楽ぶがくにならってつくった「霓裳羽衣げいしょうういきょく愛妾あいしょう 楊貴妃ようきひおくったとつたわっています。



羽衣はごろも」の天女てんにょ秘密ひみつ

太平洋たいへいようがわ日本海にほんかいがわをつなぐ「羽衣はごろも

謡曲ようきょく羽衣はごろも」の舞台ぶたい静岡しずおかけん三保みほ松原まつばらですがあまはらりさけみればかすみたつ雲路くもじ家路いえじ)まどいてゆくえらずも」豊受大神とようけのおおかみ老夫婦ろうふうふによってわれたさいんだうたうたわれており、この2つの「羽衣はごろも天女てんにょ」がおなはなしであることをしめしていました。

その「羽衣はごろも伝説でんせつ」が丹後国たんごのくに 丹波郡たんばぐん比治ひじさと京都府きょうとふ  京丹後きょうたんご 峰山町みねやまちょう)につたわるものでした。


逸文いつぶんによれば、丹後国たんごのくに 比治山ひじやま(げんこん京都府きょうとふ 京丹後きょうたんご 峰山町みねやまちょう磯砂山いさなごさん)の山頂さんちょうにあった麻奈井まない真名井まない)のいずみ)で、天女てんにょはちにん水浴みずあそびしていたとき、和奈佐わなさという老夫婦ろうふうふが、一人ひとり天女てんにょ衣装いしょう羽衣はごろも)をかくし、ずかしがっていた彼女かのじょもとめてもなお欺罔ぎもうを(※だまそうとしていると)うたがってかえさず、かえれなくなった天女てんにょ養女ようじょにした。

天女てんにょはたった一杯いっぱい万病まんびょうくというさけをつくり、おかげでいえむ。十余年じゅうよねん天女てんにょともらした。
しかしゆたかになると老夫ろうふは「なんじではない」と天女てんにょしてしまう。天女てんにょ慟哭どうこくしつつそこをり、つぎうたむ:

あまはら れば 霞立かすみたち 家路いえじまどて 行方ゆくえらずも

老夫婦ろうふうふむらいま比治ひじさとむらというが)は、いっときさかえて土形ひじかたさとまでばれるようになっていたが、天女てんにょ自分じぶん心情しんじょうを「荒塩あらしお」のようだとのこしたので、荒塩あらしおむらともいわれるようになった。

すなわち、したあとむら荒廃こうはいした。天女てんにょ丹波国たんばのくに 哭木なききむらきつき、そちらの村人むらびとには、「これでわたしこころ奈具志久なぐしく(おだやかに)なった」とった。

ここに奈具なぐ神社じんじゃ創建そうけんされ、まつられたこの天女てんにょこそ豊宇賀能売命とようかのめのみことである、とする(旧社地きゅうしゃち不詳ふしょうだが、現在げんざい竹野郡たけのぐん 弥栄町やさかちょう 船木ふなき再建さいけんされる)。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より「羽衣はごろも伝説でんせつ

また京都きょうと 京丹後きょうたんご 峰山町みねやまちょうには、「つき輪田わでん」と呼ばれる三日月形みかづきた弓張月ゆみはりづき半月はんげつかたち)のがあります。


つき輪田わでんは、京都きょうと 京丹後きょうたんご 峰山町みねやまちょう 二箇にかにある、京丹後きょうたんご所有しょゆうするやく平方へいほうメートルの水田すいでん史跡しせき
稲作いなさく発祥はっしょうとする伝承でんしょうがある。

つき」の三日月形みかづきがたであることに由来ゆらいし、「三日月田みかづきた」ともいう。京丹後きょうたんご 峰山町みねやまちょう 二箇にか苗代なわしろあいだ所在しょざいする、三日月形みかづきがた小規模しょうきぼである。

江戸えど時代じだい編纂へんさんされた『丹後たんご旧事記くじき』などによると、食物しょくもつ女神めがみ豊受大神とようけのおおかみが、天照大神あまてらすおおみかみのために籾種もみだねいて稲作いなさくをした場所ばしょが、つき輪田わでんであるとされる。

豊受大神とようけのおおかみ丹後たんご地方ちほうひろ信仰しんこうされるかみで、このいねそだてて天照大神あまてらすおおみかみ献上けんじょうしたという伝承でんしょうのこる。

豊受大神とようけのおおかみは、ふるくはつき輪田わでん付近ふきん所在じょざいする比沼麻奈為ひぬまない神社じんじゃ鎮座ちんざしていたとつたえられ、のち三重みえけん伊勢いせ神宮じんぐう外宮げくうまつられるようになった。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より「つき輪田わでん


京丹後きょうたんご鳥取とっとり島根しまね吐含山トハムサン うみえてつながっていた「羽衣はごろも伝説でんせつ

朝鮮ちょうせん半島はんとう日本にほん列島れっとうをつなぐべつの「羽衣はごろも伝説でんせつ」は日本海にほんかい沿かたちのこっていました。

それが、「大国主命おおくにぬしのみこと因幡いなば白兎しろうさぎ」の出雲いずも神話しんわのこ鳥取とっとりけん因幡いなば伯耆ほうき)の羽衣はごろも伝説でんせつ打吹山うちふきやま現在げんざい打吹山うつぶきやま)の羽衣はごろも伝説でんせつ」でした。

東伯郡とうはくぐん鳥取とっとりけん 東伯郡とうはくぐん 湯梨浜町ゆりはまちょう)につたわるものですが明治めいじ45年(1912年)に出版しゅっぱんされた「因伯いんはく昔話むかしばなし」にありますので、これを引用いんようして説明せつめいします。


伯耆國ほうきのくに東伯郡とうはくぐんさんといやまがあります。みねたかくもをいたふもとには東郷池とうごういけて(※あって)、まこと景色けしきのよいやまであります。

此山このやまひとつのおおいなるいしがあつて、このいしびます。
これについてはつぎうなはなしがあります。

このさんはまことに景色けしきのよい神々こうごうしいところでありますから、時々ときどき天女てんにょてんからりて休息きゅうそくいたします。天女てんにょうつくしいおおききないしこのんで其上そのうえのが、なによりものたのしみでありました。

此山このやまいし奇麗きれいみがいたやふよういしでありますから、此石このいしりてては羽衣はごろもそでいしかるち、つては空中そらあがります。(※謡曲ようきょく羽衣はごろも」では「づともきぬいわおかな」)

或日あるひいつものやふようさん羽衣はごろもひるがえしてつてましたが少々すこしつかれたとえて羽衣はごろも其石そのいしうえにかけて木蔭こかげやすんでしまました。

このちかくの農夫のうふでありましたが偶々たまたま此山このやまのぼつてますと、いしうえ見訓みなれぬ(※見馴みなれぬ)うつくしい着物きものがあります。
農夫のうふは「これはうつくしい着物きものだ、天人てんにん羽衣はごろもといものかもらん」とおも手早てばやその着物きものつてサッサとかえ(※かえ)つてきました。

天女てんにょ目覺めざめて其處そこらをますと、いでいた羽衣はごろもがない。かぜつてげたのかしらと彼方此方あちらこちらさがしましたが見當みあたりません。かなしんでましたが、何處どこからともく。
和女そなた暫時しばらくあいだ人間界にんげんかいければならん。何年なんねんかののちしろはないた蔓草つるぐさした子供こどもすくれるであう。」とこえがしました。

ところが不思議ふしぎや、これまで天女てんにょであつた乙女おとめはスツカリ天上てんじょうことわすれてまったくの人間にんげんとなつてしまました。

ひととなつてると衣服きものうすいのでさむさをおぼえてます、だんだんおなかいてます。やまうえてもすこしも食物たべものとてはありませんので乙女おとめはスゴスゴとやまり、人里ひとざとちかくに食物たべものもとめました。

さてある農家のうかまでまして食物たべものもとめますと其家そのいえからは老齢としよりばあさんがて「マアおどくな、ればもと立派りっぱなおひめさんらしいが、大層たいそうさむうでごいますこと。おなかいたのでしょう、どうか遠慮えんりょなく召上めしあがんなさい、着物きもの立派りっぱなのではないが差上さしあげましょう。お差支さしつかえなければ私共わたしどもうちへおとまりなさい」と親切しんせつつてれました。

此家このいえはかのさん羽衣はごろもつてかえつた農夫のうふいえであります。
しかし農夫のうふばあさんもこれが天女てんにょであることはりません。天女てんにょもとより自分じぶん天女てんにょであることはわすれてました。

天女てんにょ乙女おとめ農夫のうふ夫婦ふうふになつて此家このいえひさしくくらしましたが、其中そのうち二人ふたり可愛かあいらしい女子こどももうけました。

子供こどもはだんだん成長せいちょうしましたが、二人ふたり子供こども非常ひじょう親孝行おやこうこうで、父母ちちははおおせせは一度いちどそむいたことはありません。

またたのしみとしては音樂おんがく大層たいそうきで、ふえつづみかねしょう篳篥ひちりきるいだれもおしえないのに上達じょうたつしてました。(※雅楽ががく国風歌舞くにぶりのうたまい使つかわれる楽器がっきであり謡曲ようきょく羽衣はごろも」では「東遊あずまあそび駿河舞するがまい」)
そして何時いつ父母ちちははのぞみによつてこれそうして(※演奏えんそうして)其心そのこころなぐさめてました。

或日あるひこの農家のうかひと一同いちどうそろつて倉吉くらよし神坂かみさかといところあそびにました。そのいえとき農夫のうふは「うち餘程よほど以前いぜんから一枚いちまい着物きもの大切たいせつにしてある、今日きょう一同いちどうたのしく遊歩あそびるのだから、これをあねう」とつて。かのさんひろつて羽衣はごろもせて出掛でかけました。

さて一同いちどう神坂かみさかまでまして此處ここ休息やすうとので、しばうえやすみました。
此時このときあね少女むすめは「今日きょうわたしこんな着物きものるから、しょ和女あなたふえいて」といもこ少女むすめふえかせてました。

いもこは「わたしつてしょう」とあね入替いりかわってました。
此時このとき天女てんにょ母親ははおやまいましたが「そののばかたすこまずい、わたしおしえてげましょう。少時ちょっとその羽衣はごろもをおしなさい」とつて、羽衣はごろもけました。

羽衣はごろもけてかけますと最早もはや人間にんげんこころしばらくみなくなつて、たちまさん大磐石おおいしうえやすんでとき心持こころもちになりました。
同時どうじ身體からだかるくなつて、空中そらうかんでます。

子供こどもおどろいて「アレ阿母おっかさん。どうしたのです。一度いちどりてください、アレ阿母おっかさん」とオロオロしてます。

母親ははおや天女てんにょは「わたしは、まったわすれてましたが元來もとやま天人てんにんです。いま、はからず、なにわかりました。其時そのときわたし羽衣はごろも紛失なくなつて、それきり人間にんげんになりましたが、いまいまとて羽衣はごろもともらずこの着物きものたればもとの天人てんにんとなりました。

二人ふたり子供こどもれてきたいが天上てんじょうにはひとところがありません。しろはないた蔓草つるくさした子供こどもすくれるときましたが、もし其處そこらにしろはないた蔓草つるくさりませんかしらべてくだされ、もしあつたら、これきりの御縁ごえん斷念あきらめてください、ずいぶん身體からだ大事だいじに」とつて、とおたか天上てんじょうえてきました。

れば鳥井とりいそばひとつの井戸いどがありまして夕顔ゆうがおはなしろいてます
二人ふたり女子こどもは「ア々ああ仕方しかたがないせめてあのやまみねのぼつて音樂おんがくそうしたら阿母おっかさんのみみとどくかもれない。阿母おっかさんは音樂おんがく大層たいそうきでつた」と此山このやまのぼつて姉妹しまい子供こどもふえかねをならしてははのあとをしたました

しかし天上てんじょうひとふたた地下ちかひととはなりません。ながうちふきやま音樂おんがくひびきのみのこつてあわれをのちつたました。
うちふきやまといのは此時このときからなづけたであります。

因伯いんはく昔話むかしばなし」より「うちふきやま東伯とうはくぐん)」

このうちふきやま東伯とうはくぐん)」が、わたしちち豊田とよだ みのるはなしていた重要じゅうよう羽衣はごろも伝説でんせつおなじものになります。

昭和しょうわ8年(1933年)朝鮮ちょうせん京城けいじょう(ソウル)でうまれると、豊受大神とようけおおかみつかえていた豊田とよだとして「ゆたかないねみのる名付なづけられた」

ちち祖父そふ豊田とよだ 靖国やすくにのおともでたびたび朝鮮ちょうせん神宮じんぐうれていかれ社務所しゃむしょ正座せいざをして祖父そふ宮司ぐうじはなしかされていたため、このことも、そのさいいたはなしとのことでした。

ここでは此山このやまのぼつて姉妹しまい子供こどもふえかねをならしてははのあとをしたましたかれていますが、ちちはなしでは楽器がっき太鼓たいこ(をつ)としょう(をく)の2つでした。

どれも雅楽ががく神楽かぐら使つかわれる楽器がっきで、雅楽ががくとも中央ちゅうおうアジアや東南とうなんアジア方面ほうめんからふね陸路りくろ中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん半島はんとう経由けいゆして日本にほんつたわったとされています。

神功じんぐう皇后こうごうまつられている大阪おおさか 大阪おおさか住吉すみよし大社たいしゃには豊臣とよとみ奉納ほうのうしたいし舞台ぶたい大阪おおさか 大阪おおさか四天王寺してんのうじと、広島ひろしまけん 廿日市はつかいち厳島いつくしま神社じんじゃいし舞台ぶたいとあわせて日本にほん三大さんだいいし舞台ぶたいばれている)があり、羽衣はごろも伝説でんせつ同様どうように、そのいしうえ舞楽ぶがく奉納ほうのうされていました。

さらにちちはなしでは、記憶きおくもどしてうちふきやま天女てんにょっていったさきが、朝鮮ちょうせん半島はんとうかされたということでした。

しろはないた蔓草つるくさ」という出雲いずもぞくとうとんだという「白色しろいろ」と「はないた蔓草つるくさ」が「うちふきやま」でかれていますが、この植物しょくぶつ夕顔ゆうがおでした。

かんぴょうの材料ざいりょうとなるべられる夕顔ゆうがお(ウリユウガオぞく植物しょくぶつ)と、乾燥かんそうさせて容器ようき使つかわれるひょうたん(瓢箪ひょうたんひさご、ウリユウガオぞく)はおな瓜科うりか植物しょくぶつであり、原産地げんさんちはインドやきたアフリカだそうです。

また、白色しろいろとうと文化ぶんか白蛇はくじゃ白龍はくりゅう白鹿はくしか白馬はくば白牛しろうし白山はくさんなど)もインド・中国ちゅうごく経由けいゆして日本にほんつたわったとされています。

朝鮮ちょうせん半島はんとう新羅しらぎからの新羅人しらぎびとまたは渡来神とらいしんつたわるアメノヒボコ子孫しそんにあたる田道間守たじまもりは、垂仁すいにん天皇てんのうのために常世国とこよのくに非時香菓ときじくのかくのみ現在げんざいたちばな・みかんのたぐい)をりにきました。

このたちばな伊豆いず山野さんやにも奈良なら時代じだい以前いぜんより自生じせいしていたそうですが、インドやミャンマー、タイ一帯いったい原産地げんさんちとされ、中国ちゅうごく本格的ほんかくてき栽培さいばいされてのち日本にほんつたわったとかんがえられています。

韓国かんこく  済州島さいしゅうとう三姓穴さんせいけつ)・九州きゅうしゅう一帯いったい四国しこく地方ちほう和歌山わかやまけん熊野くまの徳川とくがわ御三家ごさんけ 紀州きしゅうはん愛知あいちけん東三河ひがしみかわ徳川とくがわ御三家ごさんけ 尾張おわりはん)・静岡しずおかけん伊豆毛いずも三嶋みしま大社たいしゃ)・神奈川かながわけん武蔵国むさしのくに 橘樹たちばなぐん)・千葉ちばけん千葉氏ちばし)・茨城いばらきけん徳川とくがわ御三家ごさんけ 水戸みとはん)など出雲いずもぞくえんふか場所ばしょ柑橘類かんきつるい有名ゆうめいです。

このインド・中国ちゅうごく方面ほうめんから日本にほんたことを示唆しさする天女てんにょが「しろ夕顔ゆうがおはな」がてんへとかえったことが、朝鮮ちょうせん半島はんとう斯盧国しろのくに白国しらくに新羅しらぎ初代しょだいおうぱく 赫居世かくきょせへとつながるとのことでした。

パカチ瓢箪ひょうたんひさご

斯盧国しろのくにではパカチ瓢箪ひょうたんひさごのことで、天上てんじょうからりた白馬はくばんだ瓢箪ひょうたんのようなたまごからまれたことからぱく 赫居世かくきょせ名付なづけられたと高麗こうらい史書ししょ三国さんごく遺事いじ記録きろくされています。

そして白馬はくばは「西遊記さいゆうき」にてくる、四海しかい龍王りゅうおうの4にんうち西海さいかい龍王りゅうおう敖閏ごうじゅん第三だいさん太子たいし玉龍ぎょくりゅうように、りゅうへんじたものとされていました。

内裏だいり正殿せいでん紫宸殿ししんでん

これは地上ちじょう世界せかいおさめるべくてんよりつかわされた「おう皇帝こうてい」は、このでのつとめをたすとりゅう姿りゅうになってふたたてんへとかえってく(おう存在そんざいとその生死せいし)という大陸たいりくからつたわった「龍蛇りゅうだ信仰しんこう龍神りゅうじん信仰しんこう)」の一部いちぶでした。

そのため宮廷きゅうてい重要じゅうよう儀式ぎしきおこなわれた紫宸殿ししんでんも、建物たてもの屋根やねしめすウかんむりりゅう意味いみもある「たつ」となっていました。

出雲いづも大社おおやしろ龍蛇神りゅうだしんぞうまえははうつ

昭和しょうわ56年(1981年)出雲いづも大社おおやしろ参拝さんぱいしたさいちち説明せつめいしてくれたものですが、ふるくは日本にほんにも「おう天皇てんのうてんよりつかわされた龍人りゅうじん」というかんがえがあったものの明治めいじ維新いしんむかえるずっとまえ天皇てんのうりゅうというかんがえはくなったと祖父そふたちがはなしていたとのことでした。

たけかられた「かぐやひめ

しかし「天人てんにん龍人りゅうじん」のかんがえは、かたちえてのこつづけました。

竹取たけとり物語ものがたり

つき世界せかいつみおか下界げかいろされた籠女かごめ籠舟かごぶねれられてあまがわから下界げかいながされたかぐやひめ)。
竹取たけとりおきなによってひかかがやたけからされると成長せいちょうのちむかえにつき使者ししゃともかえってきました

月宮殿げっきゅうでん天人てんにんふたたてんつき)へとかえってった

そのさいに、かぐやひめあま羽衣はごろもけると地上ちじょうでの記憶きおくくしたとされています。
現在げんざいでも昔話むかしばなしとしてひろられている「かぐやひめ物語ものがたり」もまた「白鳥はくちょう処女しょじょ説話せつわ」のひとつでした。

さらに、これらの伝説でんせつ高天原たかまがはらから新羅しらぎ曾尸茂梨そしもりりたとされる「スサノオノミコト」とかかわる伝説でんせつとつながっていました。



日本にほん大陸たいりくをつなぐ「天人てんにん天女てんにょ」の秘密ひみつ

新羅しらぎ三日月形みかづきがたをした土地とちつくられた月城げつじょう半月城はんげつじょう)(現在げんざい韓国かんこく 慶尚けいしょう北道ほくどう 慶州けいしゅうまでつながる「天人てんにん龍人りゅうじん)・羽衣はごろも伝説でんせつ」。

かご」といて「この神社じんじゃ

明治めいじ40年(1907年)に山陰道さんいんどう行啓ぎょうけいとして島根しまねけんの「出雲いづも大社おおやしろ参拝さんぱいまえ嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)がおがまれた神社じんじゃ丹後国たんごのくに一宮いちのみや京都きょうと 宮津みやづの「この神社じんじゃ」でした。

この神社じんじゃのすぐそばには天橋立あまのはしだてがあり「イザナギノミコト九志備くしびはまきた真名井原まないはらイザナミノミコトてんからかようために梯子はしごつくったが、ているあいだたおれてしまった」という由来ゆらいられています。

五色ごしょくいし七宝しちほうぜていたんだてんおぎなった「錬石れんせき補天ほてん

伊勢いせ神宮じんぐうこの神社じんじゃにのみあるかざだま五色ごしき座玉すえたま」。
その由来ゆらいである女媧じょかの「錬石れんせき補天ほてん」の伝説でんせつは、現在げんざいはほとんどかたられることはありません。

わたしちちはなしによると大東亜だいとうあ戦争せんそう太平洋たいへいよう戦争せんそう敗北前はいぼくまえ比較的ひかくてきられていた伝説でんせつだったそうです。

もくあお)・)・あか)・きんしろ)・すいくろ

古代こだい中国ちゅうごくからつたわり陰陽道おんみょうどうへと独自どくじ進化しんかした陰陽いんよう五行ごぎょう思想しそう
七夕たなばた七七しちしち・7がつ)でねがいを短冊たんざくいろも「五色ごしき短冊たんざく」となっています。

また「七七四十九しちしちしじゅうく」とは仏教ぶっきょうでは、薬師如来やくしにょらいにより後生ごしょう死後しごさき)がさだまる「四十九日しじゅうくにち」「七七日(しちしちにち・ななぬか)」とされています。

そして薬師如来やくしにょらい泰山府君たいざんふくん妙見みょうけん菩薩ぼさつ牛頭ごず天王てんのう)は「スサノオノミコト」になります。

兄妹けいまい半人はんじん半蛇はんだ人類じんるい創造そうぞうかみ龍蛇神りゅうだしん伏羲ふくぎ女媧じょか

伏羲ふくぎに「かね曲尺かねじゃく指金さしがね)」を、女媧じょかに「(コンパス)」をっています。

指金さしがね北斗ほくと七星しちせい天人てんにんみず柄杓ひしゃく)にもたとえられる大工だいく道具どうぐですが、日本にほんには聖徳しょうとく太子たいし時代じだいはたの河勝かわかつがもたらしたとつたわっています。

ノアの箱舟はこぶね同種どうしゅ世界せかい洪水こうずい伝説でんせつ

徳川とくがわ国譲くにゆずり「大政たいせい奉還ほうかん」のため岡山おかやまはん牧野まきの 権六郎ごんろくろうらとうごいた後藤ごとう 象二郎しょうじろうきゅう土佐とさはん高知こうちけん 宿毛市すうくもし妹背山いもせやまふるくは妹背島いもせじまにも「伏羲ふくぎ女媧じょか」の洪水こうずい伝説でんせつのこっています。 

伏羲ふくぎ女媧じょかはイザナギノミコトとイザナミノミコトと同一視どういつしされていた
国学者こくがくしゃ 平田ひらた 篤胤あつたね伏羲ふくぎを「大国主神おおくにぬしのかみ」とし、女媧じょか須勢理毘売命すせりびめのみこと(スサノオノミコトのむすめ)とした

五色ごしき座玉すえたまこの神社じんじゃ奥宮おくみや伊勢いせ神宮じんぐう外宮げくうまつられるまで豊受大神とようけのおおかみ鎮座ちんざしていた故事こじのある真名井まない神社じんじゃでした。

ふるくは、ひょうたんの言葉ことばである「てんのよさづら」から「匏宮よさのみやともばれていました。

またうちふきやま羽衣はごろも伝説でんせつでは「天女てんにょうつくしいおおききないしこのんで其上そのうえのが、なによりものたのしみでありました」とありましたが、真名井まない神社じんじゃ背後はいごにはかみ宿やど磐座いわくらまつられています。

打吹うつぶき公園こうえん

そして鳥取とっとりけん嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)がおとずれていた場所ばしょが「打吹うつぶき公園こうえん」でした。

鳥取とっとりけん 倉吉くらよし 仲ノ町なかのちょう打吹山うつぶきやまふもとにある公園こうえんてられた飛龍閣ひりゅうかく嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)の宿舎しゅくしゃとして使用しようされました。

そして、ここもまた飛龍ひりゅうしめとお夕顔ゆうがおはな天女てんにょてんへとかえってった=籠女かごめふたたりゅうへとえりてんへとのぼった」という「羽衣はごろも伝説でんせつ」の場所ばしょだったのです。

易経えききょう」をんだ伏羲ふくぎまつ中国ちゅうごく典礼てんれいでは太鼓たいこかねかなでられますが、しょうほう女媧じょかしたとされています。

太鼓たいこかねらししょうく」からやまとなり、子供こども疫病えきびょうからまも牛頭ごず天王てんのう(スサノオノミコト)よりさずかりし「26の秘文ひもんとされる陰陽道おんみょうどうまじなうたにもさとのみやげに なにもろた でんでん太鼓だいこしょうふえうたまれています。

スサノオノミコトのむすめ  宗像むなかた三女神さんじょしんである田心姫命たごりひめのみこと

島根しまねけんはいった嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)がおとずれていた場所ばしょの一つ江津村ごうつむら島根しまねけん 江津ごうつ 嘉久志町かくしちょう

その土地とち岩根いわね神社じんじゃつたわる「胸鉏比売むなすきひめ」の伝説でんせつ箱舟はこぶね籠舟かごぶね)で海岸かいがんなが老夫婦ろうふうふひろわれそだてられたスサノオノミコトのむすめはなしでした。


かみがこのおさめていたころのはなし
いま江津ごうつ波子はし海岸かいがん一艘いっそう箱舟はこぶねながいた。とおりかかった老夫婦ろうふうふなかのぞくとそこにはかわいいおんなはいっていたので、かえってそだてることにした。

そのおんな身分みぶんのあるものらしく着物きもの上品じょうひんであった。
老夫婦ろうふうふのようにいつくしんでそだてた。何年なんねんっておんなうつくしいむすめ成長せいちょうした。

ある、おじいさんが「おおまえはどこからたのかね?」とうと、むすめだまってひがしほうした。何度なんどいてもむすめだまっていた。むすめうつくしく成長せいちょうしたが、毎日まいにちのように弓矢ゆみや稽古けいこはげんでいた。また、いえなかではかなら上座かみざすわった。

むすめ十三歳じゅうさんさいになったあるひがし出雲いずもほう狼煙のろしがり、てんをこがした。それをむすめはついに出自しゅつじあきらかにした。むすめ出雲いずも須佐能男命すさのおのみことむすめ田心姫たごりひめといった。おさなころこころ荒々あらあらしかったため、ちちいかりにながされたという。

ゆめのおおつげでむすめ出雲いずもかえれば、十羅じゅうらぞくかすことができるとのことで、むすめいそいいでかえらなければならないとった。老夫婦ろうふうふいてめたが、むすめってはしした。あとった老夫婦ろうふうふだったが、むすめ岩陰いわかげかくれてやりごした。

老夫婦ろうふうふ浅利あさり海岸かいがんまでたところで力尽ちからつきてくなってしまった。出雲いずももどった田心姫たごりひめはたちまちのうち十羅じゅうらぞくほろぼし、十羅刹女じゅうらせつにょおくられた。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より「胸鉏比売むなすきひめ

併合へいごう時代じだい出雲いずもちなんだ地名ちめいけていた京城けいじょう(ソウル)。
岩根町いわねちょう」はこの「胸鉏比売むなすきひめ」の伝説でんせつからられていたそうです。

京城けいじょう(ソウル)漢江かんこう沿いに「岩根町いわねちょう

そして父親ちちおや不興ふきょう箱舟はこぶね籠舟かごぶね)にれられてながされた伝説でんせつ子供こどもおんなからおとこえると、スサノオノミコトが高天原たかまがはらからりたとされる新羅しらぎ古都こと 慶州けいしゅうにある月城げつじょう半月城はんげつじょう)」あるじであった、「たまごまれたため父王ふおう不興ふきょうい、はこれられうみながされた。かささぎみちびかれて日本にほんから朝鮮ちょうせんわたって新羅しらぎおうとなった」倭人わじん せき 脱解だっかいはなしになるのでした。


本日ほんじつはありがとうございました。
かなりながいものになりましたが、おいいただきありがとうございました。



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