「どうせ自分はこうなる」と思っていると、人は無意識にその現実を選び続ける。
前回の記事で、
人生を苦しくしているのは、
出来事そのものではなく、
“そこにつけた意味”かもしれない。
という話を書きました。
出来事は一つでも、
そこにどんな意味をつけるかで、
感じ方も、次の行動も変わってくる。
返信が遅い。
反応が薄い。
注意された。
断られた。
うまくいかなかった。
そういう出来事そのものよりも、
そこから
「自分は大切にされていない」
「やっぱり自分はダメだ」
「どうせうまくいかない」
「自分には価値がない」
という意味づけに飛ぶことで、
苦しさが何倍にも膨らむことがある。
そんな話でした。
今回は、
そのさらに奥の話です。
少し痛い話かもしれません。
でも、かなり大事だと思っています。
それは、
人は、自分が信じている前提を、
無意識に証明するように生きてしまうことがある。
という話です。
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「ほうらね、やっぱりそうだった」を集めていないか
僕は最近、
自分の中にこういう動きがあったなと思っています。
“ほうらね、やっぱりそうだった”を集める動き。
たとえば、
「自分は大切にされない」
という前提を持っているとします。
すると、
人に大切にされなかったように見える出来事を
ものすごく拾いやすくなる。
返事が少し遅い。
相手の反応が薄い。
誘われなかった。
話を最後まで聞いてもらえなかった。
誰かが自分より別の人を優先した。
そういう出来事があると、
「ほうらね、やっぱり自分は大切にされない」
となる。
もちろん、本人は苦しいです。
苦しいんだけど、
どこかで妙に納得もしてしまう。
「ああ、やっぱりね」
「まあ、そうだよね」
「どうせそうなると思ってた」
この感じです。
嫌な安心。
本当は外れてほしいはずなのに、
当たってしまうと、
どこかで
「自分の見ていた世界は間違っていなかった」
という確認にもなってしまう。
これが本当に厄介です。
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人は、慣れた苦しさの方が安心することがある
普通に考えれば、
苦しい前提なんて手放したいはずです。
「自分は大切にされない」
「自分はうまくいかない」
「自分はお金を受け取れない」
「自分はどうせ続かない」
「自分は人から見下される」
「自分は最後には失敗する」
こんな前提、
持っていても苦しいだけじゃないか。
そう思います。
でも人間って、
そんなに単純じゃないんですよね。
苦しくても、
慣れている世界の方が安心することがあります。
「自分はどうせうまくいかない」
と思っていれば、
うまくいかなかった時に傷つきにくい。
「やっぱりね」
で済ませられる。
最初から期待しなければ、
期待して裏切られる痛みを
少し避けられる。
「どうせ大切にされない」
と思っていれば、
大切にされなかった時の衝撃を
少し減らせる。
「人は信用できない」
と思っていれば、
近づいて傷つくリスクを
減らせる。
つまり、
苦しい前提は、
自分を苦しめている一方で、
ある意味では自分を守っていることもある。
だから、
なかなか手放せない。
頭では変わりたい。
でも体の奥では、
慣れた苦しさから離れる方が
もっと怖いと感じていることがある。
僕は、ここがかなり深いところだと思っています。
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「どうせ無理」と思っていると、無理になる行動を選んでしまう
たとえば、
「自分はどうせうまくいかない」
という前提があるとします。
すると、
無意識にうまくいかなくなる方向の行動を
選んでしまうことがあります。
本当はやった方がいいことを先延ばしにする。
中途半端な準備のまま出して、
やっぱり反応が悪かったと落ち込む。
逆に、完璧に準備しようとしすぎて、
いつまでも出さない。
人に相談すればいいのに、
一人で抱え込む。
うまくいきそうになると、
急に怖くなって手を緩める。
チャンスが来ても、
「自分にはまだ早い」と引っ込める。
そして結果的に、
うまくいかない。
そこで、
「ほら、やっぱり自分はうまくいかない」
となる。
でもよく見ると、
最初の前提が、
うまくいかない行動を
少しずつ選ばせていた可能性があります。
これは、自分を責めたいわけではありません。
むしろ逆です。
「自分がダメだからうまくいかない」
ではなく、
“どうせうまくいかない”という前提が、
うまくいかない方向へ
自分を誘導していたのかもしれない。
そう見てみるということです。
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「どうせ嫌われる」と思っていると、嫌われる前提で人と関わる
人間関係でも、同じようなことが起きます。
「自分はどうせ嫌われる」
という前提があると、
人との関わり方が
どこか不自然になります。
本音を隠す。
相手に合わせすぎる。
変に気を遣いすぎる。
嫌われないように先回りする。
少しでも反応が薄いと、急に距離を取る。
相手を試すようなことをしてしまう。
逆に、最初から深く関わらない。
すると相手から見ると、
本当のその人が見えにくい。
距離を感じる。
気を遣われすぎて疲れる。
急に引かれて戸惑う。
何を考えているか分からない。
その結果、
関係が深まりにくくなる。
そして本人は、
「ほら、やっぱり自分は人とうまくいかない」
となる。
でも、ここでもやはり、
最初の前提が、
その現実を作る行動を
選ばせていたかもしれません。
これ、かなり痛い話です。
僕も、自分で書きながら
「うっ」となります。
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「お金を受け取るのが怖い」と、受け取れない現実を作りやすくなる
これは、僕にとってもかなり重要なテーマです。
たとえば、
「自分はお金を受け取るほどの価値がない」
という前提があるとします。
すると、
本当は価値を届けられるものがあっても、
なかなか商品にできない。
価格をつけるのが怖い。
告知するのが怖い。
売り込むのが申し訳ない。
お金をもらった後に、
期待に応えられなかったらどうしようと思う。
だから、
無料や安すぎる価格に逃げる。
募集をぼかす。
説明が弱くなる。
相手に欲しいと思われる前に、
自分が引っ込める。
結果、
売れにくくなる。
そして、
「ほら、やっぱり自分はお金を受け取れない」
となる。
でも、
本当に価値がなかったのか。
それとも、
受け取る前提がなかったから、
受け取れない出し方を
無意識にしていたのか。
ここは分けて見た方がいいと思っています。
僕自身、
ここはまだまだ向き合っている途中です。
お金は本当に面白いというか、
怖いというか、
かなり正直に自分の前提を映します。
自分の価値。
自分への信頼。
相手から受け取ること。
責任への怖さ。
失敗への怖さ。
豊かになっていいのかという許可。
そういうものが、
かなり出ます。
だからこそ、
お金の問題は単にお金だけの問題ではなく、
自分の前提を見る入口にもなると思っています。
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前提は、証拠を集める
人間の脳は、
自分が信じているものの証拠を
集めるのが上手いです。
「自分は嫌われる」
と思っていれば、
嫌われたように見える証拠を探す。
「自分はうまくいかない」
と思っていれば、
うまくいかなかった証拠を探す。
「自分は大切にされない」
と思っていれば、
大切にされなかった証拠を探す。
「自分は稼げない」
と思っていれば、
稼げなかった証拠を探す。
そして証拠が見つかると、
前提はさらに強くなります。
「ほら、やっぱり」
となる。
このサイクルが繰り返されると、
本人の中ではもう、
それは思い込みではなく
“人生の真実”のように感じられてきます。
でも本当は、
見えている世界の一部を
かなり強く拾い続けていただけかもしれません。
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逆の証拠は、なぜか軽く扱ってしまう
さらに厄介なのは、
自分の前提と違う出来事は、
軽く扱ってしまうことです。
たとえば、
「自分は大切にされない」
と思っている人が、
誰かに大切にされたとします。
普通なら、
「あ、大切にされているかも」
と思えそうです。
でも実際には、
「たまたまだろう」
「気を遣ってくれただけだろう」
「本心ではないかもしれない」
「今だけかもしれない」
「どうせそのうち離れるだろう」
と処理してしまう。
逆に、
少しでも雑に扱われたように感じると、
「ほら、やっぱり」
と強く受け取る。
つまり、
自分の前提に合う証拠は重く見て、
合わない証拠は軽く見る。
これをやっていると、
前提はなかなか変わりません。
僕もこれ、かなりやってきたと思います。
褒められても、
「いや、そんなことないです」と流す。
応援されても、
「気を遣ってくれているだけかも」と受け取らない。
でも、
少し否定的な反応があると、
「やっぱり自分はダメなんだ」と強く受け取る。
いや、そりゃ苦しくなりますよね。
自分に不利な証拠だけ、
採用率が高すぎるんです。
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「自分の現実」は、かなり編集されている
僕たちは、
現実をそのまま見ているようで、
実はかなり編集して見ています。
何を見るか。
何を見ないか。
何を重く受け取るか。
何を軽く流すか。
どんな意味をつけるか。
どんな証拠を集めるか。
その編集方針を決めているものの一つが、
前提なのだと思います。
もし前提が、
「自分はどうせうまくいかない」
なら、
うまくいかない証拠が目に入りやすい。
もし前提が、
「自分は少しずつでも進める」
なら、
小さな進歩や改善点も目に入りやすい。
現実そのものが
一瞬で魔法のように変わるわけではありません。
でも、
見えるものが変わる。
見えるものが変わると、
選ぶ行動が変わる。
行動が変わると、
少しずつ結果も変わってくる。
この流れは、
かなり大きいと思っています。
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だから、最初にやることは「証明している前提」に気づくこと
もし今、
人生の中で何度も繰り返している苦しさがあるなら、
少しだけ見てみてください。
自分は何を証明しようとしているのか。
たとえば、
「やっぱり自分は愛されない」
を証明していないか。
「やっぱり自分はうまくいかない」
を証明していないか。
「やっぱり自分は稼げない」
を証明していないか。
「やっぱり自分は続かない」
を証明していないか。
「やっぱり人は信用できない」
を証明していないか。
「やっぱり本音を出すと傷つく」
を証明していないか。
「やっぱり恥をかくと終わり」
を証明していないか。
こういう問いは、
少し耳が痛いです。
でも、
責めるためではありません。
自分がどんな前提に引っ張られているのかを
見つけるためです。
見えない前提は、
人生の裏側でずっと働き続けます。
でも、見えた前提は、
少しずつ選び直せます。
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ただし、「全部自分が引き寄せた」と雑に片づけない
ここで、
一つ気をつけたいことがあります。
こういう話をすると、
すぐに
「全部、自分が作った現実なんですね」
「悪いことが起きるのも、自分の前提のせいなんですね」
みたいになりがちです。
僕は、
そこはかなり慎重に扱いたいです。
世の中には、
本当に理不尽なこともあります。
相手の問題もあります。
環境の問題もあります。
社会的な問題もあります。
お金や仕事の現実もあります。
自分の力だけではどうにもならないこともあります。
だから、
何でもかんでも
「あなたの前提が作りました」
と雑に言うのは違うと思っています。
それは人を傷つけることもある。
大事なのは、
出来事そのものを全部自分のせいにすることではなく、
その出来事に対して、
自分がどんな前提で反応し、
どんな選択をしているのかを見ること。
ここです。
現実を見ないスピリチュアルでもなく、
全部自己責任で自分を責める話でもない。
現実は現実として見る。
その上で、
自分がどんな前提から
現実に関わっているのかを見る。
これが大切なのだと思います。
⸻
前提に気づくと、人生に少し“余白”ができる
「自分はどうせうまくいかない」
と思っていたとします。
でも、それに気づいて、
「あ、今また
“どうせうまくいかない”を
証明しようとしているかもしれない」
と見えた時。
ほんの少し、
いつもの反応との間に余白ができます。
そこで、
小さく違う選択ができるかもしれない。
いつもなら出さないものを、
少しだけ出してみる。
いつもなら一人で抱え込むところを、
少しだけ相談してみる。
いつもなら反応が薄くてやめるところを、
「これはデータだ」と見て、
一つ改善してみる。
いつもなら
「やっぱり自分はダメだ」
で終わるところを、
「今、そういう結論に飛びそうになっているな」
と気づく。
この小さな余白が、
人生を変える入口になるのだと思います。
⸻
僕も、“ほうらね”を集めるのをやめたい
正直、
僕もまだまだ途中です。
今でも、
自分に不利な証拠を集めそうになることがあります。
発信して反応が薄いと、
「ほら、やっぱり届かない」
と思いそうになる。
お金のことで不安が出ると、
「ほら、やっぱり自分は稼げない」
と思いそうになる。
人の反応が気になると、
「ほら、やっぱり自分は変に思われる」
と思いそうになる。
でも、
そこで一回止まりたい。
「これは本当に現実そのものなのか。
それとも、前から握っている前提を
また証明しようとしているのか」
と見てみたい。
そして、
もし証明しているだけだと気づいたなら、
少しだけ違う証拠も探してみたい。
ちゃんと読んでくれた人はいなかったか。
小さく反応してくれた人はいなかったか。
少しでも進んだことはなかったか。
前よりできるようになったことはなかったか。
自分が出したこと自体に、意味はなかったか。
そうやって、
今まで採用してこなかった証拠も
少しずつ拾っていきたいと思っています。
⸻
最後に
人は、自分が信じている前提を
無意識に証明するように生きてしまうことがあります。
「どうせ自分はうまくいかない」
と思っていれば、
うまくいかない証拠を集める。
「どうせ自分は大切にされない」
と思っていれば、
大切にされなかったように見える証拠を集める。
「どうせ自分は稼げない」
と思っていれば、
稼げなかった証拠を集める。
そして、
「ほうらね、やっぱりそうだった」
と、
また古い前提を強くしてしまう。
でも、
それに気づけた時、
人生には少し余白が生まれます。
今日、少しだけ
自分に聞いてみてください。
僕は、何を“やっぱりそうだった”と証明し続けているんだろう。
その証拠ばかりを集めていないだろうか。
逆の証拠を、軽く扱いすぎていないだろうか。
もし別の前提で生きるとしたら、
今日どんな小さな証拠を拾えるだろうか。
人生を変えるとは、
いきなり全く違う自分になることではないのだと思います。
まずは、
自分がどんな前提を証明するように生きてきたのかに気づくこと。
そして、
ほんの少しずつでいいから、
違う証拠を拾い、
違う選択をしてみること。
そこから、
“ほうらね、やっぱり苦しい”を繰り返す人生は、
少しずつ
“あれ、もしかすると違うかもしれない”
という人生に変わっていくのだと思います。
