RELEASE からRELIEFへ
美術館の重たいガラス扉を押すと背中についてきた風が一緒に滑り込みひんやりした館内の空気と混ざったところで扉がゆっくり元の位置へ戻っていく。受付でもらったチケットは思ったより薄く、角を親指で弄びながら展示室へ向かう。靴底の音が妙によく響く。バッグの中でスマートフォンはお休みさせてそのまま最初の部屋に入る。
美術館に来たからといって入口ですぐ別人になれるわけではない。初めてでもないのに電車でドキドキしていたことも、返事をしていないメッセージも、朝から何度か頭の中で繰り返した用件も律儀についてくる。だから最初の一枚ではいつも絵より先に横のキャプションを読んでしまう。作家名、生没年、制作年。一九二七年、と頭の中で唱えてから顔を上げると、ホッパーの《Automat》の女が白いカップを前に座っている。夜の窓は黒く、室内の灯りばかりがガラスに映り込んで女のいる場所だけが世界から薄く切り取られたように明るい。カップを包む手、帽子の影、テーブルの上の小さな皿を追っているうちに、さっきまで考えていたメッセージの返事が、いつの間にか頭の中から退席している。視線誘導に身を委ねた。
次の展示室では年配の男性が大きな油絵の前で両手を後ろに組んでいた。その肩越しに見える画面の青が気になって、少し横へずれる。美術館ではなぜか団体行動が苦手な私も、混雑した中一緒のタイミングで最後まで進む人に妙な連帯感を抱いてしまう。青の近くに吸い寄せられると、遠目には滑らかだった青の表面に細かな亀裂が走り、ところどころ絵具が盛り上がっている。百年ほど前の午後に誰かが筆へ取った顔料が、空調の効いた東京の展示室でまだ光を拾っている。その事実が妙に面白くて、しばらくそこに立っていた。私は時間を味わっているのかもしれない。
美術館へ行くと楽になる理由を、以前は美しいものに触れるからだと思っていた。最近は少し違うふうに考えている。私たちは普段、驚くほど熱心に自分を観察している。朝は鏡の中で顔の浮腫み具合を確認し、夜中に汁なし坦々麺はやめておけばよかったなどと後悔し、人と別れれば会話を巻き戻し、送ったメッセージの語尾が気になれば自分の吹き出しを読み返し、全部消したい衝動を飲み込む。夜には今日の振る舞いを校正しながら、まだ来てもいない明日の自分まで会議に呼び出す。頭の中に自分専属の編集者でも住んでいるのか、頼んだ覚えのない赤字が一日中入る。
ところが展示室をいくつか抜けた頃、その編集者が仕事をしていないことに気づく。目の前には、こちらよりずっと気になるものが次々と現れるからだ。古いニスの下に沈んだ緑、窓辺だけに置かれた黄色、画面の隅で半分切れている椅子、額縁に残った小さな傷。ひとつ気になればその先を追い、また別のものに目を取られる。そうして注意が作品の側へ流れていくにつれて、自分に向けっぱなしだった矢印が一本ずつほどけていく。
瞑想と似ているのかもしれない。ただ、私の場合は頭の中を空にするというより、自分がそこを占領するのをやめる感覚に近い。作品についての考え事もするし、作品を見て歴史や誰かを思い出すこともある。それでもときどき言葉のほうが身体に追い越される。たぶん言葉が追いつかないんだ。名前さえ知らなかった絵の前で、画面の端に落ちた薄い光がなぜか気になり、その理由を探しているうちに自分に向けた矢印は解散していた。その絵の前に立った瞬間体が反応することもある。理屈を超えて体液が頬をつたい、毛穴が立つ。感動したのだろうかと考える頃にはこちらの理解など待つ気もなかったらしいことがわかるのだ。ハンカチを探しもせず、委ねる。身体とはずいぶん勝手なものだと思う。いや、教えてくれているのかもしれない。素直とはどういうことかを。
西田幾多郎の「純粋経験」という言葉を知ったとき、私はこういう瞬間を思い浮かべた。「私が絵を見る」と文章にすれば、主語と目的語はきれいに分かれる。それなのに、実際に涙が出たあの数秒には、私と絵の境目がそれほど几帳面に引かれていた感じがしない。青が目に入り、光が身体へ届き、気づけば涙が出ている。言葉がやって来て、それぞれに名前をつけて棚へ収める、その少し前の時間である。
美術館という建物を奥へ奥へと歩くことも、この感覚とどこか似ている。角を曲がれば次の壁が現れ、その向こうには別の時代の別の人間が残したものが待っている。身体は建物の深いところへ進んでいるのに、注意のほうは反対に、自分の外側へどんどん広がっていく。知らない街の窓辺へ行き、百年前の午後へ行き、名前も知らない人物の横顔へ行く。禅でいう「今ここ」をわざわざ思い出さなくても、空調で少し冷えた手を擦りながら一枚の絵に見入っているその身体は、すでに現在の中にいる。
最後の展示室を抜けると、ミュージアムショップだけが急に饒舌に感じられる。照明のせいだろうか。作家名、作品名、価格、限定品、新商品の札。さっきまで壁いっぱいに広がっていた絵が手のひらほどのポストカードになり、同じ大きさの棚へ行儀よく並んでいる。《Automat》を一枚抜き取ると、紙が隣のカードを擦って小さく鳴った。レジで薄い袋を受け取り、そこでようやくスマートフォンを取り出す。数時間しか経っていないことに少し驚く。精神と時の部屋みたいだ。
外へ出ると、夕方の光が向かいのビルの窓を一枚だけ金色にしていた。信号待ちの人の髪が風に持ち上がり、車道脇の銀色のポールにも細い光が乗っている。美術館へ入る前なら、そのまま通り過ぎていたかもしれない景色を妙によく拾う。
そこで、Release と Relief という二つの言葉がつながった。
私は信号が変わる間、なびく髪を抑えもせず目を瞑り少しだけ顎を上げた。鼻から秋の乾燥した匂いを吸い込む。
私が美術館で手放していたのは悩みでも過去でも自分自身でもなく、自分へ向け続けていた「注意」だったのだと思う。「注意」というと「シモーヌ・ヴェイユは…」などとはじまりそうだが、まさに、自分を観察し、理解し、評価し、修正しようとする視線を数時間だけ知らぬ間に解放してやっていたのだ。その release のあと、身体に残った余白を relief と呼んでいたのかもしれない。
信号が変わって、街のノイズが戻り始める。深い呼吸が一歩を押し出す。来た時より力強く。
家に着いて、買ってきたポストカードを机の上に置いた。ケトルのスイッチを押し、湯が沸くまでコートを脱いでいると、机の上ではホッパーの女が相変わらず白いカップを前にしている。私も棚からiittalaを取り出す。湯を注いで両手で包むと、冷えていた指にじわじわ温度が戻ってきた。
美術館へ行って癒された、という言い方を私はこれからもすると思う。ただその中身が少し立体的になった。紅葉のようにグラデーションを帯び、自分の思考が移り変ってゆく。
自分を癒すために自分を見続ける必要はなかったのだ。
ケトルの保温スイッチが、カチッと音を立てた。
