役割を減らすという選択
わたしは、空気を読むのが得意です。
相手が何を考えているか。
次にどう動いてほしそうか。
言葉にされる前に、なんとなく分かってしまう。
だから、頼まれる前に動いていました。
先回りして準備して、段取りして、フォローする。
だいたい喜ばれるし、場もスムーズに回る。
それが、わたしにとっては「普通」で「当たり前」のことでした。
でも、その「普通」と「当たり前」が、少しずつしんどくなってきた。
先回りしてやると、相手はそれに慣れてきます。
そのうち、感謝より期待が増えていく。
甘えてくる、というより、いつの間にかそれが、相手にとっても当たり前になっている。
わたしは誰にも頼まれていないのに、ひとりで勝手に誰かの期待に応え続けていました。
負担は、静かに増えていきました。
何もしていないのに疲れている。
返事をするだけで消耗する。
頭の中には、いつも他人の思考が入り込んでくる。
そんな時に読んだのが、小林正観さんの「ありがとうの神様」という本でした。
『頼まれごとを淡々とこなす。それが人生だ』
という考え方。
その一文を読んで、手が止まりました。
ああ、そうか。
わたしは、頼まれてもいないことまで背負っていたんだな、と。
でも同時に、
『自己嫌悪が大きくなるなら、断ってもいい』
とも書かれていました。
そこから、少しずつ行動を変えました。
やりたいことだけやる。
やりたくないことは、極力やらない。
はっきり断る。
たとえば、義実家の香典袋の表書き。
書道を習っていたというだけで、何度も頼まれていました。
でも、書道で習った字と、筆ペンで書く香典袋の字は、わたしの中ではまったく別物です。
自分の中では、決して上手だと思っていませんでした。
自分のものですら書きたくないのに、義実家のものまで引き受けるのは、正直言ってやりたくなかった。
それでも
「書けるんだからお願いね。」
という空気に、「良い嫁」として、ずっと応えてきました。
本の中には、
『人数合わせのような頼まれごとは断っていい』
とも書かれていました。
読んだときに、こう思いました。
これは
「あなたにお願いしたい」ではなく
「誰でもいいから」
だったのかもしれない、と。
その後、はっきり断りました。
すると義母から
「やりたくなかったなんて、今まで嫌な思いをさせてごめんなさい。」
そう言われました。
正直、拍子抜けしました。
断ったら、気まずくなると思っていたからです。
結局、香典袋の表書きは、わたしがやらなくても何も問題はありませんでした。
しばらくして、所属しているコミュニティの中で、立場のある人から
「作業もしなくていいし、ミーティングにも出なくていい。居てくれたらいいよ。」
そう言ってもらえる場面がありました。
でも最初は、ムズムズしました。
気づいているのに動かない。
分かっているのに様子を見る。
急に動かなくなったな、と思われていないだろうか。
期待に応えないことで、気まずくならないだろうか。
そんなことをぐるぐると考えていました。
でも、しばらくすると分かってきました。
全然、大丈夫でした。
わたしが動かなくても、ちゃんと回る。
代わりになる人が、ちゃんと現れる。
思っていたほど、世界はわたしを必要としていなかった。
本の中には、こんな言葉もありました。
『究極の愛の形は、
ただ、相手のそばにいてあげること。』
『特別なことをしなくてもいい。』
その時、すとんと腑に落ちました。
わたしは、頑張りすぎていただけだった。
期待に応え続けなくても、ただそこに居るだけでいいんだな、と。
今では、スマホの通知を常時オフにしています。
そのことを周りにも伝えました。
すぐには返事が来ない人。
その立ち位置を自分で選んでいます。
今でも、たまに先回りする癖は出ます。
でも、すぐに返事をしない。
気づいても様子を見る。
自分が動かなくても回るなら、そのままにしておく。
これは今も練習中です。
その代わりに起きたのは、静けさでした。
頭の中に、他人の思考ではなく、わたし自身の純粋な思考だけがある感じ。
わたしは今、どうしたいのか。
一日一日を「わたしの時間」として生きている。
そんな感覚が、少しずつ戻ってきました。
妻、娘、嫁。
いろいろな役割を降りて、わたしがわたしらしく、ただそこに在る。
これは逃げでも後退でもなく、わたしにとっては「選択」だと思っています。
もし、
いつも返事に追われている
誰かの思考が勝手に入ってくる
何もしていないのに疲れていたら、
「役割を減らす」
というやり方も、ありかなと思います。
まずは、ひとつからでも。
そうすると、少しずつ自分を取り戻せる気がしています。
わたしは今、その途中です。
