【批評の歩き方】イベント情報一覧
3/15 「分断の時代」に論壇は可能か
ゼロ年代以降の壊れた世界で「批評」を問う
小峰ひずみ・長濵よし野・小泉義之
『批評の歩き方』(人文書院)・『悪口論』(百万年書房)W刊行イベント!昨年末刊行し話題になった『批評の歩き方』。その執筆陣からは、ゼロ年代フェミニズム批評の牽引役だった竹村和子について論じた編集者・ライターの長濵よし野、ゼロ年代文化において主人公のひとりでもあった「活動家」の現在を『悪口論』で描いた批評家・小峰ひずみが登壇。また、ゲストとして『批評の歩き方』に推薦の帯文を寄せていただいた小泉義之をお招きします。小泉氏は、哲学研究だけではなく、文芸誌や雑誌で頻繁に批評をお書きになっており、ゼロ年代以後の、批評の「死後の生」を問い直し、批評とは何かたっぷり語っていただきます。司会は編集者(人文書院)がつとめます。
以下、登壇者から届いた趣旨文をお届けします。
きわめて不完全な「わたし」は
決してそのままを完全に理解しあうことのできない「あなた」と
どのように言葉をかわせばよいのだろう
長濵よし野
言葉とはそれ自体、呪いであり、祈りである。
少なくとも、そのことが恐れを伴って確かに信じられていた時代が、古くあった。
言葉は時に現実をおびき寄せる装置となる。反復は未定で曖昧なものを地固めする。
望むことも、望まぬことも。
いまなお、言葉は、あらゆる形式の無数の反復によって、ヘゲモニックな物語に個別具体的な個人をおさえつけてしまう。一方で、いまそうでないとしても、自分が望む姿を語る行為は、それを「わたし」に現実として引き寄せる。ヘゲモニックな物語によって隠匿された実存も言葉によって事実だと伝えることができる。言葉が常にとりこぼしを前提としているとしても、私はこの力を恐れをもって信じている。
果たして、今言葉はそのような力を持つ(と広く信じられている)だろうか。
本イベントは小峰ひずみさんによれば「批評の死後」を問う場である。
しかし正直なところ私は、これまでも、今も「批評」という形式にこだわりはない。
文章を書いていれば、それが批評的な力をもつことはある。そればかりか、日常的で身近な身振りや話し言葉の中で、瞬間的/偶発的に立ち現れた批評性を前に、自分の欺瞞をつきつけられてしまうことさえある。私が気にかけているのは、むしろ身近な言葉がもちうる「呪術性」のようなものである。
では改めて、それでもなお狭義の「批評」という形式を採用するのであれば、そこに何を望めるのだろうか。しかも文筆という、行き来のとても遅い媒体で。
なぜこの三人なのだろう、何を話すイベントなのだろう。まだ不思議に思われている方もいらっしゃると思う。
取り急ぎの私の答えとして、キーワードは「臨床」ということになる。もっといえば、文筆の形式としての「批評」と、臨床的で具体的な現実との往還についてである。
小峰ひずみさんは著書『悪口論』で、人が立場の弱い他者を排除・排斥する言葉や身振りの力学について、とても身近で具体的な経験から分析されている。また『批評の歩き方』の吉本隆明論では、何かを主張する言葉が、中身のない紋切型になってしまう事に対する吉本の不信感を出発点にするものであった。
また今回ゲストでお招きする小泉義之さんは、日本を代表する哲学者であり、個人的には『弔いの哲学』や『小泉義之政治論集成Ⅰ災厄と性愛/Ⅱ闘争と統治』等も印象的だが、ゼロ年代初期の文芸批評連載『文学の門前』の最終回末尾で、「学問」や「政治」ではなく「文学だけが、人生そのもの」だと書かれていることが強く私の目を引き付けた。
文学を主な研究領域としてきた身として、修士論文を書き終えて今まさに突きつけられている大きな問いと結びつくものだったからだ。
文学と政治、そして哲学をはじめとする学問。それらの領域としての境とは何で、それらはどのようにからみ合いながら具体的な現実を示すことができ、あるいはどのように寄与することができるのだろうか。
本イベントの登壇者は、キャリアも、主な専門も、三者三様である。だがそこには、批評にまつわる「臨床」的な問いがゆるやかな共通項として見えるのではないか。
臨床的な言葉や身振りや経験と、文筆(≒批評)の往還。そして「批評」という形式以前の臨床的な言葉そのものの呪術性。
私が本イベントで問いたいのはこの点である。この先の「言葉」にまつわる問いである。
ゼロ年代で「批評」は死んでもよかった。
小峰ひずみ
ゼロ年代以降、私たちは「論」が機能しない世界に生きています。
この世界では、作品や物事の善悪を判断する「批評」、他人とともにその判断を吟味する「論壇」、そして、その判断を(おこがましくも)第三者に適用する「法」、この3つの連関が機能しません。「安全保障(セキュリティ)」や「〇〇との戦争」の名のもとに、言葉がはぐらかされ、論壇が嗤われ、法が無視される事態が続いています。市民社会が機能しない。それは従来の「批評=批判(クリティーク)」の存立根拠そのものが失われたことを意味します。
しかし、それでも「批評」は続いていく。それはなぜなのか?
この事実そのものが「謎」である、と私は思います。
ゼロ年代で「批評」は死んでもよかった。でも、生きてる(っぽい)。そのことに私はいつも驚き、躓いています。『批評の歩き方』という無知で愚かな企画が、それでも(そうであるがゆえに)何らかの「事件(出来事)」であるとしたら、それはこの「謎」を「謎」として提出したからです。
ゼロ年代以降の「あたかも壊れた世界」(小泉義之)で「批評」にどんな価値があるか?
なぜそのスタイルを取るのか?
なぜ「批評」は続いていくのか?
なぜ「批評」を続けていくのか?
そして、「批評」にとって「あなた」とは誰のことなのか?
本イベントでは「批評」の、死後の生を問うていきたいと思います。

――小泉義之(哲学/批評)
・2025年3月15日(土)14時〜16時
・場所 出町座(京都市上京区三芳町133/出町柳駅より徒歩5分)
・料金 1,500円
【参加方法】
・リアル会場(以下のURLよりチケットをご購入ください)
※チケット購入をもって参加申し込み完了とさせていただきます。当日ご来店の際に受付でお名前を確認させていただきます。
・オンライン視聴(以下のURLよりチケットをご購入ください)
※配信はvimeoの限定公開機能を使用予定です。イベント前日にメールにてオンライン会場となるvimeoページのURLを送信させていただきます。オンライン視聴のお申し込みはイベント前日までとさせていただきます。
3/16 批評の配管をつなぐ
メディアと哲学の地図を新たに描きなおすための戦略会議、あるいはたんなるカルチャー談義
大澤聡・森脇透青
批評とは、ばらばらのエリアのあいだを「配管」で瞬時につないでいく突貫工事である——
森脇透青さんと大澤聡さんはそう言います。
「批評の死」と「批評の再生」が同時に宣告され、急速に批評がバズワード化しつつある。これまでの批評が引きおこしてきた水道トラブルを乗り越え、さまざまなパイプをつなぎなおし、悪循環を好循環へと転換させられるか? 『批評の歩き方』(人文書院)の刊行と騒動を横目に、新たなプロジェクトを立ちあげるという噂のある批評家のおふたりが語りあいます。
人文知や読書は日常にどう「役立つ」のか? この社会が次に目指すべき場所は? コミュニティにどんな可能性があるのか? いまチェックしたいおすすめのコンテンツとは? そして、ここ関西の地に新たな思想シーンはつくられうるのか……!?
現代の苦境から希望まで、ざっくばらんに一挙総覧!!!
『批評の歩き方』については先日のゲンロンのイベントでも触れているのですが、それに被せつつ、今回はもう少し広い射程の話をしようと思います。
最近よく言われる「批評の死」について、あるいは昨今の社会状況とかサブカルチャーについて、雑談的・時評的にトークしていく予定です。
ところで、批評系のイベントを大阪でやるのはけっこう難しいとされています。関西で人文系の何かをやろうとした場合のブルーオーシャンであり、同時に鬼門である場所が「大阪」です。東京や京都は集客しやすいけど大阪は難しい。こうした事情も含め、当日は関西がいったいどういう磁場をもった場所で、そこで東京と同じような/東京と異なるような「知」がありうるのか、といったような話もしたいと思います。
ここで人がどのくらい集まるのか、それは今後の僕&大澤さんの大きな指標になると思うので、短い時間のトークではありますが、ぜひお立ち寄りいただけたらと思います。大澤さんと動かしていく企画についても少しばかりお披露目する予定です。
今後の思想シーンが誕生する瞬間をぜひ目撃してください。
森脇透青(https://toseimoriwaki.com より転載)
・2025年3月16日(日)15時〜16時半
・場所 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店
・料金 1,650円
チケットのご購入はこちらから。書籍付きチケットもございます。
販売開始:2025年2月22日 12:00/販売終了:2025年3月31日 12:00
過去のイベント

2025年に批評は存在できるのか?――90年代生まれが見通す「これから」の論壇
松田樹×森脇透青×三宅香帆×植田将暉(司会・ゲンロンスタッフ)
日時:2025年1月19日(日)20時〜
場所:京都祇園EN-LAB
下記よりアーカイブを購入できます。
