誰かが誰かの「お互い様」
日本には「人に迷惑をかけないように生きよう」という言葉がある。
かたやインドに「人は生まれた時から誰かに迷惑をかけるものだから、そのぶん優しく生きよう」という言葉もあるらしい。
似ているようで、まったく逆のベクトルの思想だ。
でも、どちらが良い悪いの話ではなくて、本質的にはどちらも
「他人と一緒に生きていくための優しさ」なんだと思う。
日本の教育にある「迷惑をかけない」は、相手の平穏や時間を奪わないための気配りという優しさ。
対してインドの「お互い様」は、完璧にいかないお互いを受け入れ合おうという寛容さという優しさ。
アプローチが違うだけで、根っこにある思いやりはきっと同じなのだ。
だけど、俺を含めた多くの人は、日本の「迷惑をかけない」という優しさを、いつの間にか自分や誰かを追い詰める刃として使ってしまうことがある。
「迷惑をかけてはいけない」が「失敗してはいけない」「人に甘えてはいけない」にすり替わり、一度転んだやつを許せなくなったり、自分が助けを求められなくなったりする。
そうやって知らず知らずのうちに首を絞めて、息苦しくなっていく。
思い返せば、俺の半生もそんな「迷惑」と「甘え」の境界線でずっと揺れていた気がする。
10代の頃、不甲斐ない自分に嫌気がさして毎日死にたがっていた時、身の回りには自分を支えてくれるものが何もなかった。20代や30代でバンドを解散させた時も、どこかで「自分勝手な都合で周りに迷惑をかけてしまった」という強い罪悪感があった。
だからこそ、40代になって「妻に借金を返してほしいと言われたから」と、向いてもいない仕事の正社員になって自分を押し殺そうとした。
「ちゃんと社会人として迷惑をかけずに生きなきゃいけない」 そうやって自分に無理な課題を課して、心と身体をすり減らしていった結果、結局は限界を迎えて職を辞めることになった。
人に迷惑をかけまいと無理をした挙句、結局周りに心配をかけるという、一番格好悪いパターンだ。
でも、そんな俺を救ってくれたのは、いつだって誰かの「お互い様」という寛容さだった。
前職を辞めて音楽に戻りたいと言った時、文句も言わずに受け入れてくれた妻。ある朝目の激痛とともに目覚めて運ばれ、その直後に足を引きずっていた時、状況を分かってサポートしてくれたバンドの仲間たち。
みんな、俺の不完全さやカッコ悪い部分を「お互い様だから」と包み込んでくれた。
スタジオでドラムを叩いていると、たまにタムとかスタンドのネジが緩んで、演奏中に少しずつ高さが変わってしまうことがある。 完璧なセッティングでビシッと叩き続けるのが理想だけれど、人間なんてみんな、どこかしらのネジが少し緩んでいるのが当たり前なんだと思う。
自分一人で完璧に踏ん張って「迷惑をかけない」ように突っ立っているよりも、ネジが緩んでガタガタ揺れているお互いを「まあ、生きてればそういうこともあるよね」と支え合うほうが、ずっと人間らしくて温かい。
相手の時間や平穏を守るための「気配りの優しさ」は、これからも大切に持っていたい。 電車で脚を広げて座るやつにイラっとすることもあるが、最低限のマナーや思いやりは人間社会の潤滑油だ。
だけど、自分の心が折れそうになった時や、誰かが派手に転んだ時には、インド式の「寛容さの優しさ」を思い出そう。
人間なんてどうせ、生まれた時から誰かに世話になって、迷惑をかけながらしか生きていけないんだから。
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