還暦から始まる、光の散歩道|第3話 レンズは、光の翻訳者
写真を撮り始めると、どうしてもレンズが
気になってくる。
解像度。コントラスト。ボケ。周辺描写。逆光耐性。
スペックを調べれば、いくらでも数字や評価
が出てくる。
そして気がつけば、「どのレンズが一番良いのだろう」と考えている。
自分も例外ではなかった。
一本増え、また一本増え、いつの間にか同じ焦点距離のレンズが何本も手元にある。
傍から見れば、なぜ同じ50mmがそんなに必要なのかと思われるかもしれない。
けれど使ってみると、それぞれ違う。
単に解像度が高い、低いということだけではない。
同じ場所で同じ光を撮っているはずなのに、写真から受ける印象が違う。
輪郭をはっきり見せるレンズ。光を柔らかく
包むレンズ。
暗部まで丁寧に拾うレンズ。ハイライトを
少し滲ませるレンズ。
その違いに気づいた頃から、レンズを「性能」で見るだけでは物足りなくなった。

レンズとは、光を写すための光学機器である。
それは間違いない。
けれど、自分にとってはもう一つの役割が
あるように思う。
レンズは、目の前の光を写真という言葉へ翻訳
してくれる。そんな存在だ。
たとえば、夕方の柔らかな光。肉眼では「きれいだ」と感じた。
けれど写真にすると、レンズによってその「きれい」の意味が少し変わる。
現代の高性能なレンズなら、空気の透明感まで正確に描いてくれることがある。

古いレンズなら、光の輪郭がほんの少し緩み、記憶のような姿になることもある。
どちらが正しいという話ではない。
自分がその時に感じたものに、どちらの表現が
近いのか。それだけなのだと思う。
一時期オーディオに凝っていたことがあったが、その時スタジオモニタースピーカーというものを知った。
録音された音を、余計な味付けをせず忠実に再生するためのスピーカーだ。
現代の高性能なレンズを使っていると、時々それを思い出す。
光を正確に受け取り、細部まで送り届けてくれる
レンズ。
一方で、古い真空管アンプやビンテージスピーカーのように癖を持つレンズもある。
その癖が、時には写真に独特の温度を与えてくれる。

そう考えると、「最高のレンズ」を一つ決めること
自体に、あまり意味はないのかもしれない。
求めているのは、最高の性能ではなく、
その時に自分が見た光に合った言葉なのだから。
明確に語りたい日もあれば、少し曖昧に語りたい
日もある。
力強く残したい光もあれば、記憶の中へ溶けていくように残したい光もある。
だから同じ35mmや50mmでも、何本も使いたくなるのだろう。
それは焦点距離を集めているというより、光の語彙を増やしているのかもしれない。

レンズ沼という言葉がある。自分も片足を突っ込んだつもりでいた。
けれど最近は少し違う気がしている。
本当に落ちたのは、レンズの沼ではなく、レンズを通して見える、いくつもの光の沼なのだ。
だから今日も一本のレンズを選び、カメラにつける。
今日は、このレンズならどんな言葉で光を
語るのだろう。
そう思いながら。
