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「あんたが篠原さん!?」


#創作大賞2026 #オールカテゴリ部門  #お仕事小説 #職場ドラマ #心理ミステリー #人間関係 #ドラマ脚本 #公務員 #感動小説 #連載希望

あらすじ

市役所の税務課に配属された新人・水野は、初日から異変に気づく。挨拶をしても返ってこない。雑談がない。誰も怒らないのに、空気が凍りついている。その中心にいるのが、24歳の若手職員・篠原葵。仕事は神がかり的に正確で速いが、必要最低限しか喋らず、誰とも目を合わせない。職場では「氷の女」と呼ばれていた。

やがて水野は知る。篠原がかつて、優しすぎたがゆえに壊れかけた過去を。それでも水野は、毎朝挨拶をやめなかった。返ってこなくても。無視されても。

その小さな声かけが、静かに崩壊していく職場を、そして篠原の心を、少しずつ溶かしていく――。

「あんたが篠原さん!?」

その一言が、すべての始まりだった。

主題歌『サイレント・ノイズ』 歌手:Adoさんへ依頼予定
(重低音が響くロックテイスト。Aメロは囁くように、サビで一気に感情を爆発させるシャウトをイメージ)
【Aメロ】
おはようございます、って誰に言ってんの?
虚空に溶けてく 無機質なマイ・ボイス
カタカタターン、エンターキーの音だけが
この部屋の唯一の生存証明(シグナル)

【Bメロ】
怒らないでよ 見捨てないでよ
いや、違うな 関わらないでくれよ
完璧な防具(アーマー) 氷の絶対領域
傷つかないための、賢い生存戦略でしょ?
ねえ、そうでしょう?

【サビ】
うるさい! うるさい! うるさい!
無言の同調圧力(サイレント・ノイズ)が耳障りなんだよ!
「察してくれ」の暴力で 首を絞め合って息絶える
そんな箱庭で、誰が笑えるの?
壊してよ、その境界線(ライン)
叫んでよ、本当の声を
私を、私を見つけ出してよ!
「あんたが篠原さん!?」って、馬鹿みたいに笑ってよ!

【Aメロ2】
助けて、なんて言えるわけないじゃん
優しさは搾取されるだけのバグなんだから
マニュアル通り、期待値ジャストで生きる
それが正解、それが大人、それが社会

【Bメロ2】
ため息の連鎖 視線のナイフ
誰かのミスは 誰かの蜜の味
もう嫌だ、こんな冷たい海で
溺れたフリして沈んでいくのは

【サビ】
うるさい! うるさい! うるさい!
無言の同調圧力(サイレント・ノイズ)をぶっ壊してよ!
「波風立てない」のが平和? 笑わせんな、ただの死体だろ!
体温のない職場で、何が生まれるの?
踏み越えてよ、その境界線(ライン)
見せてよ、本当の熱を
私を、私を引っ張り出してよ!
「あんたが篠原さん!?」って、その手で掴んでよ!

【Cメロ】
(テンポダウン、囁くように)
本当は、怖かっただけ
本当は、信じたかっただけ
誰か、誰か、誰か……
私の名前を、呼んで。

【大サビ】
(一気にテンポアップ、最大のシャウト)
うるさい! うるさい! うるさい!
静寂なんてクソ食らえだ!
ぶつかって、傷ついて、それでも息をしてるって証明しろ!
氷の鎧なんて、もういらない!
壊してよ! 叫んでよ!
私を、私を見つけ出してよ!
「あんたが篠原さん!?」って、馬鹿みたいに笑ってよ!
(アウトロ:激しいギターソロから、最後は静かなタイピング音で終わる)

登場人物

水野 健太(みずの けんた・22歳)市役所の税務課に配属された新人。熱血漢でもなく冷めているわけでもない、ごく普通の青年。大学では情報系の学部に在籍し、プログラミングの基礎知識がある。職場の異様な空気に戸惑いながらも、持ち前の素直さと諦めない性格で、少しずつ職場に変化をもたらしていく。

篠原 葵(しのはら あおい・24歳)税務課の若手職員。仕事は正確で早く、処理スピードは課内随一。しかし、必要最低限しか話さず、誰とも距離を置いている。常に無表情で「氷の女」と陰で呼ばれているが、その裏には、かつて福祉課で優しさゆえに全てを背負わされ、過労で倒れた経験がある。自分を守るために感情を殺すことを選んだが、完全には殺せていない。

中村 誠(なかむら まこと・45歳)税務課長。上層部からのノルマ圧力と、家庭(反抗期の娘と冷え切った妻との関係)の問題で疲弊している。若手の反応の薄さに戸惑い、どう接していいか分からない。空回りを繰り返しながらも、職場をよくしたいという思いは本物。

佐々木 莉緒(ささき りお・28歳)中堅職員。かつては明るかったが、今は職場の空気に飲まれ、事勿れ主義になっている。篠原の過去を知っており、彼女を心配しているが、自分には何もできないと諦めている。

大塚 浩二(おおつか こうじ・52歳)ベテラン職員。昔ながらのやり方に固執し、若手を理解しようとしない。プライドが高く、自分のミスを認めることが苦手。しかし、根は悪い人間ではない。


あんたが篠原さん!?

あんたが篠原さん!?
本文
第1話「消えた挨拶」
〇市役所・外観(朝) 春の陽射しが、コンクリートの壁を白く照らしている。 桜の花びらが、ゆっくりと、まるで時間の流れを惜しむように舞い散っていた。 その中を、スーツ姿の水野健太(22)が、少し早足で歩いてくる。 新品のスーツは、まだ体に馴染んでいない。ネクタイも、朝に三回結び直した。鏡の前で「よ し」と言い聞かせた顔は、今はもう少し緊張で強張っている。 水野のモノローグ「今日から社会人。公務員として、市民のために尽くす。……なんて、大層な 志があるわけじゃない。就活の時に、なんとなく安定してそうだから受けた。なんとなく受かっ た。なんとなく、ここにいる。それが正直なところだ。でも、それでいいと思ってた。普通に働 いて、普通に生きていければ、それで十分だと」 水野は市役所の正面玄関の前で立ち止まり、深呼吸をした。 春の空気が、肺の中に満ちる。 水野「……よし」 自動ドアが、静かに開いた。
〇市役所・一階ロビー 受付の女性職員が、水野に気づいて会釈する。 水野「あ、おはようございます! 今日から税務課に配属になりました、水野健太です!」 受付の女性「あら、新しい方ですね。おめでとうございます。税務課は三階ですよ」 水野「ありがとうございます!」 エレベーターに乗り込みながら、水野は少し肩の力を抜いた。 水野のモノローグ「受付の人は普通だった。よかった。……普通って、大事だよな。普通の挨拶 が返ってくる。普通に笑顔がある。そういうことが、どれだけ大切か、俺はこの時まだ知らなか った」 しかし、その「普通」が、三階では通用しないことを、水野はまだ知らなかった。
〇市役所・三階・税務課・フロア(朝) エレベーターのドアが開いた瞬間、水野は何かが違うと感じた。 音が、ない。 いや、正確には音はある。キーボードのタイピング音、電話の呼び出し音、書類をめくる乾い た音。しかし、人の声がない。雑談がない。笑い声がない。 水野は、フロアに足を踏み入れた。 「おはようございます! 本日より税務課に配属になりました、水野健太です! よろしくお願い いたします!」 元気よく、しっかりとした声で言った。 返事は、なかった。 カタカタターン。カタカタターン。 キーボードを叩く音だけが、無機質に、規則正しく響いている。 水野は、思わず自分の声が出ていたかどうか確認したくなった。もしかして、声が出ていなかっ たのだろうか。夢の中みたいに、口を動かしているのに音が出ないやつ。 もう一度、今度は少し声を大きくして。 「おはようございます!」 中堅職員の佐々木莉緒(28)が、ちらりと水野を見た。 視線が合う。 水野は思わず笑顔になった。 しかし、佐々木は無言で会釈し、すぐに画面に視線を戻した。 ベテラン職員の大塚浩二(52)は、新聞から目を離さず、舌打ちを一つした。 水野のモノローグ「……え? 聞こえなかった? それとも、俺の挨拶の仕方が悪かった? なんで 誰も返事をしないんだ。これ、普通じゃないよな。俺の感覚がおかしいのか? いや、おかしく ない。これは、明らかに普通じゃない」 その時、奥の席から慌てて立ち上がってくる男がいた。 課長の中村誠(45)だ。 中村は、ネクタイが少し曲がっていた。目の下にはうっすらとクマがある。それでも、精一杯の 笑顔を作って水野に近づいてきた。 中村「あ、ああ、水野くん。おはよう。うん、元気があっていいね。……でも、もう少し声のト ーンを落とそうか。ここは静かな職場だからね」 水野「あ、はい……すみません」 水野は小さく頭を下げながら、周囲を見渡した。 異様な静けさ。 誰も雑談をしていない。電話の応対の声すら、どこかひそひそと押し殺しているようだ。フロア には十数人の職員がいるはずなのに、まるで誰もいない廃墟のような静寂が漂っている。 水野のモノローグ「なんだ、この空気……。お葬式かよ。いや、お葬式の方がまだ声があるか。 ここは……ここは、一体何なんだ」
〇水野の席 中村に案内され、自分の席に着く水野。 席は、窓際の列の中ほどにあった。左手には窓から春の景色が見える。右手には、隣の席があ る。 その隣の席に、若い女性職員が座っていた。 パソコンの画面を凝視し、ものすごいスピードでテンキーを叩いている。 カタカタターン、カタカタターン。 そのリズムは、まるでメトロノームのように正確で、一切の乱れがなかった。 水野は、思わず見とれてしまった。 女性職員は、整った顔立ちをしていた。透き通るような白い肌。切れ長の目。ほんの少し薄い 唇。年齢は、自分とそう変わらないように見える。二十代前半、といったところか。 しかし、その顔には一切の表情がなかった。 喜びも、悲しみも、怒りも、退屈すら感じさせない、完璧な無表情。まるで、精巧に作られた人 形のようだった。 水野「あの、水野です。よろしくお願いします」 女性職員の手が、ピタッと止まった。 ゆっくりと、水野の方を向く。 その瞳は、深い湖のように静かで、そして冷たかった。 水野は、思わず息を飲んだ。 女性職員「……」 無言のまま、ただ水野を見つめる。 水野「えっと……」 一秒、二秒、三秒。 女性職員は、再び画面に向き直り、テンキーを叩き始めた。 カタカタターン。 まるで、水野の存在など最初からなかったかのように。 水野は、呆然とした。 水野のモノローグ「な、なんだこの人……。挨拶もなし? 名前も言わない? 俺、何かやらかし たか? いや、まだ何もしてないぞ。ただ挨拶しただけだぞ。なんで無視されるんだ。……い や、無視というより、俺のことが見えていないみたいだ。俺の存在が、この人の世界に入ってい ない」
〇中村の説明 中村が、水野の隣に座り、業務の説明を始める。 中村「えっと、まずは税務課の業務について説明するね。主に住民税の賦課・徴収が主な仕事 で、市民の方々の所得情報をもとに税額を計算して、通知書を発送する。それから、税金の相談 窓口の対応もある。年間を通じて繁忙期と閑散期があって、特に春から夏にかけては忙しくなる よ」 中村の説明は丁寧だったが、どこか上の空だった。 説明の途中で、何度もパソコンの画面に目をやり、ため息をついた。 水野「課長、あの隣の方は……」 中村「ああ、篠原くん。篠原葵さん。うちの課のエースだよ」 水野「エース……ですか」 中村「仕事は完璧。ミスはほとんどない。処理スピードも課内で一番だ。上の連中も、あの人の ことは一目置いてる。でも……」 中村は、少し声を潜めた。 中村「まあ、コミュニケーションは、ちょっとね。気にしないで」 水野のモノローグ「気にしないで、って言われても……」 水野は、チラリと篠原を見た。 篠原は相変わらず、完璧な集中力でモニターに向かっていた。 その横顔は、美しかった。そして、どこか悲しかった。 水野のモノローグ「エース、か。仕事ができる人間が、なぜあんなに孤独そうなんだろう。普 通、仕事ができれば、周りから頼られて、話しかけられて、もっと……もっと、人と関わるはず じゃないか」
〇給湯室(昼休み) 昼休み。 フロアの職員たちは、それぞれ弁当を持って席を離れていった。しかし、誰も一緒に食べようと 声をかけ合うことはなかった。 水野は、一人で給湯室に行き、コーヒーを淹れた。 インスタントコーヒーの粉を溶かしながら、水野はため息をついた。 水野のモノローグ「なんだこれ……。大学の時の方が、よっぽど人間関係が複雑だったけど、少 なくとも笑い声はあった。ここには何もない。笑いも、怒りも、雑談も。ただ、静寂だけがあ る。みんな、何かを諦めているみたいだ。何を諦めたんだろう。いつ諦めたんだろう」 そこへ、佐々木が入ってきた。 佐々木は水野を見て、一瞬だけ表情を緩めた。 佐々木「あ、新人くん。コーヒー?」 水野「あ、はい。佐々木さんも?」 佐々木「うん、ちょっと休憩」 佐々木は自分のマグカップにお湯を注ぎながら、水野を横目で見た。 佐々木「……どう? 初日の感想は」 水野「えっと……」 水野は正直に言うべきか迷った。しかし、佐々木の目には、少しだけ「聞いてもいいよ」という 空気があった。 水野「正直、びっくりしました。こんなに静かな職場、初めてで」 佐々木「そうよね。みんな、最初はそう言う」 水野「あの、隣の席の篠原さんって……」 佐々木「ああ、篠原さんね。篠原葵。うちの課のエースよ」 水野「エースって、さっき課長も言ってたんですけど……」 佐々木「仕事は完璧。ミスはゼロ。処理スピードは常人の三倍。上の連中も、あの人のことは 一目置いてる。でも……」 佐々木は、声をさらに潜めた。 佐々木「『氷の女』って呼ばれてるの。必要最低限のことしか喋らない。誰とも関わらない。挨 拶すら返さない。入ってきた時から、ずっとそう」 水野「氷の女……」 佐々木「まあ、気にしないことね。この課じゃ、深く関わらないのが一番の自衛だから」 水野「自衛……?」 佐々木「そう。関われば、面倒なことになる。巻き込まれる。だから、みんな、関わらない。そ れが、この課のルールよ」 佐々木は、コーヒーを持って足早に去っていく。 水野は、一人残された。 水野のモノローグ「氷の女……。篠原葵……。あの冷たい目の奥に、一体何があるんだろう。そ して、『関わらないのが自衛』って……それって、もう職場じゃなくて、戦場じゃないか」
〇税務課・フロア(午後) 午後の業務が始まった。 水野は、渡されたマニュアルを読みながら、データ入力の作業をしている。 しかし、マニュアルだけでは分からないことが次々と出てくる。 水野「あの、中村課長……」 中村は、奥の席で電話対応に追われていた。 中村「はい、申し訳ございません。直ちに確認いたしますので……はい、はい、ご不便をおか けして……」 しきりに頭を下げている。 とても声をかけられる雰囲気ではない。 水野は大塚の方を見た。 大塚は、スマホで何かを見ている。株価か、競馬の予想か。 水野「あの、大塚さん……」 大塚「ん?」 大塚は面倒くさそうに顔を上げた。 水野「ここの入力なんですが、どうすれば……」 大塚「マニュアルに書いてある」 水野「マニュアルを見たんですが、この場合の処理が……」 大塚「見りゃ分かる。ちゃんと読め」 大塚は、再びスマホに視線を戻した。 水野は、佐々木を見た。 佐々木は、ヘッドフォンをつけて、完全に自分の世界に入っていた。 水野は、途方に暮れた。 水野のモノローグ「誰も教えてくれない。誰も助けてくれない。これが、この職場の普通なの か。新人に対して、こんなに冷たいのか。……でも、怒りよりも、悲しさの方が大きい。みん な、こんなに孤独でいいのか?」 そして、最後の手段として、隣の篠原を見た。 篠原は相変わらず、ものすごいスピードで処理を進めている。 水野「あの、篠原さん……ここ、どうすればいいんでしょうか」 篠原の手が、ピタッと止まった。 篠原は、ゆっくりと水野の画面を覗き込んだ。 一秒、二秒。 篠原は、無言のまま水野のマウスを奪い、カチカチカチッと操作した。 あっという間に、問題の箇所が処理された。 篠原は、マウスを水野の手元に戻し、自分の作業に戻った。 水野「あ、ありがとうございます!」 篠原は、チラリとも見なかった。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん!?……いや、凄すぎるだろ。三秒で解決しちゃったぞ。 でも、一言くらい喋ってもバチは当たらないんじゃないか? 『どういたしまして』の一言が、 なぜ言えないんだ。……いや、言えないんじゃない。言わないんだ。この人は、意図的に言わな いことを選んでいる」
〇中村の回想シーン 数ヶ月前。 中村が税務課長に就任した日のことを、中村は今でも鮮明に覚えている。 中村は、辞令を受け取った時、正直嬉しかった。課長。ようやく課長になれた。これで、自分の やりたいことができる。 中村「よし、みんな! 私が新しく課長になりました中村です。コミュニケーションを大切にし て、明るい職場を作っていこう! 何でも相談してくれ!」 しかし、誰一人として反応しなかった。 篠原は無表情。佐々木は下を向く。大塚はあくびをしている。他の職員たちも、形式的な拍手 をして、すぐに作業に戻った。 中村「……あれ?」 中村は、その時の感覚を今でも忘れられない。 まるで、真空の中で喋っているような感覚。声が届いているのに、誰にも届いていない。 その後も、中村は何度も試みた。 朝礼で明るい話題を振ってみた。無反応。 誕生日の職員にケーキを買ってきた。「ありがとうございます」という言葉はあったが、誰も笑 わなかった。 飲み会を企画した。三人しか来なかった。 中村は、少しずつ疲弊していった。 中村のモノローグ「私の何が悪いんだろう。どうすれば、みんなが心を開いてくれるんだろ う。……でも、考えれば考えるほど、分からなくなる。そして、上からのプレッシャーは増す一 方で、家では妻と娘と上手くいかなくて……俺は、一体どこに逃げればいいんだ」
〇税務課・フロア(現在) 中村は、ため息をついた。 中村のモノローグ「どうしてこうなった……。昔はもっと、こう、活気があったはずなのに。い つからだ? いつからこの課は、こんなに冷え切ってしまったんだ? 私が来る前から、こうだっ たのか。それとも、私が来てから、さらに悪くなったのか」 中村は、スマホを見た。 妻からのLINE。 『今日の夕飯、いらないわよね?』 中村は、深くため息をついた。 中村のモノローグ「……帰りたくないな。でも、ここにもいたくない。俺は、どこにいればいい んだ。職場でも家でも、俺の居場所がない」
〇帰り道(夜) 定時を少し過ぎた頃、水野は退勤した。 夜の街を、一人で歩く。 水野のモノローグ「初日から疲れた……。仕事の内容より、あの空気に疲れた。挨拶がない。 雑談がない。ただ、機械のように作業をこなすだけ。これが、俺の思い描いていた社会人生活な のか? こんなはずじゃなかった。もっと、人と関わって、笑って、時には喧嘩して、それでも一 緒に仕事をして……そういうのを、俺は想像していた」 水野は、コンビニに寄ってビールを買おうかと思った。 その時、前方を歩く見覚えのある後ろ姿に気づいた。 篠原だ。 黒いコートを着て、まっすぐに前を向いて歩いている。その背中は、どこか孤独を纏っているよ うに見えた。 水野「あ、篠原さん!」 篠原は立ち止まった。 ゆっくりと振り返る。 街灯の光に照らされたその顔は、やはり無表情だった。 水野「お疲れ様です。あの、今日はありがとうございました。午後の入力の件」 篠原「……」 篠原は無言のまま、再び歩き出した。 水野「えっ、ちょっと待って……」 水野は小走りで追いかけた。 水野「あのさ、なんで喋らないの? 挨拶くらい、してもいいじゃん」 篠原は、ピタッと足を止めた。 ゆっくりと水野を振り返る。 その瞳の奥に、一瞬だけ、鋭い光が宿った。 篠原「……意味がないからです」 水野「え?」 篠原「挨拶をして、何が変わりますか? 雑談をして、仕事の効率が上がりますか? 感情は、こ の職場ではノイズでしかありません」 篠原の声は、低く、静かで、しかし確固たる意志を持っていた。 水野「そんな……そんなことないだろ。挨拶は、人と人がつながるための……」 篠原「つながって、何になりますか?」 水野「え?」 篠原「つながれば、傷つく。期待すれば、裏切られる。優しくすれば、搾取される。私はそれ を学びました。だから、つながらない。それだけです」 篠原の言葉は、まるで長い時間をかけて研ぎ澄まされた刃のように、鋭く、そして冷たかっ た。 水野は、言葉を失った。 篠原は背を向けて歩き去る。 その背中は、やはり孤独だった。 しかし今度は、その孤独が、自ら選んだものだということが分かった。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん……。その冷たさの奥に、一体何を隠しているんだ? 傷 ついた、って言った。搾取された、って言った。……あんたは、誰かに傷つけられたのか? そ して、その傷が、まだ癒えていないのか?」 夜風が吹いた。 桜の花びらが、二人の間を舞い、そして消えていった。
〇水野の部屋(夜) 水野は、アパートの自室に帰り着いた。 ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。 水野のモノローグ「変な職場だ。変な人がいる。でも……なんで俺、あんなに気になるんだろ う。篠原さんのこと。あの目が、頭から離れない。冷たいのに、どこか叫んでいるような目。助 けを求めているような目」 水野は、スマホを取り出し、大学時代の友人にLINEを送った。 水野「職場に、すごい人がいた。仕事は完璧なのに、全く喋らない。氷みたいに冷たいのに、な んか目が離せない。なんでだろ」 しばらくして、返信が来た。 友人「それ、絶対好きになるやつじゃん笑」 水野は、スマホを置いた。 水野のモノローグ「……違う。そういうんじゃない。ただ、気になるだけだ。あの目の奥に、何 があるのか。あの冷たさの向こうに、何があるのか。……俺は、それを知りたい」 水野は目を閉じた。 瞼の裏に、篠原の瞳が浮かんだ。 深く、冷たく、そしてどこか、助けを求めているような瞳が。 水野のモノローグ「明日も、挨拶しよう。返ってこなくても、する。それだけは、やめない」
〇市役所・三階・税務課・フロア(朝・続き) 水野は、自分のデスクに着いてから、改めてフロア全体を観察した。 窓際の列に五席、中央の列に六席、奥の列に四席。合計十五席のうち、今日出勤しているのは 十二人。 それだけの人間が同じ空間にいるのに、なぜこんなにも静かなのか。 水野は、大学時代のゼミを思い出した。あの時は、十人もいれば必ず誰かが喋っていた。教授の 話が終わる前から議論が始まって、時には怒鳴り合いになって、それでも笑って帰っていた。 あれが普通だと思っていた。 しかし、ここでは違う。 誰かが電話を切れば、次の電話が鳴るまでの数秒間、完全な無音が訪れる。その無音が、水野 には怖かった。 水野のモノローグ「音がないって、こんなに怖いものなのか。音がないってことは、存在がない ってことだ。みんな、ここにいるのに、誰もここにいない。……これは、職場じゃない。これ は、人間の抜け殻が集まった場所だ」 水野は、もう一度、隣の篠原を見た。 篠原の指が、キーボードの上を滑る。 カタカタターン。カタカタターン。 そのリズムは、まるで呼吸のように規則正しかった。一秒も乱れない。疲れを知らない機械の ように、ただ正確に、ただ速く。 水野は、その指を見つめながら思った。 水野のモノローグ「この人は、何を考えながら打ってるんだろう。何も考えていないのか。それ とも、何かを考えすぎているのか。……あの目が、気になる。あの目の奥に、何かがある。俺に は、そう見える」
〇市役所・三階・廊下(昼休み・直前) 水野は、トイレに向かう途中、廊下で中村課長とすれ違った。 中村は、スマホを見ながら歩いていた。 その顔は、ひどく疲れていた。 水野「課長、お疲れ様です」 中村「ああ、水野くん。……うん、お疲れ様」 中村は立ち止まり、水野を見た。 中村「どうだ、初日は。慣れたか?」 水野「はい、まあ……」 水野は、正直に言いたかった。「全然慣れません」と。「あの静けさが怖いです」と。「篠原さん って、一体何者なんですか」と。 しかし、中村の顔を見ると、言えなかった。 この人も、十分に疲れている。これ以上、心配をかけることはできない。 水野「少しずつ、慣れていきます」 中村「そうか。……無理するなよ」 中村は、また歩き出した。 その背中を見ながら、水野は思った。 水野のモノローグ「課長も、孤独だ。上からも押しつぶされて、下からも距離を置かれて、どこ にも逃げ場がない。……この職場には、孤独な人間しかいない。みんな、それぞれの孤独の中 で、息をひそめて生きている」
〇市役所・三階・税務課・フロア(午後・続き) 午後の業務が本格化した。 水野は、マニュアルと格闘しながら、住民税のデータ入力を続けていた。 大学で情報系の学部にいたとはいえ、実務は全く別物だった。システムの操作方法が複雑で、マ ニュアルを読んでも理解できない箇所が次々と出てくる。 水野のモノローグ「なんでこんなに分かりにくいんだ。このシステム、誰が設計したんだ よ。……でも、文句を言っても始まらない。分からなければ、聞くしかない。でも、誰に聞けば いいんだ」 水野は、フロアを見渡した。 中村課長は、また電話対応に追われている。 大塚は、スマホを見ながら鼻をほじっている。 佐々木は、ヘッドフォンをつけて完全に自分の世界に入っている。 他の職員たちは、それぞれの作業に没頭していて、声をかけられる雰囲気ではない。 水野は、最後の手段として、隣の篠原を見た。 篠原は、相変わらずの速度で処理を進めている。 水野「……あの、篠原さん」 篠原の手が、ピタッと止まった。 水野「この、住民税の控除額の計算なんですが、マニュアルのどこを見ればいいか……」 篠原は、無言のまま立ち上がり、水野のデスクに来た。 水野の画面を一瞥する。 一秒、二秒。 篠原は、水野のマニュアルを取り上げ、ページを素早くめくり、ある箇所を指差した。 そこには、水野が探していた計算方法が、丁寧に図解されていた。 水野「あ! ここか! ありがとうございます!」 篠原は、マニュアルを水野の手元に置き、自分の席に戻った。 一言も喋らなかった。 水野のモノローグ「……この人、優しいのか、優しくないのか、どっちなんだ。助けてくれるの に、一言も喋らない。温かいのか、冷たいのか、分からない。……でも、確かに助けてくれた。 それは、本当のことだ」 水野は、篠原の背中を見ながら、もう一度思った。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん……。あんたは、一体何者なんだ」
〇市役所・一階・ロビー(夕方) 定時になり、水野は退勤の準備をした。 フロアの職員たちは、定時になった瞬間、まるで呪いが解けたように立ち上がり、次々と帰って いった。 誰も「お疲れ様」と言わなかった。 誰も「また明日」と言わなかった。 ただ、静かに、それぞれが消えていった。 水野は、最後に一度だけフロアを振り返った。 残っているのは、中村課長と篠原だけだった。 中村は、山積みの書類と格闘している。 篠原は、相変わらずタイピングを続けている。 水野のモノローグ「……残業か。二人とも。でも、誰も声をかけない。誰も『手伝おうか』と 言わない。……これが、この職場の普通なのか。一人一人が孤島で、誰も橋を渡ろうとしない」 水野は、エレベーターに乗り込んだ。 ドアが閉まる直前、水野は振り返った。 フロアの奥に、篠原の後ろ姿が見えた。 その背中は、孤独だった。 しかし、その孤独は、誰かに強いられたものではなく、自ら選んだものだということが、何と なく分かった。 水野のモノローグ「なぜ、選んだんだ。なぜ、孤独を選んだんだ。……俺には、まだ分からな い。でも、いつか分かりたい。あんたのことを、もっと知りたい」 ドアが閉まった。
〇水野の部屋(夜・続き) 水野は、アパートに帰り、シャワーを浴びた。 湯気の中で、今日一日を振り返る。 篠原の冷たい目。しかし、確かに助けてくれた手。 中村課長の疲れた背中。 佐々木の「関わらないのが自衛」という言葉。 大塚の「見りゃ分かる」という一言。 水野のモノローグ「みんな、何かを諦めている。何かを失っている。……でも、最初からそうだ ったわけじゃないはずだ。誰だって、最初は希望を持って入ってきたはずだ。それが、いつの間 にか、こうなってしまった。……なぜだ。何が、この職場をこんなにしてしまったんだ」 水野は、シャワーを止めた。 鏡に映る自分の顔を見た。 まだ、若い顔だ。まだ、諦めていない顔だ。 水野「……俺は、こうはならない。絶対に」 水野は、自分に言い聞かせた。 水野のモノローグ「俺は、この職場を変えたい。大げさかもしれないけど、そう思う。挨拶が返 ってくる職場にしたい。雑談がある職場にしたい。笑い声がある職場にしたい。……そのために は、まず俺が変わらなければいけない。俺が、諦めないことが、最初の一歩だ」 水野は、ベッドに横になった。 天井を見つめる。 水野のモノローグ「篠原さん。あんたは、なぜ孤独を選んだんだ。……いつか、教えてくれる か。いつか、俺に話してくれるか。……俺は、待つ。どんなに時間がかかっても、待つ」 水野は目を閉じた。 部屋の外から、夜の街の音が聞こえてくる。 車の音。遠くで笑う声。風の音。 水野のモノローグ「明日も、挨拶しよう。返ってこなくても、する。それだけは、やめない。そ れが、俺にできる唯一のことだから」
〇中村の家(夜) 中村誠は、午後十時過ぎに帰宅した。 玄関を開けると、家の中は静かだった。 リビングに明かりがついていたが、妻の姿はなかった。 テーブルの上に、ラップをかけた夕飯が置いてあった。 付箋に、一言。 『冷蔵庫に入れておいて』 中村は、ため息をついた。 以前は、帰ると妻が「おかえり」と言ってくれた。娘が「パパ!」と駆け寄ってきた。 それが、いつの間にか、なくなっていた。 仕事が忙しくなって、帰りが遅くなって、休日も仕事のことを考えていて。 気づいた時には、妻とは必要最低限の会話しかなくなっていた。娘は、中村が帰ってきても、自 分の部屋から出てこなくなっていた。 中村のモノローグ「職場でも、家でも……俺は、どこに行けばいいんだ。どこにも、俺の居場所 がない」 中村は、冷蔵庫に夕飯を入れながら、ビールを一本取り出した。 リビングのソファに座り、一人でビールを飲む。 テレビをつけたが、何も頭に入ってこなかった。 中村のモノローグ「職場の若手は、なぜ心を開いてくれないんだろう。篠原くんは、なぜあんな に冷たいんだろう。水野くんは、あの明るさをいつまで保てるんだろう。……俺は、あの子たち に何をしてあげられるんだろう」 中村は、ビールを一口飲んだ。 中村のモノローグ「俺が、課長として、もっとちゃんとしなければいけない。でも、どうすれば 『ちゃんと』できるのか、分からない。……分からないまま、時間だけが過ぎていく」 二階から、娘の部屋の電気が消えた。 中村は、その光が消えるのを見ながら、静かにビールを飲み続けた。
〇佐々木の部屋(夜) 佐々木莉緒は、アパートに帰り、バスタブに浸かりながら、ため息をついた。 今日も、疲れた。 仕事の疲れではない。あの空気の疲れだ。 誰とも喋らない。誰とも笑わない。誰とも怒らない。 ただ、黙って、処理をこなして、定時になったら帰る。 それが、今の自分の毎日だ。 佐々木のモノローグ「昔は、こんなじゃなかった。入庁した時は、もっと……もっと、仕事が 楽しかった。市民の役に立てることが嬉しかった。同僚と笑い合えることが嬉しかった。それ が、いつの間にか……」 佐々木は、バスタブの縁を指でなぞった。 佐々木のモノローグ「篠原さんのことを思い出す。あの子が福祉課で倒れた時、私は何もできな かった。見ていたのに、何もできなかった。あの子が少しずつ追い詰められていくのを、見てい たのに。……私も、あの子と同じだ。誰かを傷つけることが怖くて、誰かに傷つけられることが 怖くて、だから何もしない。何もしないことで、自分を守っている」 佐々木は、目を閉じた。 佐々木のモノローグ「今日、新人の水野くんが来た。あの子は、まだ諦めていない。あの目 は、まだ死んでいない。……羨ましい。あの目が、羨ましい。でも、あの子も、いずれこの職場 に飲み込まれていくんだろうか。……そうなってほしくない。でも、私には何もできない」 佐々木は、バスタブから出た。 鏡に映る自分の顔を見た。 疲れた顔だった。 佐々木のモノローグ「……私は、いつから、こんな顔になったんだろう」 (第1話 終わり) 第2話「氷の境界線」
〇市役所・税務課・フロア(朝) 配属されて一週間が経った。 水野は自分の席につき、小さくため息をついた。 水野のモノローグ「この異常な静けさにも、少しずつ慣れてきてしまった自分が怖い。最初は毎 朝元気よく挨拶していたけど、今は少しトーンが落ちてきた。これが、この職場の空気に飲み込 まれていくということか。……でも、まだ諦めない。まだ、挨拶をやめない」 隣の篠原は、今日も完璧な姿勢でモニターに向かっている。 カタカタターン。 そのタイピング音だけが、彼女が生きている証のようだった。 水野「……おはようございます」 篠原「……」 無反応。 水野のモノローグ「まあ、そうだよな。でも、俺はまだ挨拶をやめない。意地でも。……この 挨拶が、いつか届くと信じて」
〇税務課・フロア(数日後・午後) 税務処理の繁忙期が本格化していた。 住民税の確定作業が始まり、フロア全体に緊張感が漂っている。 山積みになった書類。鳴りやまない電話。次々と届くメール。 しかし、誰も声を荒げることはない。ただ黙々と、機械のように処理をこなしている。 水野は、焦りながらデータを入力していた。 水野のモノローグ「やばい、これ今日のノルマ終わらないぞ……。でも、誰に相談すればいい んだ。課長は電話対応で手が離せないし、大塚さんは話しかけても無視するし……」 その時、水野のパソコン画面にエラーメッセージが表示された。 『致命的なエラー:データが不整合です。処理を中断します』 水野「えっ……?」 血の気が引いた。 水野「あ、あの……佐々木さん」 佐々木が、面倒くさそうに振り向いた。 佐々木「何?」 水野「なんか、エラーが出ちゃって……これ、どうすれば」 佐々木は画面を見た。 一瞬、顔をしかめた。 佐々木「これ、最初の設定から間違ってるじゃない。……もう、リカバリーにどれだけ時間かか ると思ってんの」 水野「す、すみません!」 佐々木「謝っても直らないわよ」 佐々木は、ため息をついて自分の席に戻った。 水野「え? あの、佐々木さん?」 佐々木「私、自分の分で手一杯だから。中村課長に言って」 水野は青ざめた。 中村課長は、奥の席で電話対応に追われている。 中村「はい、申し訳ございません。直ちに確認いたしますので……はい、はい……」 とても声をかけられる雰囲気ではない。 水野は途方に暮れた。 水野のモノローグ「どうしよう……。誰に聞けばいいんだ。このまま放置したら、もっと大変 なことになる。でも……誰も助けてくれない。誰も、俺を見ていない。俺は、この職場で透明 人間なのか?」 その時。 スッ、と横から手が伸びてきた。 篠原だ。 彼女は無言のまま、水野のキーボードを操作し始めた。 目にも留まらぬ速さでコマンドを打ち込み、エラーを解除していく。 水野「し、篠原さん……」 篠原「……」 篠原の指が、まるでピアニストのように滑らかに動く。 一分、二分、三分。 エラーは完全に解消され、正しいデータが復元された。 篠原は、無言で自分の席に戻った。 水野「あ、ありがとうございます……本当に助かりました」 篠原は、チラリとも見なかった。 水野のモノローグ「怒られない。叱られない。ただ、無言で尻拭いをされる。……これ、怒ら れるよりキツいぞ。怒られたら、少なくとも相手が自分を見てくれているということだ。でも、 これは……まるで、俺が空気みたいだ。いや、空気よりも薄い。俺の存在が、この人の世界に入 っていない」 水野は「怒られないことの恐怖」を、肌で感じていた。
〇給湯室(夕方) 夕方、水野はコーヒーを飲んで一息ついていた。 そこへ、中村課長が入ってきた。 顔色が悪い。目の下のクマが、先週より濃くなっている。 水野「あ、課長。お疲れ様です」 中村「ああ、水野くん。お疲れ様。……慣れたかい?」 水野「はい、まあ……なんとか」 中村は、コーヒーを淹れながら苦笑した。 中村「息が詰まるだろう? この課は」 水野「えっ、いや、そんなことは……」 中村「いいんだ。私だってそう思ってる。みんな、心を閉ざしてしまっているんだ。ミスを恐れ て、責任を押し付け合って、結局、誰も何もしなくなる」 中村は、コーヒーカップを見つめた。 中村「私はね、もっと風通しのいい職場にしたいんだ。でも、どうすればいいか分からない。 空回りするばかりで……」 水野「課長は、ちゃんとみんなのことを考えてるじゃないですか」 中村「考えるだけじゃ、何も変わらないよ」 中村は、ため息をついた。 中村「水野くん、君はまだ染まっていない。その目で、この課を見てくれ。私には見えなくなっ てしまったものが、君には見えるかもしれない」 水野「……はい」 中村の背中が、ひどく小さく見えた。 水野のモノローグ「課長も、苦しんでいる。みんな、それぞれに苦しんでいる。でも、誰もそれ を言えない。言い合えない。だから、どんどん孤独になっていく。……この職場は、一人一人が 孤島みたいだ。すぐそこに人がいるのに、誰も橋を渡ろうとしない」
〇税務課・フロア(夜) 残業時間。 フロアには、水野と篠原しか残っていなかった。 他の職員は、定時になると一斉に帰っていった。中村課長だけが、「先に帰っていいよ」と言い ながら、一人で残っていたが、それも少し前に「体調が悪い」と言って帰っていった。 静かなフロアに、二人のタイピング音だけが響いている。 水野は、何度か篠原を見た。 篠原は、まるで水野の存在を認識していないかのように、ただ作業を続けている。 水野「……篠原さん」 篠原のタイピングが止まった。 水野「今日の昼間は、本当にありがとうございました」 篠原「……自分の仕事が終わらないと困るからです」 水野「え?」 篠原「あなたのミスが放置されれば、最終的なチェックを行う私の業務に支障が出ます。だから 修正しただけです。感謝される筋合いはありません」 冷徹な言葉。 しかし、水野は引き下がらなかった。 水野「でも、助けてくれたのは事実です。だから、お礼を言わせてください」 篠原は、ようやく手を止めた。 水野を見る。 篠原「……あなたは、不思議な人ですね」 水野「え?」 篠原「この職場の空気に、まだ染まっていない。挨拶をして、お礼を言って、話しかけてく る。……普通のことのように聞こえますが、ここでは異常なことです」 水野「そんなの、異常じゃないだろ。普通のことだ」 篠原「普通?」 篠原は、少し首を傾げた。 篠原「この職場では、それが普通ではありません。そして、あなたもいずれ気づきます。感情を 出すことは、ここでは損だと。挨拶をすれば、返ってこないことで傷つく。お礼を言えば、次も 期待されて負担になる。話しかければ、断られて恥をかく。だから、みんな何もしなくなる。 それが、この職場の均衡です」 水野「均衡……そんなの、均衡じゃない。崩壊だ」 篠原の瞳が、わずかに揺れた。 篠原「……あなたも、いずれそれを選びます。でも、それも時間の問題です。いずれあなたも、 何も感じなくなり、何も言わなくなる」 水野「そんなこと……!」 水野は、思わず声を荒げた。 フロアに、水野の声が響いた。 篠原は、少し驚いたように目を見開いた。 水野「俺は、そうはならない。なりたくない」 篠原「……」 水野「篠原さんは、なんでそんなに諦めてるんですか?」 篠原の表情が、一瞬だけ揺れた。 しかし、すぐに元の無表情に戻る。 篠原「期待しないでください。私も、他人も。……これ以上、私に関わらないで」 篠原は再び画面に向き直った。 その横顔は、まるで石のように硬かった。 しかし、水野は気づいていた。 篠原の手が、ほんの少しだけ震えていることに。 水野のモノローグ「期待するな、か。……でも、俺はあんたが気になるんだよ。篠原さん。あ んたの手が震えていた。あんたは、感情を殺せていない。まだ、何かを感じている。……あんた は、嘘をついている。自分自身に」
〇水野の部屋(夜) 水野は、アパートに帰り着いた。 シャワーを浴びながら、今日のことを思い返す。 水野のモノローグ「氷の境界線。篠原さんの周りには、目に見えない境界線が引かれている。 近づこうとすると、跳ね返される。でも……あの手の震えは何だ?」 水野は、シャワーを止めた。 水野のモノローグ「諦めてるように見えて、諦めきれていない。冷たいように見えて、まだ温か さを求めている。そんな気がする。……俺の思い込みかもしれないけど。でも、あの震えは、俺 の思い込みじゃない。あれは、本物だった」 水野は、タオルで髪を拭きながら、窓の外を見た。 夜の街に、無数の灯りがある。 水野のモノローグ「あの灯りの一つ一つに、それぞれの人生がある。篠原さんの灯りは、どこ にあるんだろう。……そして、その灯りは、まだ消えていないはずだ」
〇翌朝・税務課・フロア 水野は、いつも通り元気よく挨拶した。 水野「おはようございます!」 相変わらず、返事はない。 しかし、水野は気づいた。 篠原が、ほんの一瞬だけ、水野の方を見たことに。 視線が合う。 篠原は、すぐに目を逸らした。 しかし、確かに見た。 水野のモノローグ「……見てくれた。それだけで、今日は十分だ。あんたは、俺のことを見てく れている。無視しているように見えて、ちゃんと見てくれている」 水野は、自分の席に着いた。 隣のタイピング音が、今日は少しだけ、柔らかく聞こえた気がした。 (第2話 終わり) 第3話「消えた相談」
〇市役所・税務課・フロア(朝) ピリピリとした空気が漂っていた。 住民税の決定通知書が発送される時期が近づき、課全体が殺気立っていた。 水野は、山積みの書類と格闘しながら、周囲を観察していた。 水野のモノローグ「忙しい。とにかく忙しい。でも、この職場の一番の異常さは、忙しさじゃ ない。忙しい時こそ、普通の職場なら声を掛け合うはずだ。『手伝おうか?』『これ、どうすれ ばいい?』そういう言葉が飛び交うはずだ。でも、ここでは……」 水野は周囲を見渡した。 誰も、誰とも言葉を交わさない。 疑問があっても、自己判断で処理を進めている。 隣の席では、篠原が相変わらずの速度で処理を進めていた。 水野のモノローグ「『相談の消失』。これが、この課の本当の病巣だ。誰も相談しない。誰も助 けを求めない。だから、小さなミスが積み重なり、いつか大きな問題になる。そして、その問題 が表面化した時、誰も責任を取りたくないから、また誰も相談しない。負のスパイラルだ」
〇大塚の席(数日前・回想) ベテランの大塚が、舌打ちをしながら書類をめくっていた。 大塚「ちっ、最近のシステムは分かりにくくてしょうがねえな。なんでこんな入力方法に変えた んだ。前のやり方の方がよっぽど分かりやすかった」 大塚は、マニュアルを開いた。 しかし、老眼のせいか、小さな文字を読むのが面倒だった。 大塚「……まあ、だいたい分かるだろ。長年やってきたんだ、俺は」 大塚は、適当に数字を入力し、エンターキーを叩いた。 その様子を、佐々木が横目で見ていた。 佐々木のモノローグ「……あれ、入力方法が違う気がするけど」 しかし、佐々木は何も言わなかった。 佐々木のモノローグ「大塚さんに指摘したら、また面倒なことになる。『若造が口を出すな』っ て怒鳴られるだけだ。どうせ、後でシステムが弾いてくれるだろう」 しかし、システムは弾かなかった。 大塚の入力ミスは、静かに、着実に積み重なっていった。
〇税務課・フロア(現在) 電話が鳴り響いた。 佐々木「はい、税務課です。……え? 通知書の金額が違う? はい、確認いたします……」 佐々木の顔色が変わった。 中村課長「こちらでも電話です! ……はい、申し訳ございません。直ちに確認を……」 次々と入るクレームの電話。 フロアはパニック状態に陥った。 水野「どうなってるんですか!?」 佐々木「大塚さんの入力ミスよ! 特定の地区の控除額が全部間違って計算されてる!」 大塚の顔が青ざめた。 大塚「お、俺のせいじゃないぞ! システムの不具合だ!」 佐々木「システムのせいにしないでください! 入力方法が変わったって、先週の朝礼で説明し たじゃないですか!」 大塚「そんなこと聞いてない!」 佐々木「聞いてなかったんですか!?」 中村が電話を切り、二人の間に割って入った。 中村「ちょっと、ちょっと! 今は原因究明より、対応が先だ! 対象者をリストアップして、正 しい通知書を再発行しなければ……! 一体何件あるんだ!?」 佐々木「ざっと見積もって、五百件はあります……」 中村「五百件……! 発送は明日だぞ! 間に合うわけがない……!」 絶望的な空気がフロアを包んだ。 誰もが「終わった」と思った。 その時。 「……三百二十件です」 静かな声が、フロアに響いた。 全員の視線が、声の主――篠原に集まった。 篠原は立ち上がり、一枚のリストを中村に差し出した。 篠原「大塚さんの入力パターンのエラーを分析し、影響を受ける対象者を特定しました。正確 には三百二十件。すでに修正データの作成は完了しています。あとは印刷して封入するだけで す」 フロアが、静まり返った。 中村「し、篠原くん……君、これをいつの間に……?」 篠原「異変に気づいたのは二日前です。大塚さんの処理速度が不自然に上がっていたため、ログ を確認しました。入力方法の誤りを発見し、影響範囲の特定と修正データの作成を並行して進 めていました」 大塚「な、なんだと!? お前、俺を監視してたのか!」 篠原は、大塚を冷たく見据えた。 篠原「監視ではありません。リスク管理です。あなたがマニュアルを無視して独自の処理を行っ ていることは、以前から把握していました」 大塚「お、お前……気づいてたなら、なんでその時に言わなかったんだ!」 篠原「言っても、あなたは聞き入れないでしょう? 過去に二度、同様の指摘をしましたが、い ずれも『若造が口を出すな』と一蹴されました。だから、事後処理の準備をしておいただけで す」 大塚は、言葉に詰まった。 確かに、篠原の言う通りだった。 大塚のモノローグ「……俺が、悪かったのか。でも、認めたくない。認めたら、負けだ。で も……認めなかったら、もっと負けだ」 篠原「……感情論は後回しにしてください。今は、物理的な作業を終わらせることが最優先で す。皆さん、封入作業を手伝ってください。私が手順を説明します」 篠原の冷徹だが的確な指示に、誰も逆らうことはできなかった。 〇作業室(夜) 全員で黙々と封入作業を行っていた。 通知書を折り、封筒に入れ、のり付けをする。単純作業だが、三百二十件は膨大な量だった。 水野は、篠原の隣で作業をしながら、彼女の横顔を見つめた。 篠原は、作業しながらも、全体の進捗を常に把握していた。 篠原「佐々木さん、そちらのペースで大丈夫です。大塚さん、封筒の向きが逆になっています」 大塚「……分かった」 大塚が、珍しく素直に従った。 水野のモノローグ「この人は、全部一人で背負い込もうとしている。誰にも相談せず、誰にも期 待せず、全部自分で解決しようとする。それが、この職場での彼女の生き方なんだ。……でも、 それは正しいのか? 一人で全部できるとしても、一人でやる必要があるのか?」 水野「篠原さん」 篠原は手を止めずに応えた。 篠原「何ですか」 水野「二日前に気づいてたなら、俺に言ってくれればよかったのに。手伝えたかもしれない」 篠原「……あなたには無理です」 水野「やってみないと分からないだろ!」 水野の声が、静かな作業室に響いた。 全員の手が止まった。 篠原は、初めて作業の手を止め、水野を真っ直ぐに見た。 篠原「……足手まといになるだけです」 その瞳には、かすかな苛立ちが混じっていた。 水野「足手まといでもいい。一人で全部抱え込むなよ。ここは『チーム』だろ?」 篠原「チーム……?」 篠原が、自嘲するように鼻で笑った。 篠原「そんなもの、ここには存在しません。あるのは、個人の責任と保身だけです。チームとい うのは、互いに信頼し合い、助け合える関係があって初めて成立するものです。この職場に、そ んなものはありません」 水野「じゃあ、作ればいい!」 篠原「……」 篠原は、水野を見つめた。 その瞳に、何かが揺れた。 しかし、すぐに消えた。 篠原「……作れると思いますか? この職場で?」 水野「思う」 篠原「根拠は?」 水野「俺が、ここにいるから」 篠原「……」 篠原は、しばらく水野を見つめた後、再び作業に戻った。 しかし、その横顔には、先ほどまでとは少し違う表情があった。 怒りでも、軽蔑でもない。 困惑、だった。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん……。あんたは、何をそんなに諦めているんだ? でも、 今、確かに揺れた。あんたの目が、揺れた。……俺の言葉が、届いた。届いたはずだ」 〇作業室(深夜) 午前一時。 全ての封入作業が完了した。 中村「終わった……! みんな、本当にありがとう。篠原くん、特に……本当に助かった」 篠原「……仕事ですから」 中村「いや、でも……ありがとう」 篠原は、中村の目を見た。 中村の目には、疲労と感謝が混じっていた。 篠原「……お疲れ様でした」 それだけ言って、篠原はコートを手に取った。 水野「篠原さん、帰り道、同じ方向じゃないですか? 一緒に……」 篠原「結構です」 篠原は、足早に作業室を出ていった。 水野は、その背中を見送った。 水野のモノローグ「今日、初めて篠原さんの声を、ちゃんと聞いた気がする。仕事の指示じゃ なくて、感情のある声を。『お疲れ様でした』の一言に、確かに温度があった。……あんたは、 まだ生きてる。まだ、感じてる」 大塚が、水野の隣に来た。 大塚「……水野」 水野「はい?」 大塚「お前、なんで篠原に絡むんだ。あいつは、ああいう奴なんだよ。放っておけ」 水野「放っておけないんです」 大塚「なんでだ」 水野「……分からないけど、放っておけない。それだけです」 大塚は、しばらく水野を見た後、ため息をついた。 大塚「……馬鹿なやつだな」 しかし、その言葉には、不思議と温かみがあった。
〇帰り道(深夜) 水野は、一人で夜道を歩いていた。 空には、星が出ていた。 水野のモノローグ「今日、この職場で初めて、みんなが同じ方向を向いた。篠原さんの指示で、 全員が動いた。バラバラだったものが、一瞬だけ、つながった。……あれが、チームの可能性 だ。あの一瞬に、この職場の本来の姿があった」 水野は、空を見上げた。 水野のモノローグ「篠原さん。あんたは、一人で全部できる。でも、一人でやる必要はな い。……俺が、あんたの隣にいる。それだけは、覚えておいてくれ。絶対に、覚えておいてく れ」
〇市役所・税務課・フロア(配属から三日後・朝) 三日目の朝。 水野は、また元気よく挨拶した。 水野「おはようございます!」 返事は、なかった。 しかし、水野は気づいていた。 昨日より、少しだけ、反応が変わっていることに。 大塚が、新聞から目を離した。一秒だけ。 佐々木が、ヘッドフォンを片耳だけ外した。一瞬だけ。 そして、篠原が。 篠原は、水野の挨拶の直後、タイピングのリズムが一瞬だけ乱れた。 ほんの一瞬。コンマ数秒。 しかし、水野には分かった。 水野のモノローグ「聞こえてる。ちゃんと聞こえてる。ただ、返せないだけだ。……いや、返し 方を忘れているのかもしれない。挨拶を返すということが、この職場では異常なことになってし まっているから。……でも、いつか返してくれる。俺は、そう信じている」 水野は、自分の席に着いた。 隣のタイピング音が、今日は少しだけ、柔らかく聞こえた気がした。
〇市役所・税務課・フロア(配属から五日後・午後) 五日目の午後。 水野は、ようやく基本的なデータ入力に慣れてきた。 しかし、今度は別の問題が出てきた。 市民からの問い合わせ電話の対応だ。 水野「はい、税務課でございます。……はい、住民税の通知書についてのご質問ですね。少々お 待ちください」 水野は、マニュアルを必死でめくった。 しかし、市民の質問は、マニュアルに書いていない複雑なケースだった。 水野「えっと、その場合は……少々お待ちください」 水野は、周囲を見渡した。 誰も、水野を見ていない。 水野「あの、佐々木さん……」 佐々木は、ヘッドフォンをつけていて聞こえない。 水野「大塚さん……」 大塚は、電話中だ。 水野は焦った。 電話口の市民が、「まだですか?」と言っている。 その時、篠原が静かに立ち上がり、水野の隣に来た。 篠原は、水野のメモ帳にサラサラと何かを書いた。 そこには、その質問への回答が、箇条書きで簡潔に書かれていた。 水野は、それを読みながら市民に説明した。 市民「ああ、そういうことですか。分かりました。ありがとうございます」 電話が切れた。 水野「篠原さん、ありがとうございます! 助かりました!」 篠原は、無言で自分の席に戻った。 水野のモノローグ「また助けてもらった。でも、一言も喋らない。……この人は、なぜ助けるん だろう。助けないことだってできるのに。なぜ、わざわざ立ち上がって、メモを書いてくれるん だろう。……もしかして、この人の中には、まだ『助けたい』という気持ちが残っているんじゃ ないか?」 水野は、篠原の後ろ姿を見ながら、そう思った。
〇市役所・屋上(昼休み) 水野は、昼休みに屋上に上がった。 弁当を持って、一人で空を見上げた。 春の空は、青く、高かった。 水野のモノローグ「一週間か。……まだ一週間しか経っていないのに、なんか疲れた気がする。 でも、仕事の疲れじゃない。あの空気の疲れだ。誰とも喋らない。誰とも笑わない。ただ、機械 のように処理をこなす。……それが、どれだけ人間を消耗させるか、俺は今、肌で感じている」 水野は、弁当の蓋を開けた。 母親が作ってくれたおにぎりが入っていた。 水野のモノローグ「……お母さん、元気かな。実家に帰りたいな。でも、帰ったら負けた気が する。……いや、負けとか勝ちとかじゃない。俺は、この職場で何かを変えたいんだ。変えら れるかどうか分からないけど、諦めたくない」 水野は、おにぎりを頬張りながら、空を見上げた。 その時、屋上のドアが開いた。 振り返ると、篠原が立っていた。 篠原は、水野を見て、少し驚いたような顔をした。 篠原「……ここに来る人がいるとは思いませんでした」 水野「あ、篠原さんも屋上に来るんですか?」 篠原「……たまに。静かなので」 水野「一緒に食べませんか?」 篠原は、少し間を置いた。 篠原「……結構です」 篠原は、水野から少し離れた場所に座り、コンビニのサンドイッチを取り出した。 水野のモノローグ「断られた。でも、帰らなかった。同じ屋上にいる。……これは、前進だ。 わずかだけど、前進だ」 二人は、無言のまま、それぞれの昼食を食べた。 しかし、その無言は、以前の「拒絶の無言」とは少し違った。 少なくとも、水野にはそう感じられた。 水野「……いい天気ですね」 篠原「……ええ」 それだけだった。 しかし、水野は嬉しかった。 水野のモノローグ「返事が来た。たった一言だけど、返事が来た。……あんたは、少しずつ、扉 を開いてくれている。俺には、そう見える」 〇中村の回想(詳細版) 中村誠が税務課長に就任したのは、半年前のことだった。 前の課長が、突然の病気で休職し、急遽後任として中村が指名された。 中村は、当時、市民課の係長だった。市民課では、部下との関係も良好で、笑い声が絶えない 職場を作ることができていた。 だから、自信があった。 どんな職場でも、自分なら変えられると。 しかし、税務課は違った。 就任初日から、異様な静けさに圧倒された。 中村「みんな、よろしくお願いします! 私は、コミュニケーションを大切にしたいと思ってい ます。何でも相談してください!」 返事は、なかった。 中村は、翌日から積極的に声をかけた。 中村「大塚さん、昨日の件、どうでしたか?」 大塚「問題ありません」 中村「佐々木さん、最近、忙しそうですね。大丈夫ですか?」 佐々木「大丈夫です」 中村「篠原さん、何か困ったことはありますか?」 篠原「……ありません」 全員が、最小限の言葉で答えた。 それ以上は、何も言わなかった。 中村のモノローグ「なぜだ。なぜ、誰も心を開いてくれないんだ。私の何が悪いんだ。……で も、考えれば考えるほど、分からなくなる。そして、上からのプレッシャーは増す一方で、家で は妻と娘と上手くいかなくて……俺は、一体どこに逃げればいいんだ」 中村は、少しずつ、諦めていった。 声をかけるのをやめた。 朝礼で明るい話題を振るのをやめた。 飲み会を企画するのをやめた。 そして、ただ、上からの指示を下に伝えるだけの「伝書鳩」になっていった。 中村のモノローグ「これが、私の限界か。……情けない。情けないけど、もう何もできない。こ の職場は、変えられない。私には、変えられない」 しかし、水野が来た日から、中村の中で何かが変わり始めていた。 あの明るい挨拶。あの諦めない目。 中村のモノローグ「水野くんを見ていると、昔の自分を思い出す。入庁した時の、あの気持ち を。……俺は、いつから諦めていたんだろう」 〇大塚の回想 大塚浩二が市役所に入庁したのは、三十年前のことだった。 当時は、まだ手書きの帳簿が主流で、電卓を叩きながら一つ一つ計算していた。 大塚は、その作業が得意だった。 几帳面で、ミスが少なくて、上司に褒められた。 大塚のモノローグ「あの頃は、よかった。仕事が楽しかった。自分のやり方が正しいと信じて いた。……でも、システムが変わった。やり方が変わった。俺のやり方は、古くなった」 大塚は、それが認められなかった。 自分のやり方が古くなったことを認めることは、自分の三十年間を否定することのように感じ た。 だから、新しいシステムを学ぼうとしなかった。 若手に聞くことを、プライドが許さなかった。 大塚のモノローグ「俺は、間違っていたのか。……でも、認めたくない。認めたら、俺の三十年 間は何だったんだということになる。……でも、認めなかったら、もっと大きなミスをする。 もっと、みんなに迷惑をかける」 大塚は、その葛藤を、誰にも言えなかった。 誰かに相談することも、プライドが許さなかった。 だから、一人で抱え込んで、間違ったまま進み続けた。 大塚のモノローグ「……俺も、篠原と同じだ。一人で抱え込んで、誰にも頼れなくて。……俺た ちは、みんな同じだ。みんな、孤独だ」 〇作業室(深夜・続き) 封入作業が完了した後、大塚は一人で残って片付けをしていた。 水野が声をかけた。 水野「大塚さん、手伝います」 大塚「……いい。俺がやる」 水野「でも……」 大塚「俺のミスで起きたことだ。俺が後始末をする」 水野は、少し間を置いた後、大塚の隣に立った。 水野「一人でやるより、二人でやった方が早いです」 大塚「……」 大塚は、水野を見た。 その目には、複雑な感情があった。 大塚「……お前、なんで俺を手伝うんだ。俺は、お前に何もしてやってないぞ。むしろ、邪険に してきた」 水野「そうですね。でも、大塚さんは、俺が困った時に助けてくれましたよ」 大塚「俺が? いつだ」 水野「最初の日、俺が挨拶した時、舌打ちしましたよね」 大塚「……それのどこが助けてるんだ」 水野「反応してくれたじゃないですか。他の人は、完全に無視だったけど、大塚さんは舌打ちし てくれた。それって、俺のことを見てくれてたってことじゃないですか」 大塚は、呆れたような顔をした。 大塚「……お前、変なやつだな」 水野「よく言われます」 大塚は、しばらく水野を見た後、ため息をついた。 大塚「……手伝え」 水野「はい!」 二人で、黙々と後片付けをした。 その沈黙は、以前の「拒絶の沈黙」ではなく、「共に作業する沈黙」だった。 大塚のモノローグ「……こいつは、変なやつだ。でも、悪いやつじゃない。……俺は、こうい うやつが苦手だった。諦めないやつが。でも、今は……少し、羨ましい」
〇篠原の部屋(夜) 篠原葵は、アパートの自室に帰り着いた。 コートを脱いで、ソファに座る。 部屋は、整然としていた。 余計なものが何もない。飾りもない。写真も、花も、ぬいぐるみも。 ただ、本棚だけが、壁一面を埋め尽くしていた。 ミステリー小説が、ぎっしりと並んでいた。 篠原は、本棚から一冊を取り出した。 東野圭吾の『容疑者Xの献身』。 何度も読んだ本だ。 表紙が、少し擦り切れている。 篠原は、本を開いた。 しかし、今日は文字が頭に入ってこなかった。 水野の言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。 『俺は、そうはならない。なりたくない』 『あんたが篠原さん……。あんたは、なんでそんなに諦めてるんですか?』 『期待するな、か。……でも、俺はあんたが気になるんだよ』 篠原は、本を閉じた。 篠原のモノローグ「なぜ、あの人は諦めないんだろう。なぜ、あの人は私に関わろうとするんだ ろう。……私は、あの人に何もしていない。挨拶も返さない。笑顔も見せない。感謝の言葉も、 ちゃんと言えない。それなのに、なぜ」 篠原は、窓の外を見た。 夜の街に、無数の灯りがある。 篠原のモノローグ「私は、もう誰かに期待することをやめた。誰かを信じることをやめた。そ れが、自分を守る唯一の方法だと思っていた。……でも、あの人を見ていると、何かが揺れる。 何かが、動く。……これは、何だ。この感覚は、何だ」 篠原は、手を見た。 今日、水野に「チームだろ」と言われた時、震えた手。 篠原のモノローグ「感情を殺したはずなのに、震えた。……私は、まだ感じているのか。まだ、 何かを求めているのか」 篠原は、目を閉じた。 篠原のモノローグ「……怖い。また傷つくのが、怖い。また誰かに期待して、また全部を奪われ るのが、怖い。だから、あの人とも距離を置かなければいけない。あの人の言葉に、耳を傾け てはいけない。……でも」 篠原は、目を開けた。 篠原のモノローグ「でも、あの人の目は、嘘をついていない。あの人の言葉は、空虚じゃな い。……私には、分かる。人の嘘は、すぐに分かる。あの人は、嘘をついていない。本当に、 私のことを気にしている。本当に、諦めていない。……それが、怖い。それが、一番怖い」 篠原は、再び本を開いた。 しかし、やはり文字が頭に入ってこなかった。 篠原のモノローグ「水野健太。……あなたは、私の何を見ているんですか」 〇市役所・税務課・フロア(第3話・翌朝) 翌朝。 水野は、いつも通り元気よく挨拶した。 水野「おはようございます!」 相変わらず、返事はない。 しかし、今日は違うことが起きた。 大塚が、新聞を置いて、水野の方を向いた。 大塚「……おう」 水野は、思わず固まった。 大塚が、挨拶を返した。 水野「あ、おはようございます、大塚さん!」 大塚「うるさい。仕事しろ」 大塚は、また新聞を広げた。 しかし、その口元には、かすかな笑みがあった。 水野のモノローグ「大塚さんが挨拶を返してくれた! たった一言だけど、これは大きな一歩 だ。……少しずつ、変わっていってる。少しずつ、でも確かに」 水野は、自分の席に着いた。 隣の篠原を見た。 篠原は、相変わらずモニターに向かっていた。 しかし、水野には分かった。 篠原の肩が、今日は昨日より少しだけ、柔らかいことが。 水野のモノローグ「あんたも、変わりたいと思ってるんだろ。……俺には、分かる。あんたの肩 が、少しずつ、柔らかくなっていってる。……いつか、あんたも挨拶を返してくれる日が来る。 俺は、そう信じている」
〇給湯室(第3話・昼休み) 昼休み。 水野は給湯室でコーヒーを淹れていた。 そこへ、佐々木が入ってきた。 佐々木「……水野くん、ちょっといい?」 水野「はい、何ですか?」 佐々木は、少し迷うような顔をした後、口を開いた。 佐々木「大塚さんの入力、見てた? 昨日から、なんか変なんだよね」 水野「変、というのは?」 佐々木「処理速度が急に上がってる。でも、確認作業が省略されてる気がして。……私の気のせ いかもしれないけど」 水野「佐々木さんが気になるなら、気のせいじゃないかもしれないですね。大塚さんに確認し てみますか?」 佐々木「それが……大塚さんに言ったら、また怒鳴られそうで」 水野「俺が聞いてみましょうか?」 佐々木「え? でも、あなた新人でしょ」 水野「新人だから、逆に聞きやすいかもしれません。『マニュアルを見ても分からなくて』って 言えば、教えてもらえるかもしれないし、大塚さんの処理も確認できる」 佐々木は、少し考えた。 佐々木「……それ、賢いかも。でも、大丈夫?」 水野「やってみます。ダメだったら、また考えましょう」 佐々木は、水野を見た。 その目に、何かが宿った。 佐々木「……ありがとう、水野くん」 水野「いえ、佐々木さんが気づいてくれたから、俺が動けるんです」 佐々木は、少し驚いたような顔をした。 佐々木のモノローグ「……この子は、なんでこんなに自然に人を巻き込めるんだろう。私が気づ いたことを、ちゃんと認めてくれて、一緒に動こうとしてくれる。……こういうことが、普通に できる人間がいるんだな」 佐々木「水野くん」 水野「はい?」 佐々木「……あなたが来てくれて、よかった。この課に」 水野は、少し照れた。 水野「ありがとうございます。俺も、この課に来られてよかったです」 佐々木「……嘘でしょ。こんな職場」 水野「本当です。篠原さんがいるし」 佐々木「……あなた、本当に変なの」 佐々木は、小さく笑った。 それは、久しぶりの、本物の笑顔だった。 水野のモノローグ「佐々木さんが笑った。……この職場に、笑顔が戻ってきた。少しずつ、でも 確かに」 (第3話 終わり) 第4話「消えた協力、そして……」
〇市役所・税務課・フロア(朝) 前回のクレーム騒動から数日が経った。 課内の空気は、以前にも増して最悪になっていた。 大塚は完全に孤立し、自分の席で黙々と作業をしている。佐々木はさらに自分の殻に閉じこも り、ヘッドフォンを外さなくなった。中村課長は胃薬を手放せなくなり、顔色が日に日に悪くな っていた。 水野のモノローグ「『協力の消失』。これが最終段階だ。誰も他人の仕事を手伝わない。誰も他 人のミスをカバーしない。完全に崩壊した組織の姿が、ここにある。……でも、俺は諦めな い。まだ、諦めない」 水野は、自分の席に着きながら、隣の篠原を見た。 篠原は、今日も完璧な姿勢でモニターに向かっていた。 カタカタターン。 その音だけが、変わらずに響いている。 水野「おはようございます」 篠原「……」 無反応。 しかし、水野は気づいていた。 篠原の肩が、ほんの少しだけ、水野の挨拶に反応していることに。 水野のモノローグ「聞こえてる。ちゃんと聞こえてる。ただ、返せないだけだ。……いつか、返 してくれる。俺は、そう信じている」
〇給湯室(昼) 水野は、佐々木と二人になった。 水野「佐々木さん。あの……大塚さんの件から、なんか皆ギスギスしてませんか?」 佐々木は、ため息をついた。 佐々木「当然でしょ。大塚さんのミスのせいで、私たちまで上の連中から目をつけられてるの よ。課長も、上から相当プレッシャーをかけられてるみたいだし」 水野「でも、このままじゃ……」 佐々木「水野くん。あなた、篠原さんのこと気にしてるみたいだけど、やめておいた方がいいわ よ」 水野「え?」 佐々木「彼女、前の部署で何があったか知ってる?」 水野「前の部署?」 佐々木は、少し迷うような顔をした後、話し始めた。 佐々木「彼女、福祉課にいたのよ、最初。当時は、すごく明るくて、誰にでも優しくて、仕事も 熱心だったらしいわ。困ってる人を見ると、放っておけないタイプで。市民の相談に何時間でも 付き合って、同僚が困ってれば自分の仕事を後回しにして手伝って……」 水野「えっ……あの篠原さんが?」 水野は、思わず声を上げた。 佐々木「そう。今の彼女からは想像もできないでしょ。でも、その優しさに付け込まれたの」 佐々木は、コーヒーカップを両手で包みながら続けた。 佐々木「同僚の仕事まで押し付けられ、クレーマーの対応も全部一人でやらされて、休日出勤も 断れなくて……最後は、過労で倒れた。救急車で運ばれたのよ。倒れた時、誰も気づかなかっ た。フロアで倒れてたのに、誰も声をかけなかった。一人の職員が、たまたま通りかかって、よ うやく救急車を呼んだって」 水野「……」 水野は、言葉を失った。 佐々木「復帰して、この税務課に異動してきた時には、もう今の『氷の女』になってた。……彼 女はね、自分を守るために、感情を殺すことにしたのよ。誰にも期待せず、誰にも頼らない。そ れが彼女の生きる術なの」 佐々木は、悲しげな目を伏せた。 佐々木「だから、中途半端な正義感で彼女に近づかないで。彼女の鎧を剥がそうとするのは、残 酷なことよ。また傷つくだけだから」 水野「……佐々木さんは、篠原さんのことが心配なんですね」 佐々木「え?」 水野「そんなに詳しく知ってるってことは、ちゃんと見てたってことじゃないですか。気にして たってことじゃないですか」 佐々木は、少し驚いたように水野を見た。 佐々木「……まあ、ね。でも、私には何もできないから」 水野「できないんじゃなくて、しないんじゃないですか?」 佐々木「……」 佐々木は、何も言わなかった。 しかし、その目には、何かが揺れていた。 水野のモノローグ「佐々木さんも、本当は気にしてる。本当は、何かしたいと思ってる。でも、 怖いんだ。また傷つくのが。……みんな、怖いんだ。傷つくのが。だから、何もしない。でも、 何もしないことで、もっと傷ついている」
〇税務課・フロア(午後) 水野は、席に戻った。 隣の篠原を見た。 相変わらずの無表情。機械のような正確なタイピング。 水野のモノローグ「自分を守るための鎧……。あの冷たさは、優しすぎた過去の代償なのか。 救急車で運ばれるまで、誰も助けなかったのか。フロアで倒れているのに、誰も気づかなかった のか。……そんなの、おかしい。絶対におかしい。でも……俺が今さら何を言っても、篠原さん には届かないかもしれない。あんたは、もう人を信じることを諦めているから」 水野は、拳を握った。 水野のモノローグ「でも、俺は諦めない。あんたが諦めても、俺は諦めない。それが、俺にでき る唯一のことだから」 その時。 「うっ……!」 奥の席で、中村課長が胸を押さえて倒れ込んだ。 水野「課長!?」 フロアが騒然となった。 大塚「おい、どうした!」 佐々木「救急車!」 パニックになる職員たち。 その中で、篠原だけが冷静だった。 篠原は無言で立ち上がり、中村の元に駆け寄った。 中村の顔は蒼白で、冷や汗が滲んでいた。 篠原は、中村のネクタイを緩め、気道を確保した。 篠原「佐々木さん、救急車を呼んでください。大塚さん、三階の廊下にAEDがあります。念のた め持ってきてください。水野さんは、中村課長の家族に連絡を。携帯番号は、課長のデスクの引 き出しに緊急連絡先リストがあります」 的確な指示。 水野たちは我に返り、それぞれ動き出した。
〇病院・廊下(夕方) 救急車で運ばれた中村は、過労による軽度の心筋梗塞だったが、命に別状はないとのことだっ た。 水野と篠原が、病院の廊下のベンチに座っていた。 大塚と佐々木は、先に帰っていた。 水野「……よかった。命に別状はなくて」 篠原「……ええ」 沈黙が流れた。 病院の廊下は、静かだった。 消毒液の匂いが漂っている。 遠くで、誰かの靴音がする。 水野「篠原さん」 篠原「何ですか」 水野「佐々木さんから聞いた。前の部署でのこと」 篠原の肩が、ピクリと震えた。 水野「あんたが、なんでそんなに冷たい態度をとるのか。なんで、誰とも関わろうとしないの か」 篠原「……だから何ですか。同情なら結構です」 水野「同情じゃない」 水野は、篠原の方を向いた。 水野「ただ……悔しいんだ」 篠原は、水野を見た。 水野「あんたが、一人で全部背負い込んで、誰も信じられなくなってるのが、悔しい。あんたを 傷つけた奴らが、悔しい。そして、あんたが笑えなくなってしまったことが、一番悔しい」 篠原「……」 篠原は、目を伏せた。 水野「俺は、あんたの本当の顔が見たい」 篠原「本当の顔……?」 水野「ああ。泣いたり、笑ったり、怒ったりする、普通の篠原葵だ。仕事ができる篠原さんじゃ なくて、ただの篠原葵が」 篠原の目が、わずかに潤んだ。 しかし、篠原は目を伏せて、それを隠した。 篠原「……もう、遅いです。私は、感情の出し方を忘れました。どうやって笑えばいいか、どう やって怒ればいいか、どうやって泣けばいいか、全部忘れました」 水野「忘れたなら、また覚えればいい」 篠原「……そんな簡単なことじゃないです」 水野「分かってる。簡単じゃない。でも、不可能でもない」 篠原「なぜ、そんなことが言えるんですか。あなたは私の何を知っているんですか」 水野「何も知らない。でも、あんたが震えていたのは見た」 篠原「え?」 水野「先週の残業の時。俺が『チームだろ』って言った時、あんたの手が震えてた。感情を殺し たなら、震えるはずがない。あんたは、まだ感じてる。まだ、生きてる」 篠原は、しばらく黙っていた。 病院の廊下に、誰かの靴音が遠ざかっていく音がした。 篠原「……水野さん」 水野「うん?」 篠原「あなたは、なぜそんなに……」 篠原は、言葉を探すように目を泳がせた。 篠原「なぜ、私に関わるんですか。面倒なだけでしょう。損なだけでしょう。私は、あなたに何 もしてあげられない。挨拶も返せない。笑顔も見せられない。感謝の言葉も、ちゃんと言えな い。……そんな人間に、なぜ」 水野「損とか得とか、そういう話じゃないだろ」 篠原「では、なぜ」 水野は少し考えた。 水野「……あんたの目が、助けを求めてるように見えるから」 篠原「え……」 水野「最初に会った時から。あんたの目は、冷たいのに、どこか叫んでるように見えた。『ここ から出してくれ』って。俺の思い込みかもしれないけど、そう見えた。……そして、その叫びを 無視できなかった。それだけだ」 篠原は、長い間、黙っていた。 病院の廊下に、夕暮れの光が差し込んでいた。 篠原「……私は、怖かっただけです」 水野「え?」 篠原「また傷つくのが、怖かった。また誰かに優しくして、また全部を奪われるのが、怖かっ た。だから、最初から何も与えないことにした。感情も、優しさも、期待も。全部、捨てるこ とにした」 篠原の声は、静かで、しかし確かに震えていた。 篠原「でも……捨てたはずなのに、まだ残ってるんです。何かが。何なのか、分からないけど」 水野「それが、本物の篠原葵だよ」 篠原は、水野を見た。 その瞳に、涙が光った。 しかし、篠原は泣かなかった。 泣き方を、忘れていた。 水野「俺が、あんたの鎧をぶっ壊してやる」 篠原「……無理です」 水野「やってみないと分からない。俺は諦めない」 篠原「なぜそこまで……」 水野「『あんたが篠原さん!?』って、俺に言わせてくれよ。最高の笑顔でさ」 篠原の瞳が、大きく揺れた。 その瞳の奥に、長い間閉じ込められていた何かが、ほんの少しだけ、動いた気がした。 〇帰り道(夜) 水野と篠原は、病院を出た。 夜の空気は冷たかったが、どこか清々しかった。 水野「篠原さん、帰り道、どっちですか?」 篠原「……北口です」 水野「俺も北口。一緒に帰りましょう」 篠原「……」 篠原は断らなかった。 二人は、並んで夜道を歩いた。 しばらく、無言だった。 しかし、その無言は、以前の「拒絶の無言」とは違った。 水野「篠原さんって、休みの日は何してるんですか?」 篠原「……読書です」 水野「へえ、どんな本?」 篠原「……ミステリーが多いです」 水野「あ、俺も好きです。最近読んだ面白いのありますか?」 篠原は少し考えた。 篠原「……『容疑者Xの献身』は読みましたか?」 水野「あ、東野圭吾! 読みました! 最後、泣きましたよ」 篠原「……私も」 水野「え?」 篠原「……私も、泣きました。あの本で」 水野は、思わず立ち止まった。 水野「泣いたんですか?」 篠原「……おかしいですか」 水野「いや! 全然おかしくない! ただ……泣けるんだって思って」 篠原「……本の中でなら、感情が動くんです。現実では、もう動かないと思っていたのに」 水野「それって、まだ感情が死んでないってことじゃないですか」 篠原は、水野を見た。 街灯の光に照らされたその顔に、ほんの少しだけ、柔らかさが戻っていた。 篠原「……そうかもしれません」 水野「絶対そうです」 二人は、また歩き始めた。 水野のモノローグ「今日、篠原さんが少しだけ、扉を開いてくれた気がする。ほんの少しだけ ど、確かに開いた。……俺は、その扉をもっと開けていきたい。急がなくていい。ゆっくりでい い。でも、諦めない」
〇水野の部屋(夜) 水野は、ベッドに横になりながら、今日のことを思い返した。 水野のモノローグ「篠原さんは、優しすぎたから傷ついた。だから、感情を殺すことにした。 でも、完全には殺せなかった。本を読んで泣く。手が震える。目が揺れる。……あんたは、まだ 生きてる。まだ、人間だ」 水野は、天井を見つめた。 水野のモノローグ「俺は、あんたに笑ってほしい。それだけだ。理由なんて、それだけで十分だ ろ。……明日も、あんたの隣にいる。それだけは、約束する」 (第4話 終わり) 第5話「あんたが篠原さん!?」(最終話)
〇市役所・税務課・フロア(数日後・朝) 中村課長が入院してから、課内の空気はさらに重くなっていた。 臨時の代理として、隣の市民課から係長が来ていたが、税務の専門知識がなく、実質的に課は機 能不全に陥っていた。 しかし、水野だけは違った。 水野「おはようございます!」 相変わらず返事はない。 しかし、水野はめげなかった。 水野「篠原さん、おはよう! 今日のネクタイ、ちょっと曲がってるよ」 篠原「……私はネクタイをしていません」 水野「あ、そっか! ははは!」 篠原は、微かにため息をついた。 しかし、その表情は以前ほど硬くなかった。 口元に、かすかな何かがあった。 笑いをこらえているような、そんな何かが。 水野のモノローグ「少しずつ、変わってきてる。ほんの少しずつだけど、確かに変わってきて る。……あんたは、笑いたいんだろ? 笑っていいんだよ、篠原さん」
〇給湯室(朝) 水野がコーヒーを淹れていると、大塚が入ってきた。 大塚「……水野」 水野「はい?」 大塚は、少し言いにくそうに口を開いた。 大塚「あの、先日の通知書の件……お前に迷惑かけたな」 水野「え?」 大塚「俺のミスで、みんなに残業させた。……悪かった」 水野は、驚いた。 大塚が謝るところを、初めて見た。 水野「大塚さん……」 大塚「俺は、プライドが邪魔して、若いやつに聞けなかった。それが間違いだった。……お前、 なんかあったら俺に言え。俺にできることなら、手伝う」 大塚は、照れくさそうにコーヒーを取って出ていった。 水野のモノローグ「大塚さんが変わった。……少しずつ、変わっていってる。この職場は、まだ 変われる。まだ、間に合う」 〇税務課・フロア(数週間後) 中村課長が復帰する日。 中村が、少し痩せた姿で現れた。 フロアの全員が立ち上がり、頭を下げた。 中村「みんな……迷惑をかけた。本当に申し訳なかった」 中村の声は、以前より少し柔らかかった。 中村「病院のベッドで、色々考えたよ。私は、君たちと向き合うことから逃げていた。上から のプレッシャーを、自分一人で抱え込んで、君たちに何も伝えなかった。それが間違いだった」 中村は、全員の顔を順番に見た。 中村「これからは、もっと話し合おう。どんな小さなことでもいい。困ったことがあれば、言っ てくれ。私も、もっとちゃんと聞く。……一緒に、この課をよくしていきたい」 フロアに、静かな空気が流れた。 大塚が、ボソリと言った。 大塚「……俺も、自分のやり方に固執しすぎてた。悪かったな」 佐々木「私も……もっと周りを見るようにします」 少しずつだが、氷が溶け始めていた。 水野は、篠原を見た。 篠原は無表情のままだったが、その目は中村たちをしっかりと見つめていた。 水野のモノローグ「篠原さんも、見てる。ちゃんと見てる。……あんたも、変わりたいと思って るんだろ? 俺には分かる」
〇税務課・フロア(翌週) 大規模な税制改正に伴う、システムの大規模なアップデート作業が始まった。 全員で協力しなければ終わらない膨大な作業量だ。 中村「今回は、全員で分担してやっていこう。一人で抱え込まないで、困ったら声をかけてく れ」 水野「よし、やるぞ!」 全員がそれぞれの役割を分担し、作業を進めた。 しかし、すぐに問題が発生した。 佐々木「課長! このデータ、移行できないんですが!」 中村「え? どこのデータ?」 佐々木「平成二十年以前の旧フォーマットのやつです!」 中村「そんなデータが残ってたのか……」 フロアが、また少しざわつき始めた。 その時、篠原が立ち上がった。 篠原「……私が対応します」 全員が篠原を見た。 篠原「旧フォーマットの変換スクリプトは、私が以前作成したものがあります。少し修正すれば 使えるはずです。水野さん、手伝ってもらえますか?」 水野は、思わず固まった。 篠原が、自分から誰かに声をかけた。 水野「……え? 俺、ですか?」 篠原「あなたの方が、プログラミングの基礎知識があるでしょう。大学でやっていたと言ってい たので」 水野「あ、はい! やります!」 水野は、篠原の隣に椅子を持ってきた。 二人で、並んでモニターに向かった。 篠原「このスクリプトの、この部分を……」 篠原が、画面を指差しながら説明する。 水野「あ、ここの条件分岐が古いフォーマットに対応してないんですね」 篠原「そうです。ここを……」 水野「こうすれば?」 篠原「……ええ。正解です」 水野は、思わず嬉しくなった。 水野「篠原さんに正解って言われた! 初めてだ!」 篠原「……大げさです」 水野「大げさじゃないですよ! 嬉しいんですよ、俺は!」 二人のやり取りを、周囲の職員たちが聞いていた。 佐々木が、小さく笑った。 大塚が、「なんだあいつら」という顔をしながらも、口元が緩んでいた。 中村が、目を細めて二人を見ていた。 中村のモノローグ「……これだ。これが、私が見たかった光景だ」
〇夕方 作業が完了した。 中村「終わった……! みんな、本当にお疲れ様! 今日は全員で乗り越えられた!」 フロアに、小さな拍手が巻き起こった。 大塚も、佐々木も、疲労の中にも達成感のある顔をしていた。 水野は、篠原に向かって親指を立てた。 水野「やったな、篠原さん! スクリプトのおかげで助かった!」 篠原は、水野を見た。 そして――。 ふわりと、花が咲くように。 篠原が、笑った。 それは、ほんの小さな微笑みだった。 口の端が、わずかに上がっただけ。 しかし、その笑顔は、氷の女と呼ばれた彼女のものとは思えないほど、柔らかく、温かかっ た。 水野は、目を見開いた。 水野「……あんたが、篠原さん!?」 篠原は、不思議そうに首を傾げた。 篠原「はい。篠原葵ですが、何か?」 水野「いや……なんでもない。最高の笑顔だなって思って」 篠原の顔が、赤くなった。 篠原「……からかわないでください」 水野「からかってない! 本当に最高だって言ってる!」 佐々木が、笑い声を上げた。 大塚が、「うるさい」と言いながら、笑っていた。 中村が、目を細めて二人を見ていた。 フロアに、温かい笑い声が響いた。 水野のモノローグ「これだ。これが、俺が見たかったものだ。篠原さんの笑顔。この職場の笑い 声。……ようやく、ここに来た。ようやく、ここまで来た」 〇給湯室(夜) 残業後、水野と篠原が給湯室でコーヒーを飲んでいた。 篠原「……水野さん」 水野「うん?」 篠原「今日、ありがとうございました。スクリプトの件」 水野「いや、俺の方こそ。篠原さんに声かけてもらえて、嬉しかったです」 篠原「……声をかけるのが、怖かったです」 水野「え?」 篠原「誰かに頼むということが、ずっと怖かった。頼めば、断られるかもしれない。頼めば、 迷惑をかけるかもしれない。頼めば、また傷つくかもしれない。だから、ずっと一人でやってき た」 水野「でも、今日は声をかけてくれた」 篠原「……ええ。あなたなら、断らないと思ったので」 水野「なんで分かったんですか?」 篠原「……分かりませんでした。でも、そう思いたかった」 水野は、コーヒーカップを持ったまま、篠原を見た。 篠原の横顔は、以前より柔らかかった。 水野「篠原さん、一つ聞いていいですか?」 篠原「何ですか」 水野「福祉課で倒れた時、誰も助けてくれなかったんですか?」 篠原は、少し間を置いた。 篠原「……一人だけ、いました」 水野「え?」 篠原「私が救急車で運ばれた後、その人が上司に直談判して、私の業務量の問題を指摘してくれ たそうです。私が復帰した後、その人は別の部署に異動していて、直接お礼を言えなかったので すが」 水野「……その人のことは、今でも覚えてるんですね」 篠原「ええ。だから……全員が悪い人ではないと、頭では分かっているんです。でも、心が、怖 がってしまって」 水野「そっか」 水野は、コーヒーを一口飲んだ。 水野「俺も、その人みたいになれるかな」 篠原「……え?」 水野「篠原さんの隣にいて、何かあったら直談判できる人に。あんたが倒れる前に、ちゃんと気 づける人に」 篠原は、水野を見た。 その瞳が、また揺れた。 今度は、涙ではなかった。 もっと温かい何かが、その瞳に宿っていた。 篠原「……水野さんは、本当に不思議な人ですね」 水野「そうですか?」 篠原「ええ。最初に会った時から、ずっと思っていました。なぜこんなに、諦めないのか。なぜ こんなに、関わろうとするのか。……なぜ、私を見てくれるのか」 水野「見てるよ。ずっと見てた」 篠原「……なぜ」 水野「あんたの目が、助けを求めてるように見えたから。最初から、ずっと」 篠原は、下を向いた。 その肩が、かすかに震えた。 篠原「……私は、もう助けを求めることを諦めていました」 水野「でも、諦めきれなかったんだろ?」 篠原「……ええ」 水野「よかった」 篠原「え?」 水野「諦めきれなかったから、俺が気づけた。……諦めてたら、俺には届かなかった」 篠原は、しばらく下を向いていた。 そして、ゆっくりと顔を上げた。 その目には、涙が光っていた。 篠原「……水野さん」 水野「うん?」 篠原「私、笑い方を忘れたと思っていました。でも、今日、笑えました」 水野「見てたよ。最高だった」 篠原「……恥ずかしかったです」 水野「なんで?」 篠原「久しぶりすぎて、どんな顔をすればいいか分からなくて」 水野は、思わず笑った。 水野「そのままでよかったんだよ。あの笑顔、最高だったから」 篠原も、また微笑んだ。 今度は、さっきより少しだけ、大きな笑顔だった。
〇税務課・フロア(翌朝) 翌朝。 水野が出勤すると、フロアに変化があった。 大塚が、佐々木に話しかけていた。 大塚「おい、佐々木。昨日の件、ちょっと教えてくれないか」 佐々木「え? あ、はい。どこが分からなかったんですか?」 中村が、朝礼で話した。 中村「今日も一日、よろしくお願いします。何か困ったことがあれば、遠慮なく声をかけてくだ さい」 今日は、何人かが「はい」と答えた。 水野「おはようございます!」 佐々木「おはよう、水野くん」 大塚「……おう」 そして。 篠原「……おはようございます」 水野は、固まった。 篠原が、挨拶を返した。 初めて。 初めて、篠原が挨拶を返した。 水野「……え?」 篠原「何ですか」 水野「今、おはようって言いましたよね!?」 篠原「言いましたが、何か?」 水野「いや、初めてだから! 感動してる!」 篠原「……大げさです」 水野「大げさじゃない! 今日、記念日にする!」 篠原「やめてください」 佐々木が、また笑い声を上げた。 大塚が、「うるさい」と言いながら笑っていた。 中村が、目を細めて二人を見ていた。 フロアに、また笑い声が響いた。 水野のモノローグ「これだ。これが、毎日続けばいい。笑い声が、挨拶が、雑談が、相談が、協 力が。当たり前のことが、当たり前にある職場。それだけでいい。それだけで、十分だ」
〇エピローグ 数ヶ月後。 税務課のフロアには、活気が戻っていた。 挨拶が交わされ、雑談があり、相談し合い、協力し合う。 普通の、当たり前の光景。 しかし、それがどれほど大切なことか、この課の全員が知っていた。 中村は、上からのプレッシャーを一人で抱え込まなくなった。課員に相談し、一緒に考えるよ うになった。家庭でも、妻と少しずつ話し合うようになった。娘とも、少しずつ距離が縮まって いた。 大塚は、若手に積極的に声をかけるようになった。「俺のやり方が正しい」ではなく、「一緒に 考えよう」と言えるようになった。 佐々木は、ヘッドフォンを外した。周囲の声が聞こえるようになった。聞こえると、声をかけた くなった。 そして、篠原は。 篠原は、毎朝、挨拶をするようになった。 それだけで、フロアの空気が変わった。 篠原の挨拶は、まだ少し小さく、まだ少し硬い。 でも、確かに、そこにあった。
〇市役所・外観(春・昼) 水野と篠原が、並んで歩いている。 水野「今日のお昼、何食べる?」 篠原「そうですね……オムライスが食べたい気分です」 水野「お、いいね! 近くにおいしいとこあるんだよ。行こう!」 篠原「……はい」 篠原が、微笑んだ。 それは、もう恥ずかしそうでも、ぎこちなくもなかった。 ただ、自然な、温かい笑顔だった。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん!? ……うん、あんたが篠原さんだ。最高の篠原さん だ。……ありがとう、笑ってくれて」 二人の背中を、春の陽射しが優しく包み込んでいた。 桜の花びらが、舞い散っていた。
〇後日談・税務課・フロア ある日、税務課に新しい新人が配属された。 新人「おはようございます! 今日から配属になりました、田中です!」 フロアの全員が、顔を上げた。 中村「ようこそ、税務課へ!」 佐々木「よろしくね、田中くん」 大塚「……おう、よろしく」 そして、篠原が立ち上がり、新人の元に歩み寄った。 篠原「篠原葵です。隣の席が田中さんの席です。分からないことがあれば、何でも聞いてくださ い」 新人「あ、ありがとうございます!」 篠原「……最初は戸惑うことも多いと思いますが、ここはいい職場です」 水野が、篠原の横顔を見た。 篠原は、新人に向かって微笑んでいた。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん!? ……そうだよ。あんたが、篠原さんだよ。ずっと、 そこにいたんだよ。ただ、誰かが気づくのを待っていただけで。……俺は、気づけてよかった。 あんたの隣に来られてよかった」 フロアに、春の陽射しが差し込んでいた。 カタカタターン。 タイピングの音が、今日は少しだけ、楽しそうに聞こえた。
〇篠原の回想(福祉課時代・詳細版) 二年前。 篠原葵は、福祉課の窓口に座っていた。 二十二歳。入庁二年目。 まだ、今のような「氷の女」ではなかった。 篠原「はい、どうぞ。……あ、田中さん、今日もいらっしゃったんですね。先週の件、どうでし たか?」 常連の相談者・田中さん(七十代・一人暮らし)が、嬉しそうに座った。 田中「篠原さん、聞いてよ。先週教えてもらった介護保険の手続き、ちゃんとできたよ。ありが とうね」 篠原「よかったです! 何か困ったことがあれば、またいつでも来てください」 田中「篠原さんみたいな子がいてくれると、安心するよ。ありがとうね」 篠原のモノローグ「この仕事が好きだった。誰かの役に立てることが、嬉しかった。困っている 人を助けられることが、嬉しかった。……あの頃は、本当に、この仕事が好きだった」 しかし、その「好き」が、少しずつ、重荷になっていった。 篠原が丁寧に対応することが知れ渡り、「篠原さんに頼めばいい」という空気が生まれた。 同僚たちは、難しい相談者を篠原に押し付けるようになった。 篠原「あの、これは私が担当じゃなくて……」 同僚「でも、篠原さんの方が上手いから。お願い」 篠原は断れなかった。 断ることが、できなかった。 困っている人を見ると、放っておけなかった。 同僚に頼まれると、断れなかった。 そして、気づいた時には、一人で課全体の難しい案件を抱えていた。 篠原のモノローグ「残業が増えた。休日出勤が増えた。でも、仕事は終わらない。どんどん積 み重なっていく。……でも、誰かが困っているなら、助けなければいけない。それが、私の仕事 だから」 ある日の朝。 篠原は、フロアに出勤した。 その日は、朝から頭痛がしていた。 前日も深夜まで残業して、帰宅したのは午前二時だった。 篠原「……大丈夫。今日も、頑張れる」 篠原は、自分の席に着いた。 山積みの書類。鳴りやまない電話。次々と来る相談者。 篠原は、一つ一つ、丁寧に対応した。 しかし、昼を過ぎた頃から、視界がぼやけ始めた。 篠原のモノローグ「……おかしい。なんか、目が……」 篠原は、立ち上がろうとした。 その瞬間、世界が傾いた。 篠原「……っ」 篠原は、フロアに倒れた。 周囲の職員たちは、一瞬だけ振り返った。 しかし、誰も立ち上がらなかった。 誰も、「大丈夫ですか」と声をかけなかった。 篠原のモノローグ「……誰も、来ない。誰も、助けてくれない。……私は、倒れているのに、誰 も来ない」 意識が、遠のいていった。 どれくらい時間が経ったか、分からない。 「大丈夫ですか!?」 声が聞こえた。 別の部署の職員が、たまたま通りかかって、篠原を発見したのだった。 救急車が呼ばれた。 篠原は、病院に運ばれた。 診断は、過労による低血糖と脱水症状。 病院のベッドで、篠原は天井を見つめた。 篠原のモノローグ「……誰も、来なかった。私が倒れていたのに、誰も来なかった。私は、あん なに頑張っていたのに。あんなに、みんなのために働いていたのに。……誰も、見ていなかっ た。誰も、気にしていなかった。私は、ただの『便利な道具』だったんだ」 その時、一人の職員が病院に来た。 同じ課の、年上の女性職員だった。 女性職員「篠原さん! 大丈夫ですか!? 私、気づくのが遅くて……本当に、ごめんなさい」 篠原「……」 女性職員「あなたが倒れた後、課長に直談判しました。あなたの業務量が異常だって。一人に押 し付けすぎだって。……課長は、渋い顔をしていましたが、少し改善されるはずです」 篠原「……なぜ、そんなことを」 女性職員「あなたが、ずっと頑張っているのを見ていたから。……私が、もっと早く言えばよか った。本当に、ごめんなさい」 篠原のモノローグ「……一人だけ、いた。一人だけ、見ていてくれた人が。でも、一人だけだっ た。一人だけ」 篠原は、退院後、職場に戻った。 しかし、もう以前の篠原ではなかった。 笑顔は消えた。 誰かに期待することをやめた。 誰かを信じることをやめた。 感情を、殺すことにした。 篠原のモノローグ「もう、傷つかない。もう、期待しない。もう、誰かのために自分を壊さな い。……それが、私が生き残るための唯一の方法だ」 そして、税務課に異動してきた時、篠原は完全な「氷の女」になっていた。
〇病院・廊下(続き) 水野と篠原が、病院の廊下のベンチに座っていた。 中村が運ばれた処置室の前。 水野「……篠原さん、さっき、的確に指示を出してくれましたね。AEDの場所とか、緊急連絡先 とか」 篠原「……把握しておくのは当然のことです」 水野「でも、あの状況で、みんなパニックになってた。篠原さんだけが冷静だった」 篠原「……感情がないから、冷静でいられるだけです」 水野「感情がないなら、なぜ課長の元に一番に駆け寄ったんですか?」 篠原「……」 篠原は、答えなかった。 水野「感情がないなら、なぜ今、ここにいるんですか? 大塚さんも佐々木さんも、先に帰った のに」 篠原「……」 篠原は、長い間、黙っていた。 処置室のドアが、静かに閉まっている。 廊下の蛍光灯が、白く、冷たく輝いている。 篠原「……課長が、倒れた時」 水野「うん?」 篠原「私は、怖かったです」 水野「え?」 篠原「感情がないはずなのに、怖かった。……また、誰かが倒れるのを見て、何もできないのか と思って。また、誰かが助けを求めているのに、誰も気づかないのかと思って」 篠原の声は、静かで、しかし確かに震えていた。 水野「……篠原さん」 篠原「私は、自分が倒れた時のことを、まだ覚えています。フロアで倒れて、誰も来なかっ た。……あの時の、孤独が。あの時の、絶望が。……課長が倒れた時、それを思い出しまし た。だから、動いた。それだけです」 水野「それだけ、じゃないだろ」 篠原「え?」 水野「感情がなければ、怖いとは思わない。怖いと思ったなら、感情があるってことだ。……篠 原さん、あんたは感情を殺せていない。まだ、ちゃんと感じてる」 篠原は、水野を見た。 その瞳に、涙が光った。 しかし、篠原は泣かなかった。 泣き方を、忘れていた。 水野「……泣いていいんだよ」 篠原「……泣き方を、忘れました」 水野「忘れたなら、また覚えればいい。俺が、隣にいるから」 篠原「……なぜ、そんなことが言えるんですか」 水野「言えるから、言ってる。それだけだ」 篠原は、しばらく下を向いていた。 その肩が、かすかに震えた。 そして、ゆっくりと顔を上げた。 その目には、涙が光っていた。 しかし、篠原は泣かなかった。 ただ、その目が、今まで見たことのないほど、柔らかかった。 篠原「……水野さん」 水野「うん?」 篠原「あなたは、私が倒れた時、気づいてくれますか?」 水野「絶対に気づく。絶対に、一番に駆け寄る。それは、約束する」 篠原「……なぜ、そんなことが言えるんですか」 水野「あんたのことを、ちゃんと見てるから。毎日、ちゃんと見てる。だから、気づける」 篠原は、また下を向いた。 その肩が、また震えた。 今度は、泣いているのかもしれなかった。 水野は、何も言わなかった。 ただ、篠原の隣に座り続けた。 処置室のドアが、静かに閉まっている。 廊下の蛍光灯が、白く、冷たく輝いている。 しかし、二人の間には、確かな温かさがあった。
〇帰り道(夜・続き) 水野と篠原が、並んで夜道を歩いていた。 篠原「……水野さん、一つ聞いていいですか?」 水野「何でも」 篠原「なぜ、この職場に来たんですか? 公務員になったのは、なぜですか?」 水野「えっと……正直に言うと、なんとなく、です」 篠原「なんとなく?」 水野「就活の時に、なんとなく安定してそうだから受けた。なんとなく受かった。なんとなく、 ここにいる。……大した志があるわけじゃないんです」 篠原「……でも、あなたは毎日、一生懸命です」 水野「なんとなく来たとしても、来たからには、ちゃんとやりたいんです。……それに、この職 場に来て、気になる人ができたし」 篠原「気になる人?」 水野「篠原さんです」 篠原は、足を止めた。 水野「あんたのことが、最初から気になってた。あんたの目が、助けを求めているように見えた から。……それが、俺がここで頑張れる理由の一つです」 篠原「……私が、理由?」 水野「そうです。変ですか?」 篠原「……変です」 水野「そうですか。でも、本当のことだから、仕方ないです」 篠原は、しばらく水野を見た。 街灯の光に照らされたその顔に、かすかな笑みが浮かんだ。 ほんの少し。口の端が、わずかに上がっただけ。 しかし、それは確かに笑みだった。 水野「……今、笑いましたよね?」 篠原「……笑っていません」 水野「笑ってた! 俺、見た!」 篠原「……気のせいです」 水野「気のせいじゃない! 最高だった!」 篠原「……やめてください」 水野「やめない! 篠原さんが笑ったのは、歴史的事件だ!」 篠原「大げさです」 水野「大げさじゃない! 俺、今日のこと一生忘れない!」 篠原は、また口元を引き締めた。 しかし、その目は、少しだけ笑っていた。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん!? ……今日、初めて笑顔を見た。ほんの少しだけど、 確かに笑った。……あんたは、笑えるんだ。笑い方を、忘れていないんだ。ただ、誰かが引き出 してくれるのを、待っていただけなんだ」 二人は、また歩き始めた。 夜風が、二人の間を吹き抜けた。 その風は、少しだけ、温かかった。
〇市役所・税務課・フロア(中村復帰後・数日後) 中村が復帰してから、課内の空気は少しずつ変わっていた。 変化は、小さかった。 しかし、確かにあった。 大塚が、朝礼の後、佐々木に話しかけた。 大塚「佐々木、昨日の件、ちょっと教えてくれないか。俺、新しいシステムの使い方がよく分か らなくて」 佐々木は、一瞬驚いた顔をした。 しかし、すぐに笑顔になった。 佐々木「もちろんです。どこが分からないんですか?」 大塚「……ここの、このボタン。何をするためのボタンなんだ?」 佐々木「ああ、これは……」 二人が、画面を覗き込みながら話している。 水野は、その光景を見て、思わず笑顔になった。 水野のモノローグ「大塚さんが、自分から聞いた。……これは、すごいことだ。大塚さんにとっ て、それがどれだけ勇気のいることか、俺には分かる。プライドを捨てて、若い人間に教えを乞 う。……大塚さんも、変わっていってる」
〇給湯室(システムアップデート当日・朝) 水野は、朝早く出勤して、コーヒーを淹れていた。 そこへ、篠原が入ってきた。 篠原「……おはようございます」 水野「おはようございます! 今日、早いですね」 篠原「……今日のシステムアップデートの準備があるので」 水野「ああ、そうか。大変ですね」 篠原「……水野さん」 水野「うん?」 篠原「今日、手伝ってもらえますか?」 水野は、固まった。 篠原が、自分から誰かに声をかした。 水野「……え? 俺、ですか?」 篠原「あなたの方が、プログラミングの基礎知識があるでしょう。大学でやっていたと言ってい たので」 水野「あ、はい! もちろんです! 何でも言ってください!」 篠原「……ありがとうございます」 水野「いえ! こちらこそ、声かけてくれてありがとうございます!」 篠原「……大げさです」 水野「大げさじゃないです! 篠原さんが俺に声かけてくれるの、初めてだから!」 篠原「……そうでしたか」 篠原は、少し考えるような顔をした。 篠原「……そうですね。初めてかもしれません」 水野「だから、嬉しいんです!」 篠原「……そうですか」 篠原の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん!? ……また笑った。また、笑ってくれた。……あんた は、笑えるんだよ。ちゃんと、笑えるんだよ」
〇税務課・フロア(システムアップデート作業中) 作業が始まった。 篠原が、全体の指揮を取った。 篠原「まず、現行データのバックアップを全員で確認してください。私が手順を説明しま す。……水野さん、スクリプトの修正を並行してお願いします」 水野「はい!」 篠原「大塚さん、旧データのリストアップをお願いします。リストのフォーマットは、このファ イルを参考にしてください」 大塚「……分かった」 篠原「佐々木さん、移行後のデータ確認を担当してください。チェックリストはこちらです」 佐々木「はい!」 中村「私は、何をすれば?」 篠原「課長は、上への報告と、万が一の場合の対応を担当してください。私たちが作業に集中で きるよう、外部との調整をお願いします」 中村「……分かった。任せてくれ」 全員が動き出した。 水野は、篠原の隣で、スクリプトの修正に取り組んだ。 水野「篠原さん、この部分、こうすればいいですか?」 篠原「……ええ。でも、この条件分岐を追加した方が、より安全です」 水野「あ、なるほど! こうか……」 水野が修正を加えると、篠原が確認する。 篠原「……正解です」 水野「やった! 篠原さんに正解って言われた!」 篠原「……また大げさに言う」 水野「大げさじゃないですよ! 篠原さんに褒められるの、初めてだから!」 篠原「……褒めていません。正解と言っただけです」 水野「同じことじゃないですか!」 篠原「……違います」 しかし、篠原の口元は、かすかに笑っていた。 周囲の職員たちが、二人のやり取りを聞いていた。 佐々木が、小さく笑った。 大塚が、「うるさい」と言いながら、口元が緩んでいた。 中村が、目を細めて二人を見ていた。 中村のモノローグ「……これだ。これが、私が見たかった光景だ。みんなが同じ方向を向いて、 声を掛け合って、笑い合って。……ようやく、ここまで来た」
〇作業終了後・フロア 全ての作業が完了した。 中村「終わった……! みんな、本当にお疲れ様! 今日は全員で乗り越えられた!」 フロアに、拍手が巻き起こった。 大塚も、佐々木も、疲労の中にも達成感のある顔をしていた。 水野は、篠原に向かって親指を立てた。 水野「やったな、篠原さん! スクリプトのおかげで助かった!」 篠原は、水野を見た。 そして――。 ふわりと、花が咲くように。 篠原が、笑った。 それは、ほんの小さな微笑みだった。 口の端が、わずかに上がっただけ。 しかし、その笑顔は、氷の女と呼ばれた彼女のものとは思えないほど、柔らかく、温かかっ た。 水野は、目を見開いた。 水野「……あんたが、篠原さん!?」 篠原は、不思議そうに首を傾げた。 篠原「はい。篠原葵ですが、何か?」 水野「いや……なんでもない。最高の笑顔だなって思って」 篠原の顔が、赤くなった。 篠原「……からかわないでください」 水野「からかってない! 本当に最高だって言ってる!」 佐々木「水野くん、篠原さんが照れてるじゃない!」 大塚「うるさい、お前ら! 仕事終わったんなら、帰れ!」 大塚は怒鳴ったが、その顔は笑っていた。 中村が、目を細めて全員を見渡した。 中村「……みんな、今日は本当にありがとう。こういう日が、毎日続けばいいな」 フロアに、温かい笑い声が響いた。
〇給湯室(最終話・夜・続き) 水野と篠原が、コーヒーを飲んでいた。 篠原「……水野さん」 水野「うん?」 篠原「今日、笑いました」 水野「見てた。最高だった」 篠原「……恥ずかしかったです」 水野「なんで?」 篠原「久しぶりすぎて、どんな顔をすればいいか分からなくて」 水野は、思わず笑った。 水野「そのままでよかったんだよ。あの笑顔、最高だったから」 篠原も、また微笑んだ。 今度は、さっきより少しだけ、大きな笑顔だった。 水野「篠原さん、一つ聞いていいですか?」 篠原「何ですか」 水野「これからも、俺の隣にいてくれますか?」 篠原「……え?」 水野「仕事の話ですよ。俺、まだまだ分からないことだらけだから。篠原さんに教えてもらいた いことが、山ほどある」 篠原「……仕事の話、ですか」 水野「そうです。……あと、個人的にも、もっと話したいです。本の話とか、休日の話とか」 篠原は、水野を見た。 その瞳が、柔らかく揺れた。 篠原「……私も」 水野「え?」 篠原「私も、もっと話したいです。……あなたと」 水野は、思わず笑顔になった。 水野「よかった! じゃあ、また屋上でランチしましょう!」 篠原「……屋上は、寒い時期は困ります」 水野「じゃあ、近くのオムライスの店で!」 篠原「……それは、いいかもしれません」 篠原が、また微笑んだ。 今度は、今日一番の笑顔だった。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん!? ……そうだよ。あんたが篠原さんだよ。最高の篠原 さんだよ。……俺は、あんたの隣に来られてよかった。あんたが笑ってくれて、よかった」
〇エピローグ・詳細版 数ヶ月後。 税務課のフロアには、活気が戻っていた。 朝、出勤すると、挨拶が交わされる。 大塚「おはよう」 佐々木「おはようございます、大塚さん。今日も暑いですね」 大塚「まったくだ。……そういえば、昨日の件、確認したか?」 佐々木「はい。問題ありませんでした」 大塚「そうか。ありがとう」 中村「みんな、おはよう。今日も一日、よろしく」 全員「おはようございます!」 そして。 水野「おはようございます!」 篠原「……おはようございます」 篠原の挨拶は、まだ少し小さく、まだ少し硬い。 しかし、確かに、そこにあった。 水野「今日のお昼、どうしますか?」 篠原「……オムライスの店、混んでいるかもしれません」 水野「早めに行けば大丈夫ですよ!」 篠原「……そうですね」 篠原が、微笑んだ。 それは、もう恥ずかしそうでも、ぎこちなくもなかった。 ただ、自然な、温かい笑顔だった。 佐々木が、二人のやり取りを見て、小さく笑った。 大塚が、「うるさい」と言いながら、口元が緩んでいた。 中村が、目を細めて全員を見渡した。 中村のモノローグ「……これだ。これが、私が見たかった光景だ。当たり前のことが、当たり前 にある。それだけで、こんなに温かい。……私は、この職場が好きだ。ようやく、そう言えるよ うになった」
〇中村の家(エピローグ) その日の夜。 中村は、いつもより少し早く帰宅した。 玄関を開けると、リビングから明かりと、料理の匂いがした。 妻「あら、今日は早いじゃない」 中村「うん。……今日は、早く帰りたくて」 妻「……どうしたの? 珍しい」 中村「なんか、家に帰りたかったんだ。……ただいま」 妻は、少し驚いたような顔をした。 しかし、すぐに微笑んだ。 妻「……おかえり」 二階から、娘の声がした。 娘「パパ、帰ってきたの?」 中村「ああ。……夕飯、一緒に食べるか?」 しばらく沈黙があった。 娘「……うん」 娘が、部屋から出てきた。 中村は、久しぶりに娘の顔を、ちゃんと見た。 いつの間にか、大きくなっていた。 中村「……大きくなったな」 娘「何言ってんの、パパ」 娘は、照れくさそうに言った。 しかし、その顔は、笑っていた。 中村のモノローグ「……家にも、居場所があった。ここにも、俺の居場所があった。……俺 は、ただ、帰ってくればよかっただけだ。早く帰ってくれば、ただいまと言えば、それだけでよ かったんだ」 中村は、リビングのテーブルに着いた。 妻が、料理を運んでくる。 娘が、向かいに座る。 三人で、夕飯を食べた。 それだけのことが、どれほど大切なことか、中村は今、初めて分かった気がした。
〇大塚の帰り道(エピローグ) 大塚浩二は、退勤後、一人で居酒屋に入った。 カウンターに座り、ビールを一杯注文した。 大将「お一人ですか?」 大塚「ああ。……今日は、なんか一人で飲みたくて」 大将「そうですか。ゆっくりどうぞ」 大塚は、ビールを一口飲んだ。 大塚のモノローグ「今日、佐々木に教えてもらった。新しいシステムの使い方を。……恥ずかし かった。でも、聞いてよかった。分かったら、楽になった。……俺は、ずっと、プライドが邪魔 してたんだな。プライドを守るために、間違い続けてたんだ」 大塚は、ビールをもう一口飲んだ。 大塚のモノローグ「水野のやつ、変なやつだ。でも……あいつがいなかったら、俺はまだ変われ なかったかもしれない。あいつが、諦めなかったから。あいつが、声をかけ続けたから。…… 俺も、少しは変われたかもしれない」 大塚は、スマホを取り出した。 連絡先に、「息子」という名前があった。 大塚のモノローグ「……息子に、電話してみるか。久しぶりに」 大塚は、しばらく迷った後、電話をかけた。 コール音が、二回鳴った。 息子「……もしもし? 親父? どうしたの、急に」 大塚「……いや、なんか、声が聞きたくなって」 息子「え? 親父、どうかしたの?」 大塚「別に。……元気か?」 息子「うん、元気だよ。……親父こそ、大丈夫?」 大塚「大丈夫だ。……ただ、声が聞きたかっただけだ」 しばらく沈黙があった。 息子「……そっか。俺も、久しぶりに話せてよかった」 大塚のモノローグ「……俺も、居場所があったんだな。ここにも、俺の居場所があったんだ」
〇篠原の部屋(エピローグ) 篠原葵は、アパートの自室に帰り着いた。 コートを脱いで、ソファに座る。 部屋は、相変わらず整然としていた。 しかし、一つだけ、変わったことがあった。 本棚の前に、小さな花瓶が置いてあった。 白い小菊が、一輪。 水野が、「なんとなく」と言って持ってきてくれた花だ。 篠原は、その花を見た。 篠原のモノローグ「……なんとなく、って言ってた。なんとなく、花が似合いそうだと思って、 って。……変な人。でも」 篠原は、花に触れた。 柔らかい花びらが、指先に触れた。 篠原のモノローグ「……嬉しかった。素直に、嬉しかった。こんな気持ちを、忘れていた。誰 かに何かをしてもらって、素直に嬉しいと思える気持ちを」 篠原は、本棚から本を取り出した。 東野圭吾の『容疑者Xの献身』。 今日は、文字が頭に入ってきた。 篠原は、本を読みながら、ふと思った。 篠原のモノローグ「水野さんは、『容疑者Xの献身』で泣いたと言っていた。……私も、泣い た。あの本の主人公は、誰かのために全てを捧げた。誰にも言わずに、ただ、その人のため に。……私は、あの主人公が怖かった。あんなに誰かを愛することが、怖かった。また傷つく と思って。……でも、今は」 篠原は、本を閉じた。 篠原のモノローグ「今は、少しだけ分かる気がする。誰かのために動くことが、怖くな い。……水野さんが、俺の隣にいてくれるから。あの人が、諦めないでいてくれるから。……私 も、少しだけ、諦めないでいられる気がする」 篠原は、窓の外を見た。 夜の街に、無数の灯りがある。 篠原のモノローグ「……明日も、挨拶しよう。水野さんに。……それだけじゃなくて、みんな に。少しずつ、少しずつ。……私は、まだ、笑い方を練習中だけど。でも、練習していれば、い つかちゃんと笑えるようになる。水野さんが、そう言ってくれたから」 篠原は、目を閉じた。 明日の朝が、少しだけ、楽しみだった。 それは、久しぶりの感覚だった。 〇後日談・税務課・フロア(詳細版) ある日、税務課に新しい新人が配属された。 田中という、二十二歳の男性だった。 田中「おはようございます! 今日から配属になりました、田中です! よろしくお願いしま す!」 フロアの全員が、顔を上げた。 中村「ようこそ、税務課へ! 中村です。よろしく」 佐々木「佐々木です。よろしくね、田中くん。何か分からないことがあれば、何でも聞いてね」 大塚「……大塚だ。よろしく」 田中は、少し驚いたような顔をした。 田中のモノローグ「……みんな、優しい。思ったより、ずっと優しい。緊張してたけど、なん か、ほっとした」 そして、篠原が立ち上がり、田中の元に歩み寄った。 篠原「篠原葵です。隣の席が田中さんの席です。分からないことがあれば、何でも聞いてくださ い」 田中「あ、ありがとうございます!」 篠原「……最初は戸惑うことも多いと思いますが、ここはいい職場です」 田中「……はい!」 水野が、篠原の横顔を見た。 篠原は、田中に向かって微笑んでいた。 それは、温かい笑顔だった。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん!? ……そうだよ。あんたが篠原さんだよ。ずっと、そ こにいたんだよ。ただ、誰かが気づくのを待っていただけで。……俺は、気づけてよかった。あ んたの隣に来られてよかった」 田中が、水野に話しかけた。 田中「あの、先輩……篠原さんって、優しい方なんですか?」 水野「うん。すごく優しい。……最初は、そう見えないかもしれないけど」 田中「え、そうなんですか?」 水野「俺も、最初はびっくりしたよ。でも、ちゃんと見てれば分かる。……あんたが篠原さ ん!? って、きっと思う日が来るよ」 田中「……どういう意味ですか?」 水野「いつか分かる。楽しみにしてて」 水野は、篠原を見た。 篠原は、田中に何かを説明しながら、穏やかに微笑んでいた。 水野のモノローグ「……あんたが篠原さん。最高の篠原さん。……ありがとう、笑ってくれて。 ありがとう、変わってくれて。……俺も、あんたのおかげで、ここにいられる。あんたがいるか ら、俺は毎日、この職場に来たいと思える。……それが、俺の答えだ」 フロアに、春の陽射しが差し込んでいた。 カタカタターン。 タイピングの音が、今日は少しだけ、楽しそうに聞こえた。 そして、その音の中に、かすかに笑い声が混じっていた。 それが、この職場の、新しい音楽だった。
〇最終シーン・市役所・屋上(春) 昼休み。 水野と篠原が、屋上に並んで座っていた。 弁当を広げながら、空を見上げる。 春の空は、青く、高かった。 桜の花びらが、風に舞っていた。 篠原「……きれいですね」 水野「うん。きれいだ」 篠原「……去年の今頃は、こんな風に空を見上げることなんて、なかったです」 水野「そうなんですか?」 篠原「……空を見ても、何も感じなかった。きれいとも、思わなかった。ただ、時間が過ぎてい くだけで」 水野「今は?」 篠原「……きれいです。本当に、きれいだと思います」 水野は、篠原を見た。 篠原は、空を見上げながら、微笑んでいた。 その横顔は、一年前の「氷の女」とは別人のようだった。 水野のモノローグ「あんたが篠原さん。……うん、あんたが篠原さんだ。最高の篠原さん だ。……俺は、あんたの隣に来られてよかった。本当に、よかった」 水野「篠原さん」 篠原「何ですか」 水野「この職場に来てよかった」 篠原は、水野を見た。 その瞳が、柔らかく揺れた。 篠原「……私も」 水野「え?」 篠原「私も、あなたが来てくれてよかったです。……本当に」 水野は、思わず笑顔になった。 篠原も、また微笑んだ。 二人の笑顔が、春の陽射しの中に、溶けていった。 桜の花びらが、二人の間を舞い、そして消えていった。 カタカタターン。 どこかで、タイピングの音がした。 それは、今日も、規則正しく、正確に響いていた。 しかし、その音は、もう孤独な音ではなかった。 それは、誰かと共に奏でる、温かい音楽だった。
(完) 作者あとがき この物語を書きながら、私は何度も、自分の職場を思い出した。 挨拶をしても返ってこない朝。相談しようとして、やめた瞬間。助けを求めたかったのに、求め られなかった日。 職場の「静かな崩壊」は、誰か一人の悪意によって起こるのではない。一人一人の小さな「諦 め」が積み重なって、気づいた時には取り返しのつかない状態になっている。 篠原葵は、優しすぎたから傷ついた。 でも、優しさは間違いではなかった。 ただ、その優しさを守ってくれる人が、そばにいなかっただけだ。 水野健太のような人間が、どこかの職場に一人いれば、きっと何かが変わる。 「あんたが篠原さん!?」 その一言が、誰かの鎧を、少しだけ溶かすかもしれない。 そう信じて、この物語を書いた。 あなたの職場にも、篠原さんがいるかもしれない。 そして、あなたが、水野になれるかもしれない。

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