古代出雲王国《12》越の国とタケミナカタ
前回に続き、出雲口伝の内容について 考察を加えながら紹介していきたいと思います。
参考文献:出雲王国とヤマト政権 (著:富士林雅樹)大元出版より
<コシ国に移ったヌナカワ姫とタケミナカタ>
ヌナカワ姫は、コトシロヌシが不慮の事件で亡くなられた後、淋しさがつのり、 故郷の姫川や黒姫山の景色ばかりを想い出していた。そして彼女は淋しさに耐えかねて、コシの国の実家に帰ることを決意された。 ヌナカワ姫の御子のタケミナカタも、父のコトシロヌシを助けられなかったことを残念に思っていた。そして、その苦い思い出のある出雲の地を離れ、 母君とともにコシの国に移った。
そしてヌナカワ姫は、コシの国で亡くなられた。 出雲王家に輿入れしたヌナカワ姫はコシの国で尊ばれていたので、 ヌナカワ姫を祀る神社がつくられた。 糸魚川市の天津神社境内には《奴奈川神社》があり、ヌナカワ姫の御神像がある。

また新潟県上越市にある越後国一之宮として知られる《居多神社(こたじんじゃ)》ではご祭神として「 大国主命、奴奈川姫命(沼河比売)、建御名方命」が祀られています。
コシの国に住んだタケミナカタは、 信濃国に新しい王国をつくろうと思い立った。 そこで多くの家来とともに姫川を逆上り、 まず長野県上田市の下之郷に移り住んだ。かれはそこに、サイノカミを祀る《生島足島神社》を建てた。
その後タケミナカタは、 黒曜石の産地であった和田峠をこえて諏訪盆地に進出した。そして諏訪湖の南岸に住みつき、そこで王国をつくった。かれの子孫は、 その地の豪族として栄えた。タケミナカタは、 移住先にサイノカミの社を建てた。 かれの死後、そこはかれを祀る《諏訪大社の上社本宮》となった。
次に、このエリアの考古学的視点での情報を見ていきます。
<吹上遺跡>(新潟県上越市)
吹上遺跡はこの時期の北陸地方を代表する巨大な高地性集落(またはその麓の拠点集落)として、500年ほど続いた遺跡です。
日本屈指の「ヒスイ加工基地」
吹上遺跡は玉(たま)作りの一大生産拠点でした。

糸魚川周辺(姫川や青海川流域)で採取された貴重なヒスイ(翡翠)の原石をこの集落に運び込み、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)へと加工していました。

近接する「斐太遺跡 釜蓋遺跡」と合わせて「斐太遺跡群」として国の史跡に指定されています。

弥生時代中頃(約2100年前)に勾玉や管玉が盛んに作られた遺跡で、ヒスイの勾玉の生産量は全国でも有数の規模です。古墳時代の初め(約1700年前)までの約400年もの長い間、地域の拠点となる集落でした。

<柳沢遺跡>(長野県中野市柳沢)
2007年10月に弥生時代中期の青銅器が次々と発見された。 最初は7本の銅戈と1つの銅鐸だった。銅鐸と銅戈が一緒に埋納された青銅器埋納抗が発見されたが、それまでの常識では西日本の弥生文化先進地を中心とし、その周辺でのみ見つかっていた銅鐸と銅戈による祭祀とみられる青銅製の道具の埋納形態は東日本では初めてである。

模様のすり減り方から柳沢銅鐸は長い年月祭祀の道具として使い込まれたことが想像される。


※島根の加茂岩倉遺跡や、滋賀の大岩山遺跡などに見られる山間部への埋納でなく、当時の水田のすぐ横に埋納されたようです。水田近くに埋納されたということは、山間部埋納とは異なる意図だったと考えます。
さらに発見が続き、銅鐸は1・2号(外縁付鈕(がいえんつきちゅう)1式)、3・4号(外縁付鈕2式)、5号(外縁付鈕式~扁平鈕(へんぺいちゅう)式古段階)の5点が出土している。
銅鐸の大きさは5点とも21~22㎝前後にまとまることもわかりました。一つの遺跡で5点の銅鐸が発見されるのは全国でも6番目の出土数となります。
銅戈は1号が九州型、2~8号が近畿型I式です。九州型と近畿型の銅戈が同じ埋納坑から発見されるのは全国初です。
調査によりこの青銅器が祭祀により埋納された時期は紀元前後と推定され、その銅鐸と銅戈の模様などから埋納時期よりさらに古い製造だと判明した。
製造場所は青銅文化の中心となった北部九州または近畿地方だと考えられる。そしてこの柳沢に搬入され祭祀に使われ、最終的に破壊されて埋納されました。その間ほぼ200年ぐらいの期間があったと考えられている。

いつどのような手段でまた、どんな弥生人がこの山間の柳沢という地にもたらしたのか?
なお、この北信濃で青銅器が使われたのは栗林式土器の時代、つまり弥生時代中期後半のことです。そして、この栗林式土器の時代に、長野県で作られた石斧が北陸・関東へ運ばれ北陸の玉が長野県へ大量にもたらされています。
<ちょっと考察します。いつ頃の出来事か?>
以前の記事でもお伝えしていますが、私は以下のような時期の出来事と推定しています。

紀元前100年頃、新潟県の「吹上遺跡」では、糸魚川でとれたヒスイで勾玉が盛んに作られていました。この地域から「ヌナカワ姫」が出雲へ輿入れした。
その後「ヌナカワ姫」は息子「タケミナカタ」を連れて出雲より帰ってきた。
その頃、長野県の「柳沢遺跡」では銅鐸と銅戈が意図的に埋納された。
そして、タケミナカタは拠点を南下させ諏訪の方へ移って行った。
考古学的にも、仮説に繋がりそうな情報がありました。
