沈む(掌編小説です)
この水はなんだか甘く柔らかい。夏の朝に一歩一歩足を踏み入れてゆく水は穏やかなブルーグレイで私の動きにつれて静かで平らな波を立てる。その波は何処までも広がっていく。明るい朝だというのに星の気配がするが、その辺りまで届くかのようだ。
気が付くと水は膝のあたりから腰、肩、首にも達していた。それでもゆっくり沖の方へ進む。ああ頭の先まで水につかった。自分の息がぷくっと泡になって水の香と混ざり上に上がって良い匂いをあたりに放つ。
水は圧力をもって気持ちよく全身を圧迫し、私は浮かぶでも沈むでもなく力を抜いて、いつか聞いたはずのゆったりした音楽を思いだしている。優しかった祖母の深いしわの刻まれたかつての笑顔が目の前に浮かぶ・・・。
ふと、本物の鳥の鋭い声がした。
それにしても目を覚ましながら上手に夢を見ることが出来るようになったものだ。気持ちよさの名残に陶然となりつつよそ事のように思った。
「まだ植物に水をやっていなかったの?コーヒーの鉢がからからで葉っぱがしおれてるわよ」
母が玄関先から張り上げる声が二階に届いた。
窓からは高々と昇った日が射しこんでいる。もう昼近いかも。私は自室の寝具を片付けているつもりが、いつの間にかただただぼうっとしていただけだったのだ。
部屋は散らかっているが心地良い。
この間描いたワイングラスが眩しく輝く。
「あ。ごめんこれからあげる」
私は階下に降りると、庭の水道の蛇口をひねってホースの口を絞り、その辺の緑に水しぶきをかけて回った。
眩しい日光の中で百合のつぼみの周りに虹が出来た。
虹の中では何かきらきらしたものが踊っている。
それが動作を早め、だんだん踊る範囲を広げたかと思うと、ふわっと私に形にならない笑顔を浴びせかけた。百合の香りだろうか。また甘い匂いが漂ってきた。祖母の匂い袋の匂いだ。
私はホースを取り落とした。
水は足元を濡らし、庭をゆっくりと沈めていった。
