境界線上の視線・「偽りの春編」春風の章・第五話:途切れたヴェール、深淵の年代記
(視点:河野一郎)
1. 至高の寸前、焦燥のノイズ
カタリ……。
密室の静寂を切り裂く、靴底がテーブル下の床を擦る微かな音。
私の目の前で、ついに歓喜の瞬間が訪れようとしていた。 駒田魔美の、あの圧倒的な美脚。 タイトな黒のニットワンピースの深いスリットから覗く、5デニールの漆黒のヴェール。 その滑らかな太腿からふくらはぎへと至る美しいラインが、ゆっくりと、しかし確実に動きを見せる。
彼女は優雅に組んでいた脚を解き、右足のエナメル・ピンヒールのかかとを、ゆっくりと浮かせた。
(……おお、おおおっ……!!)
私の心臓が、まるで打楽器のように激しく脈打ち始める。 胸の奥から湧き上がる熱い塊が、喉元まで押し寄せてくるようだった。
かかとが靴から完全に抜け出し、黒いヴェール越しに透ける柔らかそうな皮膚のアーチが、テーブルの影の中で浮かび上がる。 そして、そのまま足先がすっと滑り出し、エナメルの黒い枠組みから、彼女の爪先が、ついに露わになろうとしていた。
(たまらん……!! ついに、ついに魔美君のあの妖艶な爪先が、私の目下に晒されるのだ……!!)
私は興奮のあまり、両手で固く握りしめたコーヒーカップを割りかねないほど指先に力を込めていた。 普段、施設で私に擦り寄ってくる双子の事務員(山城姉妹)や、他のどの女性職員とも比べ物にならない。 この駒田魔美という女が放つ、人を狂わせるような危険な色気。 その結晶である爪先が、パンストの繊細な布目を通して、今まさに私の前に降臨しようとしている。
あと数センチ。 あと数ミリで、あのエナメル靴は完全に脱ぎ捨てられ、無防備で官能的な爪先のフォルムが私の視界を埋め尽くすはずだった。
プルルルルル、プルルルルル。
「……ッ!?」
その瞬間、密室の張り詰めた空気を切り裂いて、澄んだ電子音が響き渡った。 私の身体がビクッと跳ね上がる。 駒田のトレンチコートのポケットの中で、彼女のスマートフォンが甲高く主張を始めていた。
(な……んだ!? 誰だこんな時に!!)
私は内心で激しい苛立ちを抱きながら、受話器へと伸びかけた彼女の手を凝視した。 駒田は、脱ぎかけだったエナメルのヒールに素早くかかとを滑り込ませると、何事もなかったかのようにすっと姿勢を正した。
カツン。
ヒールが床を叩く冷たい音が、私を現実へと引き戻す。 私の歓喜の瞬間は、一瞬の電子音によって泡のように消え去ってしまったのだ。
「……失礼」
駒田は私に一言断ると、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面に表示された発信者名を確認した。 その瞬間、彼女の艶やかな表情から戯れの笑みが消え、冷徹な『歩き巫女』としての険しい光がその瞳に宿るのを、私は見逃さなかった。 彼女は画面をタップし、耳元へと端末を寄せた。
「……ええ、私です。……ええ、こっちはまだ収穫はありません、ママ」
(ママ……?)
私は息を殺し、彼女の会話に耳を澄ませた。 『ママ』という呼び名。それが何を意味するのか、私には知る由もなかったが、駒田の口調はいつも以上に慎重で、どこか緊張感を孕んでいた。
「ごめんなさい、静森町には、行けそうもないわ」
静森町。 岐阜県の、あの寂れた田舎町のことか。なぜ今、その地名が彼女の口から出てくるのか。 私が眉をひそめていると、電話の向こうからの声を聞いている駒田の顔色が、わずかに変わった。
「……はい、はい。……え? はい、分かりました。……そちらも、順調とまではいっていないのですね。……そうですか、約1週間ほど前から、ネズミが……? ですか」
駒田の目が細められる。
「……はい、承知いたしました。では引き続き、白鳥和也の件はここで調査しますわ、ママ」
短い報告を終えると、彼女は通話を切り、画面を暗転させてテーブルの上に置いた。
(……クソッ、もう少しのところで邪魔をしやがって……!!)
私は溢れ出そうになっていた失望感を必死に押し殺し、深く息を吐き出した。 あと一歩だったのだ。彼女のあの爪先を、この目で拝むことができたはずなのだ。 だが、ここで取り乱しては「男爵」としての威厳が廃る。
(……まあいい。楽しみは取っておくとしよう。一度私に靡きかけたのだ、この女を屈服させるのは時間の問題だ……)
私は自分にそう言い聞かせ、冷め切ったコーヒーに口を付けた。
【背景と裏の構造】
ここで、駒田魔美が電話で話していた相手、そして会話に出てきた『ネズミ』と『静森町』についての背景を整理しておこう。
駒田が『ママ』と呼んだ電話の相手。 それは、岐阜県静森町の寂れた商店街に店を構えるスナック『ウイング』のオーナーであり、本名を厚木桜(あつぎ さくら)という女性である。
表向きは元女優という華やかな経歴を持つ物静かなスナックのママだが、彼女の裏の顔は、新興宗教『万世救済の光』の教祖代理・八村猛に直属する秘密諜報部隊『歩き巫女(あるきみこ)』の絶対的リーダーである。 彼女自身も177センチの長身と、5デニールのシアーブラック・ストッキングを完璧に着こなす驚異的な美脚の持ち主であり、教団内部の監視システムアプリ『OSIE(オシエ)』を統括・管理する裏の権力者であった。
そして、電話で語られた「約1週間ほど前から現れたネズミ」とは?
東京から春野千春の捜索のために静森町へと乗り込んでいる、鈴木香織、若鷺美鈴、若鷺サクラの三人チーム(および同行する金融アナリスト・伊達正彦)のことである。
その『鈴木香織チーム』は、静森町に潜入してから怒涛の激戦を繰り広げていた。 教団の地下スタジアムにおいて、薬師団師団長・工藤来夏が放つ特殊芳香薬物『神の脚(デウス・レグ)』の香りに晒されながらも、カオリの「ペパーミント(女神の息)」と美鈴の「巫女の舞」によって氷の幹部・織田雪乃を打ち破り、さらに幹部である前園魅音を味方に引き入れることに成功していた。
しかし、介護施設『春風』にいる河野一郎も、そして駒田魔美自身も、その「ネズミ」の正体が鈴木香織たちであることまでは、この時点ではまだ知る由もなかったのである。
2. 保留された焦燥、歴史への打診
電話を終えた駒田魔美は、ゆっくりと私の方に向き直った。 その顔には、先ほどまで私に見せていた隙や、私のハッタリに揺らいでいた焦りの色は影を潜め、冷ややかなプロの顔が戻っていた。
「……ごめんなさい、河野さん」
彼女は、少しだけ申し訳なさそうな、しかし決定的な拒絶を含んだ笑みを浮かべた。
「今は、私にとっても非常に重要な局面のようですわ。あなたに私の味方だと証明したい気持ちは山々ですが……今は慎重にならなければいけないときのようです。白鳥翔太君の件も、もう少し様子を見させていただくわ」
じつは、この河野の、駒田の美脚への乾いた欲望のために作りだした「嘘」がきっかけで、白鳥翔太、千葉芽衣、林美琴の3名への疑惑が生まれてしまうのだった。 そして、私の提示した「取引」を、彼女は巧みに保留へと持ち込んだのだ。 電話一本で潮目が変わったことを、彼女は直感的に悟ったのだろう。
だが、ここで私がしつこく食い下がれば、せっかく作り上げた「白鳥翔太に関する重大な情報を握っている」という虚構の優位性が崩れてしまう。 私は、あえて大目に見るような、余裕たっぷりの笑みを浮かべて頷いて見せた。
「まあいいさ、魔美君。時間はたっぷりあるんだ。焦る必要はない。ゆっくり考えてくれ給え。……私も少々、君の美しさに当てられて焦り過ぎたようだ」
「え、ええ、ご理解いただけて助かりますわ、河野さん」
駒田はハーブティーのカップを手に取り、細い指先でその温もりを確かめるように包み込んだ。 私は、彼女との会話の主導権を繋ぎ止め、さらに彼女の意識をこちらに向けさせるため、先ほど途切れてしまった「真の議題」へと話題を戻すことにした。
「ところで、魔美君。先ほどの話の続きだが……」
私は身を乗り出し、真顔になった。
「美脚市場(マーケット)の『歴史』について知りたいのだよ。なぜこれほどの巨大な闇組織が生まれ、どのような経緯で世界を支配するに至ったのか。君の知る限りの深淵を、教えてくれないか?」
私の問いかけに、駒田は一瞬だけ瞳を揺らした。 彼女としても、静森町での不穏な動き(ネズミの発生)を聞かされた直後であり、組織の根幹についての思考を整理したいタイミングだったのかもしれなかった。
「ええ……分かりましたわ」
駒田はハーブティーを一口含み、その赤い水面を見つめながら、静かに語り始めた。
「私の知る限りで、お話しいたしますわね。……この美脚市場が、いかにして生まれ、世界を裏から侵食していったのかを」
3. 深淵の年代記(美脚市場の起源と変遷)
(※駒田魔美の語り)
「我々の生きるこの美脚市場……その設立の起源は、18世紀初頭のヨーロッパにまで遡りますわ」
駒田の声は、アンティーク調のランプが照らす密室の中で、まるで重厚な年代記を紐解くような響きを帯び始めた。
「当時のヨーロッパの特権階級の間では、人体の造形や神秘を極秘裏に探求する閉鎖的なサロン文化が流行しておりました。その中で、ある小領邦の美学探求貴族を中心として創設された秘密研究会――『美脚の秘密サロン』こそが、すべての始まりです」
「美脚の……秘密サロン?」
私が尋ねると、駒田は静かに首を縦に振った。
「ええ。彼らは『人間の美意識と魂の神秘は、大地に立つ脚線そのものに宿る』という独自の美学を打ち立てました。しかし、会員数が増えるにつれ、サロン内には決定的な思想の対立が生まれたのです」
駒田は指を二本立てた。
「一つは、『美と欲望を全肯定し、それを磨き上げて価値として競い合うべきだ』とする思想。 もう一つは、『美への執着や欲望こそが人間を堕落させる元凶であり、人間を欲望から解き放つべきだ』とする思想。 この相容れない思想の亀裂は深まり、サロンは二つに分裂いたしました」
彼女の語りは理路整然としており、組織の根源的な対立が鮮明に浮かび上がる。
「前者の『欲望肯定派』は、自らの美学を拡大させて『美脚市場(マーケット)』の原型を築きました。一方、後者の『欲望解放派』は独自の禁欲組織を結成し、これこそが後に巨大組織へと発展する『レッグフェラー財団』の原型となったのです」
「なるほど……。その二つは、最初から合わせ鏡のような宿敵だったわけか」
「その通りですわ。そして美脚市場は、18世紀から19世紀にかけて起きた『七大公国同盟の争乱』など、ヨーロッパ全土を巻き込む架空の戦乱の裏で、資産家たちの富と影響力を吸い上げながら急速に巨大化していきました。権力者たちが領土や権力を争う裏で、市場の蒐集家たちは『幻の至宝』と呼ばれる門外不出の美脚肖像画や彫刻を買い漁り、地下ネットワークを盤石なものにしたのです」
駒田は組んでいた脚をゆっくりと組み替え、その5デニールの膝を優雅に揺らした。
「そして19世紀から20世紀にかけての技術革新の波が、市場を爆発的に加速させました」
「技術革新……?」
「ええ。まずは繊維の革命。極薄のシルクから人工繊維、そして極細のナイロン糸が生み出され、肌の陰影を極限まで引き立てる15デニール、さらには奇跡の透明度を誇る5デニールのストッキングが開発されたこと。 次に演出技術の進化です。舞台照明の高度化、香気を用いた空間支配、そして写真や初期の映像技術の登場。これらによって、美脚は単なる鑑賞対象から、光・香り・歩行・視線を計算し尽くした総合演出芸術へと昇華されたのです」
駒田の瞳に、美脚市場を誇る怪しい光が宿る。
「選ばれた貴族や富裕層の前で、研ぎ澄まされたレッグウェアとピンヒールを纏い、威風堂々と歩く――現在に続く『ランウェイバトル』の原型は、この時代に完成いたしました。 世界が近代化へと進む中、市場は極東の日本にも進出。着物の裾さばきに見られる日本独自の奥ゆかしい曲線美を新たな『至宝』として取り込み、世界規模の巨大シンジケート『アトランティス』へと成長していったのです」
「そして……現代か」
「ええ。現代の情報社会において、市場は物理的な国境すら完全に失いました。暗号通信と専用の監視ネットワークにより、世界中の『原石』がリアルタイムで査定され、オークションやランウェイバトルに掛けられる巨大プラットフォームとなったのです」
駒田はそこでハーブティーの最後のひとしずくを飲み干し、静かに息を整えた。
「しかし、我々が拡大すればするほど、かつて袂を分かった『レッグフェラー財団』との抗争も激化していきました。 欲望を肯定し、美を価値へと変える我々【美脚市場】。 欲望を害悪と見なし、人間を欲望から強制的に解放しようとする財団の主流派【理想派】。 そして、欲望を消すのではなく極限まで高めて支配しようと目論む財団の異端【堕落派】。 この三つの思想が数百年間にわたって衝突を続けていることこそが、この世界の真の裏面史なのですわ」
4. 男爵の感嘆、悪魔の誤算
密室の中に、重い沈黙が降り積もった。 駒田魔美が語った、数百年におよぶ欲望と美の年代記。 秘密サロンの分裂、戦乱の裏で築かれた地下資産、繊維と照明の技術革新、そしてレッグフェラー財団との三つ巴の思想闘争。
私がこれまで「金と女を手に入れるための美味しい仕組み」程度にしか考えていなかった美脚市場が、これほどまでに途方もない歴史と壮大な構造を持っていたとは。
「……なるほど」
私は深く感嘆の息を漏らし、背もたれに深く体を預けた。
「なるほど……! そのような壮大な世界が、この世の裏側に存在していたとはな。実に興味深いな、魔美君! 私の知的好奇心が、これほど満たされたことはないよ!」
私は自らの視野が広がったことに純粋に興奮し、銀髪を撫で付けながら大げさに笑ってみせた。 私が手に入れようとしている権力と、これから『春風』にやってくる元モデルの女囚人たちの価値。 それらが、この巨大な歴史の歯車の一部なのだと思うと、震えるような優越感がこみ上げてくる。
だが。
私を向かい側から見つめる駒田魔美の瞳の奥で、冷たい思考の渦が巻いていることに、私は全く気づいていなかった。
(……信じられない……)
駒田は、表面上は穏やかな笑みを浮かべながら、心の中で激しい疑念と困惑を募らせていた。
(……この河野一郎という男……反会長派の重要拠点であるこの『春風』の最高管理者でありながら、美脚市場の基本的な歴史すら何一つ知らなかったというの……!?)
駒田の脳裏に、激しい違和感が駆け巡る。
(おかしいわ……あまりにもおかしい。反会長派の上層部や、教団の八村猛が、なぜこれほどの『無知な素人』を、この重要な施設のトップに据えているの? 単なるお飾り? それとも、何か別の捨て駒としての理由があるというの……?)
さらに、彼女の思考は、先ほど電話をかけてきたスナック『ウイング』の『ママ(厚木桜)』へと向かう。
(ママは……厚木桜は、私に『歩き巫女』としてこの施設を監視させ、ネズミを排除せよと命じた。けれど、ママは私に、この河野という男の本当の価値や、教団が裏で進めている真の計画について、何一つ重要なことを教えてくれていない……!)
駒田の手指が、ハーブティーのカップの縁を強く握りしめる。
(ママは……私に何を隠しているの? 私はただの使い捨ての駒なの……? それとも、静森町で起きている『ネズミ』の発生と、この施設の河野の無知は、どこかで繋がっているというの……?)
河野一郎の無知と下心。 厚木桜の秘められた策謀。 そして静森町へと現れた謎のネズミたち。
駒田魔美の心の中に、巨大な不信感の毒芽が、静かに、しかし確実に根を張り始めていた。
「さあ、魔美君」
私は彼女のそんな葛藤など知る由もなく、満足気に立ち上がった。
「そろそろ施設へ戻ろうか。午後からも、林相談役との素晴らしいAI化の打ち合わせが待っているからね」
「……ええ、そうですわね、河野さん」
駒田は即座に艶やかな笑みの仮面を貼り直し、トレンチコートを羽織って立ち上がった。 その漆黒の5デニール・バックシームの美脚が、再びエナメルのヒールへと収まり、硬質な音を奏でる。
二人の欲望と嘘、そして相互の疑念を乗せたネイビーのマセラティは、再び『春風』という名の偽りの園へと向かって走り出したのだった。
(境界線上の視線・「偽りの春編」春風の章・第五話:途切れたヴェール、深淵の年代記 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
