境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第百十三話:創世の絶対神と、現れた漆黒の救角
(視点:渡辺菜々)
冷たいクリスタルのランウェイステージの上には、絶対的な「死」の気配が満ちていた。
私は、意識を失ってぐったりと重くなったお姉ちゃん(和香)の右腕を肩に回し、反対側から美桜ちゃんがお姉ちゃんの左腕を支えるようにして、必死にステージの端へと後ずさりをしていた。
エメラルドグリーンのオフショルダー・ミニドレスの裾が微かに震え、シルバーのアンクルストラップ・ピンヒールサンダルを履いた足首から、力が抜けそうになるのをなんとか堪えながら。
「急ごう、美桜ちゃん。……早くここから離れないと」
「はいっ……!」
私たちが息を殺してステージを降りようとした、その時だった。
カツン、……カツン……。
静まり返った地下空間に、透き通るようなガラスの音色が響いた。
それは、透明なクリア素材と純白のエナメルで作られたプラットフォームパンプスが、クリスタルの床を歩く音。
教団の『奇跡の象徴』
白鳥月姫(しらとり かぐや)様
彼女は、玉座からゆっくりと立ち上がり、すでにステージの上へと歩みを進め、私たちのために身を挺して残ってくれたブラッドオレンジの戦士、渡辺蜜柑さんの『クリティカル距離』最も視覚的破壊力が倍増する死の領域にまで、音もなく接近していたのだ。
純白のシフォンワンピースが揺れ、五デニールの『パールホワイト』の極薄ストッキングに包まれた完璧な脚が、冷たい照明を神々しく反射している。
「蜜柑さん……! 本当に無理はしないでください!」
私は、たまらずステージの上の蜜柑さんに向かって叫んだ。
先ほどまで、シタックスの奴隷として戦っていた私たちにとって、彼女は敵だったはずだ。
しかし、あの横暴な店長から美桜ちゃんを救い出したお姉ちゃんの意志を継ぐように、今は私たちが逃げるための盾となってくれている。
そんな彼女が、これ以上傷つくのを見ていられなかった。
蜜柑さんは、私の方を振り返ることはなかった。
黒のレザーショートブーツの足をしっかりと床につけ、タイトな黒のレザースカートの裾を風に揺らしながら、ただ真っ直ぐに月姫様を睨み据えている。
「ああ、分かっている」
蜜柑さんの声は、いつもの小馬鹿にしたようなトーンではなく、覚悟を決めた戦士の静かな響きを持っていた。
「だが、相手が『十億』越えの姫様だ。……たとえ、私が無傷の万全な状態でも、勝てる相手じゃない」
「な……? 十億……!?」
私は思わず、信じられない数字に声を裏返してしまった。
(菜々の心:……十億!? 五億の恋音さんや蜜柑さんだけでも絶望的な強さだったのに、その倍!? そんな数字、私の知る限り、美脚市場の歴史上でも聞いたことがない。……もはや人間という枠組みを超えた、神様の数字じゃない……!)
私の震える声を聞いて、蜜柑さんはダークチェリーの唇を自嘲気味に歪めた。
「ああ、信じられんだろ? この方は、この教団の姫様でありながら、私たちの作り出した全ての薬物やシステムの粋を集めた、最終兵器なのさ」
最終兵器。
ただの崇められる象徴ではなく、彼女自身が十億という途方もない戦闘力を持った最強の天使、いや、最凶の悪魔だ。
「……すまんな。心配してもらっているのに」
蜜柑さんは、ブラッドオレンジのストッキングの脚に力を込め、戦闘の構えをとった。
「おそらく、私は、ここでくたばる。……だが、ただじゃくたばらん。この町がおかしくなった元凶である、この姫様だけは、道連れにしてでも私がなんとかする!」
それは、五億の創薬研究員としての、最後にして最大の反逆の宣言だった。
しかし、その決死の覚悟を真っ向から浴びた月姫様は、プラチナブロンドの長いウェーブヘアを優雅に揺らし、酷薄な笑みをこぼした。
「……お前のような地を這う泥と、天上の私が共に? ……くだらぬ戯言だ。笑わせる。なぜ高貴で、神である私が、お前と共に死なねばならんのだ?……私と対峙した時点で、お前の死は確定している。年貢の納め時だ、蜜柑」
月姫様の声は、どこまでも澄み切っていて、それゆえに恐ろしかった。
彼女は、右手に持った白鳥家の奉納刀『カグツチ』の鞘を軽く持ち上げ、蜜柑さんを見下ろした。
蒼い瞳が、極限まで冷酷に細められる。
そして、月姫様の放つオーラが、地下空間の空気をビリビリと震わせ始めた。
パールホワイトの極薄ストッキングが、ただ立っているだけなのに、圧倒的な『格の違い』を視覚的暴力として放射し始める。
「蜜柑よ、貴様のその醜く汚れた首、私が自ら切り落とし、地獄の閻魔への供物として差し出してやろう」
絶対的な死刑宣告。
そして、月姫様は、刀の鞘を持ったまま、純白のプラットフォームパンプスの足を静かに揃えた。
「奥義『創世の絶対神(ジェネシス・ルーラー)』」
月姫様がその名を口にした瞬間、ステージ上の空気が、完全に『停止』した。
それは、激しいポージングでも、幻惑的なウォーキングでもなかった。
月姫様は、ランウェイの中央に立ち、両脚を隙間なく完全に揃えて、ただ真っ直ぐに直立したのだ。
純白のシフォンワンピースの裾から真っ直ぐに伸びる、五デニールのパールホワイトの脚。
それはまるで、天と地を繋ぐ「一本の神聖な柱」のように、一切のブレも、人間らしい筋肉の躍動すらも感じさせない、完全無欠の造形だった。
そして彼女は、伏し目がちに、ただ冷酷に、下界の泥を見下ろすように蜜柑さんを見つめた。
「あっ……ぁぁ……っ」
その直立不動のポージングが放つ暴力は、人間の『本能』そのものを直接へし折るものだった。
圧倒的な「格の違い」。
そのパールホワイトの柱を見た瞬間、相手の脳に『自分は彼女に作られた泥人形に過ぎない』という絶対的な劣等感が強制的にインストールされるのだ。
神に逆らうことへの本能的な恐怖。
畏怖。
そして、完全なる屈服。
(菜々の心:……ダメだ。あれは、人間の脳が処理できる情報じゃない。見ているだけで、私の魂が土下座して命乞いをしそうになる。……立っていることすら、罪だと錯覚してしまう……!)
少し離れた階段の下にいる私でさえ、その神性の放射を浴びて、呼吸が止まりそうになっていた。
ましてや、クリティカル距離でそれを真正面から浴びた蜜柑さんは。
「あ、がぁっ……!! ぁぁぁぁぁッ……!!」
蜜柑さんの口から、絶叫が弾けた。
彼女のキャットアイの白目が、一瞬にして限界の赤色へと染まり上がる。
ヴィーナスの毒と、十億の神性がもたらす絶対的な劣等感が、五億の彼女の強靭な精神防壁を、紙切れのように無惨に引き裂いていく。
黒のレザースカートが乱れ、ブラッドオレンジのストッキングに包まれた脚が、ガクガクと激しく痙攣し始めた。
蜜柑さんは、頭を抱え、床に両膝をついて、そのまま崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていたが、彼女のライフゲージは、このただ『直立するだけ』の奥義によって、瞬時にほとんど削り取られてしまったのだ。
「蜜柑さん!!」
私と美桜ちゃんは、たまらず悲痛な叫び声を上げた。
しかし、月姫様はその叫びを完全に無視し、意識を失いかけて床に這いつくばっている蜜柑さんに向けて、ゆっくりと歩き出した。
カツン、……カツン。
死のカウントダウンのような、純白のヒールの音。
そして、月姫様は、右手に持っていた奉納刀『カグツチ』の柄に手を掛けた。
チャキッ……。
鞘から抜かれた刃が、地下の冷たい照明を反射して、ギラリと残酷な光を放った。
死刑執行の刃が、ついにむき出しにされたのだ。
「言っただろ、蜜柑。その首を閻魔に差し出すと」
月姫様は、動けなくなった蜜柑さんのすぐ傍らに立ち、その冷たい白刃を高く振り上げた。
「やめてぇっ!!」
私は叫んだが、お姉ちゃんを支えている腕を離すことはできず、一歩も前に出られなかった。
ステージの下では、純白のコートドレスを纏った恋音さんが、ギリッと拳を握りしめ、自身の左手で目を覆い隠していた。
最愛の双子の妹が、自らが忠誠を誓う絶対神によって処刑される。
その光景を直視できない彼女の苦悩が、どれほどのものか。
それでも、彼女は月姫様を止めることはできなかった。
「とどめだ蜜柑、高貴な死を噛みしめ、味わいながらあの世へ旅立つが良い」
月姫様の無慈悲な声と共に、鋭い刃が、蜜柑さんの細い首筋めがけて、容赦なく振り下ろされた。
ヒュンッ!!
「……っ!!」
私は、目をギュッと瞑った。
しかし、私の耳に届いたのは、肉を断つ音ではなく、刃が虚しく空を切る鋭い風切り音だけだった。
「えっ……?」
私が目を開けると、月姫様の振り下ろした刀は、クリスタルの床を傷つけただけで、そこに蜜柑さんの姿はなかった。
なんと、刃が振り下ろされるほんのコンマ一秒の差で、私の隣にいたはずの美桜ちゃんが、黒のレースアップショートブーツで猛烈なステップを踏み込み、床に倒れていた蜜柑さんの身体を抱え込むようにして、間一髪で後方へと引きずり出して救出していたのだ!
「はぁっ、はぁっ……!」
美桜ちゃんは、気を失いかけている蜜柑さんを抱えたまま、ヌードベージュのストッキングの脚でしっかりと床を踏みしめ、月姫様を真っ直ぐに睨みつけた。
「美桜ちゃん……!」
私は、彼女の命知らずの勇気に息を呑んだ。
美桜ちゃんは、恐怖で身体を震わせながらも、黒のレザーショートパンツの腰に手を当て、月姫様に向かって毅然と言い放ったのだ。
「こんなことが……こんな理不尽なことが、絶対に許されていい訳がない!!」
未成年の少女の、純粋で、真っ直ぐな怒りの声が、巨大な地下スタジアムに響き渡った。
「あなたは狂っている! 自分を神だなんて言って、人の命を平気で奪おうとするなんて……! 決して神でも、奇跡でもない。あなたは……ただの堕天使よ!!」
その言葉は、教団の絶対的な象徴に対する、明確で致命的な冒涜だった。
月姫様の振り下ろした刀を持った手が、ピタリと止まった。
プラチナブロンドの髪の下で、彼女の蒼い瞳が、極限の冷たさを帯びて美桜ちゃんを射抜く。
「……言うたな、小娘」
月姫様の声は、もはや怒りを超えた、冷酷な殺意の塊となっていた。
彼女は、純白のヒールでゆっくりと美桜ちゃんの方へ向き直り、手にした刀の切っ先を突きつけた。
「しかし、今日は実に不愉快な日だ。神たる私を冒涜する愚物が二匹も湧くとはな。……決めたぞ、恋音」
月姫様は、ステージの下で目を覆っていた恋音さんに向かって、絶対の命令を下した。
「こやつらは、決してこの地下からは生かして帰さん。絶対者に逆らうということが、どれほどの地獄を意味するのか……その身の髄まで刻み込んでやろう」
十億の神の、完全なる怒り。
もはや、逃げることも、慈悲を乞うことも許されない。
美桜ちゃんと蜜柑さん、そして私とお姉ちゃん。
私たち全員の死が、この瞬間、完全に確定してしまったかのように思えた。
その、絶望的な静寂を打ち破ったのは。
「おいおい、姉ちゃんたち。そいつが月姫様ってやつか?」
ステージのさらに奥。
私たちが逃げてきたのとは反対側にある、簡素なスチールロッカーが並ぶ『ロッカールーム』の開け放たれた扉の向こうから、ひどく場違いな、中年らしき男の軽薄な声が響いてきたのだ。
「噂とは全然違うじゃねえか。もっと慈悲深い、天使のような女だと聞いていたんだがな。随分と物騒なもん振り回してんじゃないか」
「えっ……?」
私は、その声のした方向へ弾かれたように顔を向けた。
「誰? そこにいるのは……誰なの?」
暗いロッカールームの影から、ゆっくりと歩み出てきたのは、一人のくたびれた中年の男だった。
ヨレヨレのスーツに、無精髭。
どう見てもこの美脚市場の華やかなステージには似つかわしくない、冴えないおじさん。
しかし、男は私たちの方を見て、ニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「お前ら、シタックスの渡辺姉妹だろ? テレビで見たことあるぜ」
男は、気絶しているお姉ちゃんと、私を指差して言った。
「助けてやるよ。……ただし、この恩は田辺の野郎にきっちり付けとくからな。高くつくぜ」
「あ、あなたは……?」
私が困惑していると、男は顎をしゃくって自身の隣に控えていた影へと視線を向けた。
「おい、カオリ。あの十億って化物、なんとかできるか?」
カオリ?
その名前に、私はハッとした。
私たちをコケにした、あいつらと一緒にいたあの生意気な小娘と同じ名前だ。
しかし、男の隣から歩み出てきたのは、あの小娘ではなく……全く別の、息を呑むような大人の女性だった。
年齢は二十八歳くらいだろうか。
身長は百七十センチほど。
ロングヘアで大きめなウェーブのかかった黒髪が、地下の照明を反射して艶やかに光っている。
目元にはキリッとした跳ね上げラインのアイメイクが施され、真紅のリップが、彼女の知的な顔立ちに圧倒的な大人の色気を添えている。
彼女が身に纏っているのは、身体のラインを極限まで強調する、純白のタイトなノースリーブブラウス。
そして、その下には、深い漆黒のハイウエスト・ペンシルスカート。
タイトなスカートの裾から伸びる脚は、五デニールの『シアーブラック』のストッキングに包まれ、洗練されたキャリアウーマンのような禁欲さと、強烈なフェティシズムを同時に放っていた。
足元には、装飾の一切ない、黒のエナメルのポインテッドトゥ・ピンヒールパンプス。
「はい、伊達様」
カオリと呼ばれたその大人の女性は、五デニールのシアーブラックの脚を美しく揃え、落ち着き払った冷ややかな声で答えた。
「私があの方を止めて見せます。策はありますので、ご心配には及びません」
その言葉には、十億の月姫様を前にしても微塵の揺らぎもない、確かな自信が満ちていた。
彼女は、黒のエナメルパンプスのピンヒールで、カツン、カツンと正確で無駄のない足音を響かせながら、堂々としたウォーキングでクリスタルのステージへと向かって歩き出した。
その歩みは、先ほど私たちが戦ってきたどんなプレイヤーとも違う、静かで、冷徹な『プロフェッショナル』のオーラを放っている。
(菜々の心:……助けに来てくれたの? でも、あのカオリさんって人の脚値はどれくらいなの? いくら自信があると言っても、相手は十億のバケモノなんだよ!?)
私は、希望と同時に、拭いきれない不安を抱えながら、彼女の背中を見つめた。
彼女の能力は未知数。
それに、月姫様の圧倒的な怒りはまだ全く収まっていない。
美桜ちゃんと蜜柑さんの前には、依然として悪魔の刃が突きつけられたままなのだ。
静森町の地下に突如として現れた、漆黒のペンシルスカートの新たな「カオリ」。
彼女の介入が、この絶望的な盤面をどう覆すのか。
私たちの命を懸けた脱出劇は、予測不能の局面へと突入していた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百十三話:創世の絶対神と、現れた漆黒の救角 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
