『境界線上の視線』原点回帰の章:美脚への執着編【第8話:物置部屋の聖域、公開される背徳】
カツッ。
ルブタンのヒールが、応接室の床を叩く。
私が這いつくばる河合様に一歩近づくたび、私の意識は現在の時間軸を離れ、十年前の「あの日」へと引きずり戻されていった。
あの国内最大規模の大会の当日。
会場の入り口には、マスコミのカメラと観客の熱気が渦巻いていた。
私は、神谷コーチの指示通り、普段以上に念入りにメイクを施し、スポットライトの下で最も美しく映える衣装に身を包んでいた。
そして隣には、私以上に「美の象徴」として着飾らされた母がいた。
神谷コーチは、会場の入り口で私たちを出迎えた。
その表情は、いつになく昂揚していた。だが、彼はまず、主役であるはずの私ではなく、母に向かって深く頭を下げたのだ。
「お母様、今日はお忙しい中、お越しいただきありがとうございます。ささっ、こちらの部屋へどうぞ」
その慇懃すぎる挨拶に、母は困惑の表情を浮かべた。
神谷コーチは私たちを促し、華やかなメインロビーを避け、関係者以外立ち入り禁止の入り口から奥へと案内した。
辿り着いたのは、華やかなリンクの裏側に位置する、誰も使っていない薄暗い物置部屋だった。
埃っぽい空気の中に、古びたベンチと、いくつかの機材が散乱している。
扉が閉まると同時に、神谷コーチの顔から「聖人」の仮面が剥がれ落ちた。
彼は、母の足元を凝視したまま、低く、押し殺したような声で言った。
「お母様……。なぜ、そのような色の『濃い』ストッキングを着用されているのですか? 美琴さんに悪影響を与えますよ」
その言葉に、私と母は耳を疑った。
母が今日のために履いてきたのは、神谷コーチの指定に忠実に従った、5デニールにも満たない、素肌を殺さない極薄のストッキングだった。
私から見ても、その黒は空気のように軽く、母の脚の曲線をこれ以上ないほど鮮明に、かつ上品に際立たせていた。
これ以上に「薄い」ものなど、この世に存在するのだろうか。
「コーチ……。これは先日、あなたが指定されたものと同じメーカーの、最も薄いモデルですが」
母が戸惑いながら答える。
しかし、神谷コーチの瞳には、狂信的なまでの否定の色が宿っていた。
「いいえ。光の屈折が違います。この部屋の照明下でこれほど黒が主張するということは、編み目の密度が計算と合っていない。……美琴さんに悪影響を与えます」
彼はそう断じると、ポケットから新品の、封を切っていないストッキングを取り出し、母に突きつけた。
「これに今すぐ、ここで履き替えてください」
「神谷コーチ、私には、ストッキングのデニール数が美琴に悪影響を及ぼすとはどうしても思えません」
母は、初めて明確な拒絶の意を示した。
当然だ。
ストッキングの色の濃淡が、私の氷上での演技やジャンプの成功率に関係するなど、宇宙の真理から考えても有り得ない話なのだから。
しかし、神谷コーチの論理は、もはや私たちが住む世界のそれとは乖離していた。
「お母様は、全然分かっていない。今日はTV放送で美琴さんを日本国民が見ているのですよ。……お母様が、そのような『濃い』ストッキングを履いていては、美琴さんもお母様の真似をして、今日は薄いストッキングじゃなくて濃いのでもいいやと勘違いをしてしまいます」
彼は私の肩に手を置き、その指先に力を込めた。
「それでは、国民に対して示しが付きません。美琴さんは全国民の前で、演技以上にその『美脚』を魅せ、日本に林美琴ありと示さなければいけない。アスリートである前に、彼女は『美の権化』でなければならないのです」
彼の呼吸が荒くなる。
物置部屋の狭い空間に、彼の熱っぽい声が響き渡る。
「そして、僕はその傍らで、お母様と抱き合い喜んでいる姿をTVで見せなければいけません。……その時、カメラがズームするのは美琴さんだけではない。お母様の脚も、僕の腕も映る。その際のお母様のストッキングのデニール数、その『透け感』こそが、美琴さんの格(ランク)を決定付けるのです!」
母は絶句し、私はそのあまりの理不尽さに全身の血が凍る思いだった。
神谷コーチにとって、母は私という作品を飾るための「動く背景」であり、その質感一つ一つが彼の美学という名の「欲望」を満たすための道具でしかなかったのだ。
さらに、神谷コーチは、私の想像を絶する凶器じみた発言を続けた。
「……いいですか、美琴さん。演技が終わり、キス・アンド・クライで最高得点が出たその瞬間。カメラが回っているところで、お母様と一緒に、競技用のスケート靴を脱ぎ捨ててください。そして、その『完璧なパンスト美脚』を晒し、TVを盛り上げるのです。それが、スポンサーへの、そこで僕への最高の恩返しです」
「……っ! コーチ、何を言って……!」
私は声を震わせた。
世界中のカメラが見守る前で、選手とその母親が靴を脱ぐ。
そんなことが起きれば、スキャンダル以外の何物でもない。
しかし、神谷コーチの顔は、至って真剣だった。
そこには、神聖な儀式を執り行おうとする神官のような、恐るべき純粋さがあった。
神谷コーチは、母の膝の間に割り込むようにして跪き、逃げ場を塞ぐようにその巨大な身体で母を威圧した。
「お母様、さあ。このベンチに座ってください。……時間は残されていません。美琴さんの精神を安定させるために、まずは貴女が『完璧』にならなければ」
母は、抗う気力さえ奪われたように、埃を被った古いベンチに腰を下ろした。
「コーチ……本当に、ここで……? 美琴の前で……?」
「もちろんです。美琴さんの目の前で行うことに意味がある。……彼女に『女王の品格』を継承させる儀式なのですから」
神谷コーチは、母の足首を掴み、その華奢な足を強引に自分の方へと引き寄せた。
彼は、母が履いていたパンプスの踵に指をかけ、ゆっくりと、音を楽しむようにして脱がせていった。
カポッ、という湿り気を帯びた音が物置部屋に響く。
パンプスから解放された母の足先。
5デニールの黒いストッキングに包まれた指先が、コーチの鼻先で震えている。
「……やはり、私の見立て通りだ。このデニール数では、光を吸い込みきれない」
彼は、懐から取り出した特製のストッキング、それはもはや布というよりは、黒い霧を固めたような、触れれば消えてしまいそうな極薄のナイロンを、母の目の前に突きつけた。
「これを履いてください。……私が、手伝います」
「えっ!?…や、やめてくださいコーチ!」
「黙って。……お母様は、美琴さんのための『最高級の見本』であればいいのです」
神谷コーチの指が、母のストッキングのウエスト部分へと無遠慮に伸びた。
私は、その光景をただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。
母の脚が、古いストッキングから剥がされ、冷たい物置部屋の空気の中で一瞬だけ無防備な素肌を晒す。
そして直後、神谷コーチの熱を帯びた指先によって、新たな『黒い呪縛』が、つま先からじわじわと這い上がっていく。
彼の指先は、不必要に母の土踏まずをなぞり、ふくらはぎの肉を揉みしだき、膝裏の敏感な部分を愛撫するようにして、ストッキングのシワを伸ばしていった。
「美琴さん、よく見ておきなさい。これが、勝利への『儀式』……なのですよ」
狂った恩師の、陶酔しきった声。
母の瞳から溢れ出た一筋の涙が、黒いストッキングに覆われた脚に落ち、吸い込まれていくのを、私はただ見守るしかなかった。
物置部屋の薄暗闇の中で、神谷コーチの凶器の指が奏でるナイロンの摩擦音だけが、不気味に響き続けていた。
【第9話へ続く】
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
