境界線上の視線・「偽りの春編」春風の章・第四話:ペナルティの幻影と、欲望の駆け引き
(視点:河野一郎)
会員制カフェ『L'Ecrin de l'Ombre(レクラン・ド・ロンブル)』の最奥。
薄暗いアンティークランプの光が、ビロードのカーテンで仕切られた密室をほの甘く照らし出している。
テーブルの向かい側。
ハーブティーのカップを指先で弄ぶ駒田魔美は、死神の冷徹さと、夜の蝶の艶やかさを併せ持った不思議なオーラを纏っていた。
私は息を殺し、彼女が語る『ペナルティ』と『歴史』の深淵に耳を傾けようとしていた。
巨大組織アトランティスがルール違反者に科すという、恐怖の掟。
それがいかなる惨劇なのか、私の歪んだ好奇心は下腹部を熱く焦がしていたのだ。
だが、駒田の口から漏れ出たのは、思いもよらない言葉だった。
「…アトランティスの科すペナルティは、私の知る限りでは、恐ろしいと聞いたことがあることは事実です」
駒田はハーブティーを一口含み、ため息のように薄い湯気を吐き出した。
「でも…実際に、私が見たペナルティは、一つも存在していませんの」
「…は?」
私は思わず間抜けな声を上げてしまった。
耳を疑うとはこのことだ。
期待感で引き締まっていた私の顔が、拍子抜けで緩んでいくのを感じる。
「どういうことだ、魔美君。アトランティスは、ペナルティという制裁システムを吹聴(ふいちょう)してはいるが、実際には誰も処罰していないということなのか? …まさか、そんな都市伝説のような虚構を掲げているとでも?」
私の問いに、駒田は困ったように眉をひそめた。
「そういう噂を広めていれば、それ自体がルール違反を防ぐ絶対的な『抑止力』になる…ということなのか?」
私が言葉を重ねると、駒田は細い肩をすくめた。
「分かりませんわ。ですが…河野さんのおっしゃられる通り、その『噂による抑止力』こそを目的としているのかもしれませんわね」
彼女は、ハーブティーのカップを優雅にソーサーへ戻した。
「現に、巨大な組織において『ペナルティの執行と管理』となると、裏の工作員の手配や対象者の監視、処罰の隠蔽など、膨大な時間や資金が使われますもの。アトランティスほどの合理主義者が、そういった無駄な管理コストを消費することは、おそらく避けるのでしょうね」
「…なるほどな」
私は膝を打ち、腕を組んだ。
経営者としての私の脳が、彼女の言葉を即座に分解し、理解を示していた。
「まあ、会社の社長や経営者なら、当然の判断だろうな。存在もしない重罰を『絶対的な恐怖』としてブランド化し、末端のプレイヤーたちを無給で恐怖支配する。実害を出さずに秩序を維持できるなら、これほど効率的なコスト削減はない。そして…アトランティスという組織名には、すでにそれだけの絶大な影響力がある。名前そのものが刃なのだから、それができてしまうわけだ」
虚像による支配。
だが、それこそがアトランティスという怪物の真の恐ろしさなのかもしれない。
「ごめんなさい」
駒田は、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「私の知っているペナルティの真相は、これくらいだわ」
「ははは、気にするな」
私は鷹揚(おうよう)に手を振ってみせた。
「あまり最初から期待はしていなかったので構わないさ。なにせ、世界を裏で牛耳る巨大組織の内情だからな。そう簡単に末端まで情報が降りてくるはずもない」
私は努めてダンディな笑みを保っていたが、頭の中のスイッチはすでに別の方向へと切り替わっていた。
(…さて、組織の不毛な講釈はこれで終わりだ…)
私の視線は、会話を続けながらも、ゆっくりとテーブルの下へと滑り落ちていく。
暗がりの中で、妖しく光を弾く黒いヴェール。
5デニールの極薄ブラック・パンストッキングに包まれた、駒田魔美の完璧な脚。
ふくらはぎの真裏を一直線に貫くバックシームが、彼女が脚を組み替えるたびにピンと張り詰め、官能的な張りを主張している。
(…美しい…)
喉の奥がカラカラに渇く。
先ほどから、この女の脚は私の目の前で幾度となく組み替えられ、擦れ合い、誘惑の衣擦れを奏でてきたのだ。
生殺与奪の権を握られているような、この生殺しの状態。
(…触りたい…)
(この手を伸ばし、あの滑らかな5デニールの地に触れてみたい…)
(太腿の柔らかい肉づきと、引き締まった足首のアーチを、私の指先で直接確かめたい…!)
欲望の火が、一度点くと収まらなくなった。
私はこの施設の責任者であり、彼女のパトロンなのだ。
ただ指をくわえて眺めているだけなど、男爵としてのプライドが許さない。
だが、駒田魔美は一縄筋ではいかない『歩き巫女』。
ただ「触らせろ」と言ったところで、冷たくあしらわれるのが落ちだ。
ならば策を弄(ろう)するまで。
私は自分の立場と、彼女の好奇心や警戒心を煽る「情報」という餌を撒き、彼女を私の掌の上で踊らせてみせよう。
「なあ、魔美君」
私はコーヒーカップを包み込むように持ち、探るような視線を向けた。
まずは軽いジャブだ。
「アトランティスの『会長』のことは、どのくらい知っているんだ?」
駒田は少し意外そうに首を傾げた。
「ええ。私もそんなに詳しくは知らないんですの。雲の上の存在ですから」
「まあ、誰もそんな詳しく知らないだろうな。アトランティスの頂点に君臨する謎の人物だ」
私は不敵な笑みを浮かべ、身を乗り出した。
「だが…もしだ。もし、私が魔美君より会長の情報を持っていたならば…魔美君は私に、何をしてくれるんだ?」
情報との引き換え。露骨な取引の提示だ。
私の下心が透けて見えるような提案に、駒田はくすりと艶やかに笑った。
「河野さん」
彼女はハーブティーの湯気越しに、私を射抜くような上目遣いを向けた。
「もしそれが事実だとしても…私は、河野さんに会長の情報を求めたりはしませんわ。…だって、河野さんの魂胆は分かっていますもの」
(…チッ、見透かされているか…!)
私は心の中で舌打ちをした。
自らの体を対価に差し出させようという私の下心は、百戦錬磨の彼女にはお見通しだったのだ。
(…ふん、まずは失敗か。だが…私を誰だと思っている。この程度の拒絶で諦める私ではないぞ…!)
私の内なる男爵が、ギラギラとした執念を燃やし始める。
ジャブが効かないなら、もっと彼女が無視できない、決定的な「刺さる餌」を投げてやればいい。
私の脳裏に、ふと今朝の光景が浮かんだ。
介護の現場で真面目にお茶を配っていた、あの新人介護士。
白鳥翔太。
彼の存在。
そして彼の「名前」。
これだ。
この青年の名前を利用して、壮大なハッタリ(嘘)を組み立ててやる。
「…そうか。会長の情報には興味がないか。なら、これはどうだ?」
私はニヤリと浅ましい笑みを浮かべ、意図的にトーンを落とした。
「白鳥和也のことなんだがね。…君も知っていると思うが、この前入社した白鳥翔太君。彼も同じ『白鳥』性だが…二人に何か関係があると思うか?」
駒田の眉が、ピクリと跳ねた。
「え? 白鳥翔太君? …確かに、名前は一緒ですが…関係はどうでしょうね? ただの偶然ではないのですか?」
彼女の瞳に、かすかな警戒と興味の色が混ざり合うのを、私は見逃さなかった。
(…ふっ!! かかったな!!)
私は心の中で、思わずガッツポーズを決めた。
(私もそんな関係などあるはずがないと思っているが…言ってみるもんだな! 魔美君、その極上の脚…いただくぞ!!)
私の企みは加速する。
ここからは一気の畳み掛けだ。
「偶然なものか」
私はあたかも重大な秘密を握っているかのように、重々しく頷いてみせた。
「実はね、彼の入社前に、彼の素性を『山城芹愛』と『山城婦人』の二人に徹底的に調べさせたんだよ。…そうしたら、とんでもない事実が発覚してね」
「とんでもない事実…?」
「ああ。彼は…あの白鳥和也の息子であるばかりか…アトランティス会長の実の息子だということが分かったんだ」
「なっ…!?」
駒田の瞳が大きく見開かれた。
流石の彼女も、この唐突でスケールの大きすぎる「虚構」には動揺を隠せないらしい。
私はさらに追い打ちをかける。
「魔美君も、芹愛と婦人がただの可愛い事務員じゃないことくらいは知っているだろ? …彼女たちは、私があの『レッグフェラー財団』に潜入させている、優秀な二重スパイなんだからな」
もちろん、全部嘘だ。
山城姉妹に翔太の素性など調べさせていないし、彼女たちがレッグフェラー財団のスパイなどというのも、今私が思いついた出任せに過ぎない。
白鳥翔太の目的など、私は疑ってもいないし、調べる気すら起きていなかったのだから。
だが、嘘もここまで堂々と、具体的な組織名を交えて語れば、恐ろしい真実味を帯びてくる。
(…くふふ、もうすぐだ…! もうすぐ魔美君のあの黒いヴェールに包まれた美脚に触れることができる…!)
私の心臓は歓喜で早打ちしていた。
「…知りたくないか? 魔美君」 私は甘く毒を含んだ声で囁いた。
「彼が一体何の目的で、この『春風』に入社してきたのか。…私は知ってしまったんだよ。彼の本当の目的をね」
「彼の…目的…」
駒田の喉が、ごくりと鳴った。
『歩き巫女』として反会長派に潜入し、施設に仇なすネズミを排除する任務を負っている彼女にとって、「会長の息子が潜入してきた目的」という情報は、喉から手が出るほど欲しい果実のはずだ。
「さっき、魔美君は私の魂胆は分かっていると言っただろ?」
私はテーブル越しに手を伸ばしかけ、寸前で止めた。
「なら、私の望みを叶えてくれれば、白鳥翔太の目的について教えようじゃないか。…知りたいだろ? レッグフェラー財団が大金を投じて調査した、極秘の調査結果なんだよ?」
完全なる虚構の切り札。
これを突きつけられた駒田は、視線を落とし、深く思考を巡らせ始めた。
(…効いている、効いているぞ…!)
実は、駒田魔美にも焦りがあったのだ。
『春風』に配置されてからというもの、彼女は『歩き巫女』としての目立った手柄を挙げられていなかった。
河野を籠絡して施設を裏で操ってはいるものの、反会長派の上層部や『万世救済の光』の幹部たちに対して、自らの価値(脚値5億の価値)を証明する決定的な成果を残せていない。
もしここで「会長の息子の動向と目的」を掴めば、彼女の立場は揺るぎないものになる。
葛藤する駒田。
「…少し、考えさせてください」 彼女は細い声で呟き、視線を泳がせた。
だが、私の欲望は、もはや「後で」などという生ぬるい猶予を許さなかった。
今すぐ、この手で、目の前の黒いヴェールを暴きたいのだ。
「いや、待てないよ、魔美君」
私は強引に彼女の言葉を遮り、身を乗り出した。
「男の欲望は、一度火がついたら消せないものなんだ。…そうだな、何も君のすべてを今すぐ奪おうというわけじゃない。もっと簡単なことでいい」
「簡単なこと…?」
「ああ。そのヒールを脱いで、私に魅せてくれ」
私はテーブルの下を指差した。
「君のその美しい脚を包む、5デニールの爪先…その素のフォルムを私に見せてくれればいい。君が私の味方であり、私に忠誠を誓うパートナーだと証明してくれれば、それだけでいいんだ。そうすれば、翔太の目的をすべて話そう」
脱ぎ捨てられたエナメルのヒール。
そこに残される、バックシームパンストに包まれた、無防備で官能的なつま先。
それを見ることさえできれば、私は自分の嘘がバレるかどうかなぞ、どうでもよかった。
今この瞬間の快楽さえ手に入ればいいのだ。
駒田は、私の必死で醜悪なまでの欲望の眼差しを受け止めた。
彼女の頭の中で、天秤が揺れている。
自分の美脚の一部を男に晒す屈辱と、手柄となる極秘情報。
やがて駒田の口元に、どこか諦めたような、しかし妖しい諦弾の笑みが浮かんだ。
「…分かりましたわ」
彼女はハーブティーのカップを置き、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
「河野さんの味方だと…証明いたしますわ」
彼女の言葉に、私の全身の血液が沸き立った。
成功だ。
私のハッタリと欲望の罠が、あの『悪魔の申し女』を捉えたのだ。
密室のテーブルの下で、カタリ…と、小さな靴の擦れる音が響いた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」春風の章・第四話:ペナルティの幻影と、欲望の駆け引き 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
