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境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第百二話:謎の声の契約、覚醒の竜巻

(視点:鈴木カオリ)

物理法則をねじ曲げ、空中に見えない階段があるかのように歩みを進める魔術的歩法、『アストラル・ウォーク』。

その絶望的な美の暴力を前に、私の希望の光であった七億越えの雷神・工藤来夏は、完全に意識を断ち切られ、冷たいクリスタルのステージの上へと崩れ落ちてしまった。

そして、その魔術的な歩みを止め、ついに私の目の前、ほんの数十センチの至近距離にまで到達したのは、漆黒のノースリーブニットを着て、純白の仮面を脱ぎ捨てた『歩き巫女』ナンバーワンの志乃舞。

いや、かつての私たちの頼もしい仲間であった、織田雪乃さんだった。

見下ろすスモーキーな瞳と、深く血の色に染まった真紅のルージュ。

ボルドーがかった五デニールの極薄ストッキングが、私の視界の全てを冷たく覆い尽くしている。

「逃げるんだ、カオリちゃん!!」

遠くから、希美さんの悲痛な叫び声が聞こえた。

彼女はキララさんに阻まれ、私を助けに来ることはできない。

逃げる?

どうやって?

私の脚は、恐怖と、これまでの戦闘で蓄積した『ヴィーナス』の毒によって鉛のように重く、クリスタルの床に縫い付けられたように一歩も動かない。

ストッキングだけの足裏から、絶望的な冷たさだけが這い上がってくる。

「……い…や、こ、来ないでください、雪乃さん」

私は、震える声を振り絞って、懇願するように言った。

これ以上近づかないで。

これ以上、私から大切なものを奪わないで。

しかし、雪乃さんのスモーキーな瞳は、哀しみと冷酷さを入り交じらせたまま、私を真っ直ぐに射抜いていた。

「……すぐに終わる。すまない、カオリ」

雪乃さんのそのハスキーな声は、私への同情を含みながらも、教団の執行者としての冷徹な意志に支配されていた。

彼女は、黒のピンヒールをゆっくりと交差させ、あの恐ろしい奥義の予備動作に入った。

彼女が漆黒の煙とともに纏う、全てを飲み込む闇の奥義。

「終わりだ。『ダークアロマフュージョン』」

雪乃さんの宣言と共に、彼女の身体から立ち上る黒い煙と、ボルドーがかった五デニールの美脚が、一つの強烈な視覚と香りの奔流となって私の眼球に突き刺さった。

私の目は、その暴力的な美しさに完全に釘付けになってしまった。

逸らすことができない。

瞬きすら許されない。

吸い込まれていく。

私の脆い意識が、雪乃さんの放つ漆黒の渦の中へ、音を立てて崩れ落ちていく。

視界が真っ赤なノイズに染まり、やがてそれも暗闇へと塗り潰されていく。

(カオリの心:ああ……。これで、本当に終わりなんだ……。ごめんなさい、工藤さん。ごめんなさい、みんな……)

私は、抵抗を諦め、自分の意識が完全に深淵へと落ちていくのを覚悟した。

完全に暗転した、無音の世界。

その、死のような静寂の底で。

『くっくっくっ、見つけたぞ、海割り』

突然、私の頭の中に、直接響き渡る『声』が聞こえたのだ。

「え……?」

思考も止まっていたはずの暗闇の中で、私は幻聴を聞いたのかと思った。

低く、しゃがれていて、どこか古めかしい、おぞましい気配を纏った声。

それは男性とも女性ともつかない、ただひたすらに重く、得体の知れない存在からの呼びかけだった。

『まさか、人の身体を通すと、こうもたやすく見つけられるものなのか?』

声は、私に話しかけているようでもあり、独り言を呟いているようでもあった。

『最初から、あやつ、沙耶の身体を使っていれば、時間をかけずにすんだというのか? 幾年月も無駄にしてきたぞ』

沙耶。

その名前に、私の意識の奥底がピクリと反応した。

沙耶とは、三日前に戦った黒鳥三姉妹の長女、あの恐るべき黒鳥沙耶さんのことだろうか。

人の身体を通す?

幾年月も無駄にした?

何を言っているのか、全く理解できない。

『だが、海割り、お前の命運も尽きそうじゃな。なんとかならんのか?』

海割り。

海割り。

その声は、私の魂の奥底、命の根幹にある何かに向かって、語りかけているように感じた。

『お前が、そやつに連れ去られでもしたら、わしの存在が知られる恐れがある。仕方ない、背に腹は代えられんからのう』

声の主が誰なのか、どんな姿をしているのか、ここがどこなのか、私には何一つ分からない。

ただ、その声が放つ圧倒的な「格の差」のようなものが、私の魂を金縛りにしていた。

『本意ではないが……特別にわしが、お前の能力を少しだけ目覚めさせてやる。だが約束しろ、このことは決して口外せん、そして、わしには近づかんと。敵に塩を送るのは、これが最後じゃからの』

その言葉が響いた瞬間、暗闇の中で、ドクンッ、と私の心臓が大きく波打った。

得体の知れない存在からの、悪魔の契約のような提案。

本来なら、絶対に頷いてはいけないと本能が叫ぶ。

けれど、今の私は完全に雪乃さんの奥義に飲み込まれ、気絶する寸前の絶望のどん底にいるのだ。

工藤さんも倒れ、誰も助けてはくれない。

(カオリの心:……口外しません、近づきません……だから、力を貸してください……!)

私は、ただ無我夢中で、誰に向かって言っているのかも分からないまま、頭の中でそう返事をしていた。

すがるものが他になかった。

どんな代償を払ってでも、ここで意識を失うわけにはいかなかったのだ。

『……よかろう』

その声がフッと消え去った、次の瞬間。

「ハッ……!!」

私は、大きく息を吸い込んで、勢いよく目を見開いていた。

目の前には、依然として雪乃さんが立っている。

しかし、彼女が放っていた『ダークアロマフュージョン』の漆黒の煙と視覚の暴力は、まるで映画のフィルムが途切れたかのように、すでに完全に終わっていたのだ。

「え……?」

私は、自分の身体を見下ろした。

倒れていない。

膝すらついていない。

ミントグリーンのフレアワンピースの裾はわずかに揺れ、私はブーツを脱いだストッキングの足で、しっかりとクリスタルの床に立っていた。

それどころか、頭の中にガンガンと響いていた痛みも、吐き気も、全てが嘘のように消え去っている。

鏡がなくても分かる。

ヴィーナスの毒牙によって真っ赤に染まっていたはずの私の瞳から、赤い充血が完全に引き、元の澄んだ白目に戻っているのだ。

「ど、どういうことなん? カオリちゃん」

少し離れた場所から、希美さんの驚愕に満ちた声が聞こえた。

彼女は、私が完全に雪乃さんの奥義をまともに食らって気絶すると思っていたのだろう。

「苦しくないんか……?」

希美さんが、信じられないものを見る目で私を見つめている。

私は、ゆっくりと首を横に振った。

「……いえ。何ともありません」

私の声は、自分でも驚くほど静かで、そして透き通っていた。

身体の底から、今まで感じたことのないような、澄み切った清らかな力が泉のように湧き上がってくるのを感じる。

これが、あの声が言っていた『能力を少しだけ目覚めさせてやる』ということなのだろうか。

目の前に立つ雪乃さんは、漆黒のノースリーブニットの肩を揺らし、スモーキーな瞳を限界まで見開いて私を凝視していた。

「……カオリ。やはりお前は、特別だ」

雪乃さんのハスキーな声が、微かに震えている。

「私の……この『ダークアロマフュージョン』を至近距離で完全に受けきり、しかも、ノーダメージで回復した……だと?」

雪乃さんは、ギリッと奥歯を噛み締めた。

彼女の顔から、先ほどまでの「すまない」と同情していた冷徹な執行者の仮面が剥がれ落ちていく。

「ふざけるなーーーーーーーーっ!!」

地下空間に、雪乃さんの激しい怒号が響き渡った。

それは、感情を押し殺してきた彼女が初めて見せた、荒々しく、そしてどこか嫉妬と焦燥に駆られたような本性の叫びだった。

「そんなやつ……今まで誰一人としていなかったぞーーーっ!!」

雪乃さんの口調が、冷静な歩き巫女のものから、感情をむき出しにした粗暴なものへと劇的に変わっていく。

自分の全てを懸けた絶対の奥義が、二億に満たないはずの小娘に完全に無効化されたという事実が、彼女のプライドを粉々に打ち砕いたのだ。

「やはりだ……。やはりカオリ、お前は……私と一緒に来てもらう!」

雪乃さんは、真紅のルージュを引いた唇を歪め、黒のエナメルピンヒールパンプスで一歩、私に向かって踏み出した。

「そして、霞様と一緒に完成させるんだ……! あの『真経典』を!!」

霞様。

工藤さんの、二十年前に死んだはずの姉の名前。

そして、美脚市場の闇の根源である真経典の完成。

それが、雪乃さんたち教団が私を狙う本当の理由。

しかし、今の私には、その言葉に怯えるような恐怖は微塵もなかった。

「……完成、ですか?」

私は、静かに、けれど絶対に譲らない強さを持って言い返した。

「私には、関係ありません。霞さんも、真経典も……」

私は、足元に視線を落とした。

そこには、先ほどまでの激戦の中で倒れ伏した、大勢のドールたちの一人が履いていた、少し大きめの黒いエナメルのハイヒールパンプスが転がっていた。

私は、それまでブーツを脱ぎ捨ててストッキングの素足のままだった。

ランウェイバトルにおいて、ヒールを持たないことは致命的な弱点だ。

私は、ゆっくりとその黒いハイヒールを拾い上げ、五デニールのピュアベージュに包まれた自分の足に、すっと履き込んだ。

サイズは少し大きいけれど、今の私には、このヒールの高さと硬質な響きが必要だった。

「私はただ……教団の悪事から、みんなを、この静森町を救いたいだけなんです」

私は、他人のハイヒールでクリスタルの床をカツン、と力強く鳴らし、雪乃さんを真っ直ぐに見据えた。

「行きますよ、雪乃さん」

私は、ミントグリーンのフレアワンピースの裾を両手で軽く持ち上げ、大きく息を吸い込んだ。

雪乃さんが、迎撃の構えをとる。彼女のシャドウ・グレーの脚が筋肉を引き絞るのが見えた。

私は、借り物のハイヒールのつま先を軸にして、思い切り身体を旋回させた。

奥義『トルネードターン』!!

かつて何度も披露してきた、私の代名詞とも言える回転技。

しかし、今の私のターンは、今までとは根本的に何かが違っていた。

シュンッ!!

私が回転した瞬間。

私の身体から、目に見えない強烈な「気流」が吹き荒れたのだ。

それはただの風ではない。

これまでの激戦で、私が何度も浴びてきた、あの工藤さんの『神の脚』の香りの煙。

本来なら私の神経を破壊するはずだったその猛毒の成分が、先ほどの「謎の声」による一時的な覚醒によって体内に吸収され、浄化されずに「蓄積」されていたのだ。

そして今、その蓄積された神の脚の成分が、私の回転による猛烈な遠心力に乗って、私の毛穴から、そして五デニールのピュアベージュのストッキングの繊維の隙間から、極限まで濃縮された『香りの竜巻』となって一気に放出されたのだ!

シュンッ、シュンッ、シュンッ!!

ミントグリーンのワンピースが限界まで広がり、ピュアベージュの脚が光の残像となって空間を切り裂く。

そこに、私が体内に取り込んでいた神の脚の成分が完全に融合し、目に見えない致死性の高い香りの渦が、雪乃さんを真っ向から包み込んだ。

「あ……がぁっ……!!」

雪乃さんの口から、信じられないものを見るような絶叫が上がった。

私の純粋なターンの視覚的暴力に加えて、彼女自身が先ほど使った『神の脚』の猛毒が、何倍にも威力を増して彼女自身の脳を直接蝕み始めたのだ。

(カオリの心:すごい……! こんなにうまく、神の脚の成分を自分の奥義に取り込んでカウンターにできるなんて……!)

自分自身でも驚愕するほどの完璧な一撃。

どうしてこんなことができるのか、私には分からない。

ただ、あの暗闇の中で響いた、『能力を少しだけ目覚めさせてやる』という謎の存在の言葉が、私の身体を自動的に最適化し、この奇跡を引き起こしてくれたのだと直感した。

「グァァァァァァァッ……!!」

雪乃さんは、スモーキーな目元を両手で覆い隠し、漆黒のノースリーブニットを乱れさせて、その場にガクンと膝をついた。

工藤来夏さんの最大奥義『神鳴り』の直撃を食らっても、意地で立ち上がり、私を追い詰めたあの雪乃さんが。

私の、ただの『トルネードターン』の直撃によって、ついに白目を真っ赤に染め上げ、瀕死の状態にまで追い込まれてしまったのだ。

「……ど、どういうことや……!?」

少し離れた場所で見ていた希美さんが、信じられないものを見る目で声を震わせた。

「志乃舞ちゃんが……あんな小娘のターン一発で、膝をつくなんて……! こんなん、今まで一度も見たことない……うそやろ!?」

六億の希美さんでさえ、今私の身に起きている覚醒の原理を理解できず、ただただ驚愕するしかなかった。

「……はぁっ……はぁっ……」

雪乃さんは、床に膝をつき、肩で激しく息をしながら、震える手で顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。

充血した瞳で、私を見上げる。

その目には、敗北の絶望と、ある種の「狂信的な確信」が入り交じっていた。

「……い、今……確信した……」

雪乃さんは、途切れ途切れの、血を吐くような声で呟いた。

「カオリ……お前は……霞様と、対になる存在……。お前と、霞様が一緒になれば……真経典が、完成……する……」

彼女は、自分が倒されることよりも、私の能力の真価を見極めたことに対する異様な達成感を滲ませていた。

その異様な雰囲気に危険を感じたのか、希美さんがワインレッドのドレスを翻し、猛烈なスピードで雪乃さんの元へと駆け寄ってきた。

「ここは一旦引くんや、志乃舞ちゃん!!」

希美さんは、膝をついている雪乃さんの腕を強引に掴み、無理やり立たせようとした。

「離せ……! 私はまだ……!」

雪乃さんが抵抗しようとするが、すでに彼女の身体には立ち上がるだけの力は残っていなかった。

「馬鹿言うな! あんたがここでやられたら、教団の計画がパーになるだろ! 退却だ!!」

希美さんは、雪乃さんの漆黒のノースリーブニットを引っ張り、半ば引きずるようにして、私たちが背にしていたコンクリートの階段の方へと向かって走り出した。

六億の希美さんの脚力と、瀕死の雪乃さん。

二人の姿は、あっという間に暗い階段の向こう側へと消えていった。

「あ……」

二人の姿が見えなくなったその瞬間。

カクン、と。 私の身体から、信じられないほどの急激な脱力感が襲いかかってきた。

「うぅっ……」

私は、履き慣れないドールの黒いハイヒールを履いたまま、クリスタルの床にペタリと座り込んでしまった。

全身の筋肉が悲鳴を上げ、指先一本動かすことすら億劫なほどの激しい疲労感。先ほどの「謎の声」による一時的な覚醒が解け、これまでのダメージと奥義の反動が一気に押し寄せてきたのだ。

「はぁ……はぁ……」

すぐ隣には、エメラルドグリーンのワンピースを着た工藤さんが、静かに目を閉じて倒れ伏している。

私がなんとか守り抜いた、七億越えの匠の姿。

終わった。

ようやく、この地獄のようなランウェイバトルが終わったのだ。

私は、冷たいクリスタルの床に手をつき、安堵の息を長く吐き出した。

……しかし私は、この地下空間に、まだ「もう一人」残っている存在を忘れていた。

カツン、カツン……。

静まり返った地下のフロアに、無機質なヒールの音が響いた。

「……え?」

私が重い頭を上げて視線を向けると、そこには、漆黒のレザーのライダースジャケットと、レザーパンツを着こなし、ダークプラムの唇を持つシタックスの秘書、キララさんが、無表情のまま私に向かって歩いてきているところだった。

「キララ、さん……」

私は絶望した。

嘘でしょ。

私の身体はもう、一ミリも動かない。

指先すら持ち上がらないのに。

キララさんは、工藤さんの奥義を受けても無傷だった、あの規格外のアンドロイドだ。

今、キララさんと戦っても、私に勝ち目はない。

今度こそ私たちは完全に終わりだ。

キララさんは、座り込む私の目の前、あと数歩の距離まで近づいてきた。 その氷のような瞳が、私を見下ろす。

(カオリの心:……終わった。今度こそ、本当に……)

私がギュッと目を閉じた、その時だった。

ピーーーーーーッ。

突如、キララさんの身体の奥深くから、電子レンジのタイマーが切れたような、間抜けな電子音が鳴り響いた。

「え?」

私が目を開けると、キララさんは、右脚を前に踏み出したままの姿勢で、ピタリと彫刻のように動きを止めていた。

「キ、キララさん……?」

私が恐る恐る声をかけるが、彼女はピクリとも動かない。

ダークプラムの唇は閉じたまま、瞳の光もどこか虚ろになり、完全に沈黙している。

「……もしかして」

私は、大きく息を吐き出した。

キララさんはアンドロイド。

そして、これまでの激しい戦闘と、希美さんに背中を強打されての再起動。

その全てが、彼女のシステムの電力を限界まで消費させていたのだろう。

彼女は、私にとどめを刺そうとしたまさにその瞬間に、完全に『電池切れ』を起こして、強制シャットダウンしてしまったのだ。

「……はぁぁぁぁぁっ」

私は、今度こそ、心の底から本当の安堵の深いため息をついた。

静森町の地下に隠された、巨大なクリスタルのランウェイステージ。

五十人以上のドールたちが倒れ伏し、最強の歩き巫女が去り、最後のアンドロイドが沈黙した。

死闘の果てに、ようやく訪れた完全なる静寂。

私は、冷たい床の上に寝転がり、冷たいコンクリートの天井を見上げながら、泥のような眠りの中へと落ちていった。

(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百二話:謎の声の契約、覚醒の竜巻 了)

本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。

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