境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第百四話:追跡のナノGPSと、ロイヤルブルーの姉妹
(視点:渡辺菜々)
「……う、ん……。あ、たまが……痛い……」
冷たくて硬いクリスタルの床の感触と、全身の骨という骨、関節という関節が軋み、悲鳴を上げているような激しい痛みで、私はゆっくりと重い目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、ひどく薄暗いコンクリートの天井と、無機質にチカチカと瞬く地下空間の冷たい蛍光灯だった。
「お姉…ちゃん……?」
私は、自分が身に纏っている深いロイヤルブルーのスパンコールのオフショルダーミニドレスの裾を直す余裕すらなく、ズキズキと内側から爆発しそうに痛む頭を押さえて、なんとか上半身を起こした。
すぐ隣には、私と同じ深いロイヤルブルーのドレスを着た姉、和香(わか)が、サイドスリットから五デニールのシルバーグレーの脚を無造作に投げ出したまま、ピクリとも動かずに倒れ伏していた。
「お姉ちゃん! 起きて、お姉ちゃん!」
私は極度の疲労でパニックになりかけながら、慌てて姉の華奢な肩を強く揺さぶった。
すると、姉は「うぅ……」とひどく苦しげな呻き声を漏らし、パチリと目を覚ました。
その美しくシャープなアーモンドアイの白目は、まだ毒々しい赤色にひどく充血したままだった。
「な、菜々……? ここ、は……? それに、身体中がバキバキに痛いわ。まるで大型トラックに真正面から撥ねられたみたい……」
姉は、高くきっちりと結い上げていたはずのダークブラウンのポニーテールがすっかり乱れているのも構わず、手をついてゆっくりと身を起こした。
指先が微かに震えている。
「トラックどころじゃないよ、お姉ちゃん。私たち、キララに『パープル・ヘブン』の猛毒の原液を、直接ストッキングの上からかけられて、無理やり再起動させられたんだよ。……だからてっきり、脳の自律神経と身体のリミッターが完全に外されて、筋肉や靭帯に凄まじい負担が掛かってるって思ってたんだけど……」
私は自分の身体をぺたぺたと触り、不思議そうに首を傾げた。
「あれ? ……原液を浴びたはずの脚も、火傷とか神経の深刻なダメージとか、なんともないよ? 身体中がバキバキに痛いのは、さっき希美さんに吹っ飛ばされて床に叩きつけられた打撲のせいだけみたい」
気を失う直前、そして自我を完全に奪われていた間の記憶の断片が、少しずつ、けれど生々しい傷跡のように鮮明に蘇ってくる。
六億の騙し巫女、木島希美さんに奥義『ドレスアップシャドー』を真っ向から破られて倒された後。
私たちの意思とは全く関係なく、シタックスの社長秘書であるキララによってゾンビのように強制的に立たされ、あいつら(工藤来夏と鈴木カオリ)に向けて死に物狂いで突進させられたのだ。
自分の身体が自分でコントロールできない、あのおぞましい泥沼のような感覚を思い出し、私は恐怖と生理的な嫌悪感で激しく身震いした。
「……じゃあ、あのキララが私たちに振りかけたパープル・ヘブンは……」
「うん、たぶん『偽物』だったんだと思う。匂いや色だけ似せたフェイク。私たちがゾンビみたいに動かされたのは、原液のせいじゃなくて、別の信号か何かで操られてただけなんじゃないかな」
私はホッと胸を撫で下ろした。
もし本物の原液を至近距離で浴びていたら、私たちは廃人になっていたかもしれないのだ。
「偽物……!? あの機械女、よくも騙してくれたわね! あとで絶対に見つけ出して、その綺麗な顔面を思い切り爪で引っ掻いてやるわ……!」
姉はギリッと奥歯を噛み締め、怒りに美しい顔を歪ませた。
身体に被害がなかったとはいえ、自我を奪われ、ただの使い捨ての操り人形(ドール)にされたことには変わりない。
芸能界というプライドと嫉妬が渦巻く表舞台で、自身の魅力と実力だけを武器に荒波をくぐり抜けてきたという強い自負があるお姉ちゃんにとって、これほど誇りを傷つけられる屈辱的なことはないはずだ。
「とにかくお姉ちゃん、念のため早くこれを打っておこう。ヴィーナスの影響はまだ残ってるはずだし」
私は、倒れた衝撃で少し離れた場所に放り出されていた自分の小さなエナメルのハンドバッグを必死に引き寄せ、中から見慣れた青い液体の入ったアンプルと、未開封のディスポーザブル注射器を取り出した。
『ヴィーナス』、および『パープル・ヘブン』といった同系統の強力な精神作用伝達物質に対する専用の解毒剤だ。
私たちシタックスの息がかかったタレントやドールは、美脚市場の過酷なバトルにおける緊急事態に備えて、これを常に携帯するように田辺社長から厳しく義務付けられている。
私は手慣れた、けれど震える動作で自分の左腕にブスリと注射を打ち、続けて、苦痛に顔をしかめている姉の腕にも素早く解毒剤を注入した。
数分もすると、目の奥で明滅していたノイズと焼き切れるような熱がスッと引き、モヤがかかっていた視界が次第にクリアなトーンを取り戻していくのが分かった。
五デニールのシルバーグレーのストッキングが包む脚の皮膚感覚も、ようやく正常な温度を取り戻しつつある。
「……ふぅ。少しマシになったわ。あんたも大丈夫、菜々?」
「うん。なんとかね、お姉ちゃん」
私たちがホッと息をつき、互いの生存を確かめ合って抱き合おうとした、まさにその時だった。
ピリリリリリッ!
私のバッグの最奥で、業務用に支給されたスマートフォンが、地下空間の空気を裂くような甲高い着信音を鳴らした。
画面に表示されている文字は『田辺社長』。
私と姉は、顔を見合わせて同時に息を呑んだ。
この美脚市場の深い闇において、私たちの生殺与奪の権を完全に握っている、絶対的な支配者。
私は冷たくなった指先で通話ボタンをスワイプし、スマートフォンを耳に当てた。
「は、はい、菜々です」
『……遅いぞ。今まで何をしていた』
電話の向こうから、冷酷で、蛇のように粘着質な田辺社長の声が響いた。まるで耳元で毒蛇に囁かれたように、背筋に冷たい汗が伝う。
「申し訳ありません。ランウェイバトルの激しいダメージで、たった今、私と姉の意識が戻ったところでして……」
『言い訳はいい。お前たちに命令だ』
田辺社長は私の言葉を苛立たしげに遮り、有無を言わせぬトーンで一方的に用件を告げた。
『KLL……秘書のキララとのベース局通信が、先ほどから完全に途絶している。おそらく、戦闘(ランウェイバトル)で機体が激しく破損したのだろう。お前たちは今すぐ、キララを現場から回収し、東京のシタックス本社まで持ち帰れ』
「キ、キララを、回収ですか?」
『そうだ。あいつは我が社の最高機密の塊、何億もの研究開発費が注ぎ込まれた資産だ。教団や、アトランティスの連中にシステム基板を解析されるわけにはいかん。……もちろん、あいつがどんな無惨なスクラップ状態になっていても、だ。パーツ一個たりとも残すな。絶対に回収しろ。いいな?』
「は、はい……承知いたしました」
私がそう答えると、電話はブツリと、こちらの状況など一切考慮しない無情な音を立てて切られた。
「……田辺から? なんて言ってたの?」
姉が、鋭い目つきで私の顔を覗き込んできた。
「キララを現場から回収して、東京のシタックス本社まで持ってこいって。通信が途絶したから、たぶん壊れて動けないから探せって」
「はぁ!? あんな何十キロもあるような重たい女を、私たち二人に運べっていうの!? 冗談じゃないわよ、ふざけないで!」
姉は怒りに任せて、華奢なシルバーのピンヒールでクリスタルの床をガツンと強く蹴り上げた。
私も全くの同感だったけれど、田辺社長の命令には絶対に逆らえない。
私たちが華やかな芸能界の表舞台で『ミッドナイト・ビューティー・トーク』なんて冠番組を持って、同世代の女性たちの憧れの的として人気者になれたのも、裏でシタックスの莫大な資金力とメディア工作があったからだ。
逆らえば、私たちは一瞬にして全ての仕事を失い、多額の違約金を背負わされて社会的に抹殺されてしまう。
「とりあえず、探そうよお姉ちゃん。私たちが倒れた後も、あいつらと激しく戦ってたみたいだから、このフロアのどこかに倒れてるはずだよ」
私と姉は、鉛のように重い身体を引きずって立ち上がり、クリスタルのステージやその下のコンクリートのフロアを丹念に歩き回った。
そこには、私たちと同じようにシタックスから使い捨ての手駒として送り込まれたのであろう、五十人近い無数のドールたちが、まだ意識を失ってバタバタと折り重なるようにして倒れ伏していた。
ベージュやブラック、様々なデニールのストッキングが冷たい床に無残に晒されている。
しかし、いくら探しても、あの特徴的なダークグレーのタイトスーツを着た秘書、キララの姿はどこにも見当たらなかった。
「いないわね。……どういうこと?」
お姉ちゃんが、不思議そうに綺麗に切り揃えられたボブヘアの首を傾げる。
「もしかして……あいつらが持ち帰ったのかな?」
私は、現場の状況から考えられる唯一の推測を口にした。
「持ち去った? あいつらが、わざわざあんな不気味な秘書を? 一体何のために?」
「分からないけど……私たちと同じように、シタックスの裏の秘密や技術を探るためとかじゃないかな?」
だとしたら、非常に厄介だ。
あいつらが、この巨大な地下駅からどのルートを使ってどこへ逃げたのか、完全に意識を失っていた私たちには見当もつかないのだから。
「仕方ないわ。ここにいてもラチが明かないし、とりあえず外に出ましょう。どうせこの倒れてるモブ女たち(ドール)を起こしたところで、状況が分かってるわけもないし、何の役にも立たないしね」
姉の冷ややかな言葉に頷き、私たちは、先ほどまで戦闘のために天井に引き上げられていたのが嘘のように元に戻っているコンクリートの階段を上って、この血と香水の匂いが染みついた気味の悪い地下駅を後にした。
重い鉄の扉を開けて階段を上りきると、冬の朝の澄んだ、けれど身を切るように冷たい空気が頬を打った。
静魂寺の裏庭、寂れた墓地の近くだ。
周囲の木立を見渡しても、ここにもあいつらの姿はない。
私たちは、とりあえずお寺の敷地を抜け、人気のない静森町の商店街の方へと歩き出した。
「はぁ……。それにしても、キララが壊れたって、田辺はどうして遠く離れた東京本社からリアルタイムで分かったのかしら?」
姉さんが、寒そうに自身のロイヤルブルーのスパンコールドレスの二の腕をさすりながら愚痴をこぼした。
肩を完全に露出したオフショルダードレスと深いサイドスリットのドレスで、真冬の地方都市の商店街を歩くのは、いくら五デニールの極薄ストッキングで脚を美しく魅せることに慣れている私たちでも、物理的な寒さでかなりキツい。
あそこに倒れていたドールたちが着ていた地味なロングコートでも拝借してくればよかったと、今更ながら激しく後悔した。
「それはね、お姉ちゃん」
私は、自分のスマートフォンの画面を素早く操作しながら、少しだけ声を潜めて答えた。
「キララは、私がラボでハードウェアのメンテナンスを担当している『極秘のアンドロイド』だからね」
「えっ……? あんたが、あの秘書のメンテナンスを?」
姉さんは、目を丸くして足を止めた。
そう、世間の人は、もちろん芸能界のファンたちは誰も知らないけれど、私、渡辺菜々のもう一つの裏の顔。
それは、大学で最先端の機械工学と人工知能制御を専攻し、今でもシタックスの秘密開発施設でチーフエンジニアリングとして活動しているという、生粋の理系技術者の顔だ。
テレビのバラエティ番組でセクシーに脚を組み替え、愛想の良い笑顔を振りまくタレントとしての顔と、白衣を着てマイクロ基板と向き合うエンジニアとしての顔。
田辺社長は、私のその類まれな両面の才能を見込んで、我が社の最高機密であるKLL(キララ)の日常的なハードウェア調整と、複雑な関節駆動モーターの修理を私一人に任せていたのだ。
だからこそ、キララの精密な機体を完璧に直せるのは、この市場において私しかいない。
「うん。キララは、私の組み込んだ独自の暗号化キーがないと再起動すらできないようにプログラムされてるの。……あっ、見てお姉ちゃん。さっき地下駅から地上に出る鉄の扉の近くに、こんなものが落ちてたんだよ」
私は、コートのないドレスの小さなポケットから、先ほどそっと拾い上げてきた微細な部品を取り出して姉に見せた。
それは、強烈な高熱で焦げてひしゃげた、光学ガラスのレンズと、ナノレベルの配線が焼き切れた緑色の基板の破片だった。
「これ……キララの右目の特殊パーツだよ。完全にメイン基板からショートして焼け焦げてる。おそらく、あいつらの誰かの凄まじい物理的、あるいは静電気のような電磁的な攻撃で、眼球に組み込まれていた衛星通信機能と、体内に内蔵されていたGPS機能が根底から破壊されたんだと思う」
「眼球と一緒にGPSも……。だから、田辺からの追跡もできなくなって、急に通信が途絶えたのね。じゃあ、今のキララは自律思考もできず、完全に動けないただの鉄屑になってるってわけだ」
お姉ちゃんは、呆れたようにふうっと白く長い息を吐き出し、華奢なシルバーのアンクルストラップヒールでアスファルトを軽く叩いた。
「でも菜々、どうやってその広大な町から鉄屑を探し出すのよ? 機体のGPSが壊れてるなら、服や靴に仕込んだ予備のタグを追うしかないじゃない」
「それもないの。キララの機体は眼球のメインシステムに全てが集約されてるから、服や靴に予備のタグなんて仕込まれてないの。だから今は一切の信号が途絶えて、完全にオフラインなの」
「なるほどね……。じゃあ、あいつらがどの方向へ逃げたか、全く手がかりがないじゃない。……この寒空の下、あてずっぽうでゴミ拾いみたいに探す気?」
姉さんがイライラと、ダークブラウンの髪をかき上げる。
勝気なお姉ちゃんは、計画性のない無駄な徒労が一番嫌いなのだ。
「ふふっ。大丈夫だよ、お姉ちゃん。ちゃんと確実な『あて』はあるから」
私は、スマートフォンの画面を姉さんの目の前に突き出した。
高解像度の画面には、静森町の詳細なデジタルマップの上に、ピコン、ピコンと極めて正確な周期で点滅する、小さな赤い光のマーカーが表示されていた。
「なによこれ? ただのマップじゃない。……まさか、GPS?」
「大正解。……実はね、あの地下駅にいたシタックスのモブドールたちが履いていたパンプスやハイヒールのヒール内部に、私が事前に独自開発した『超小型ナノGPS発信機』を仕込んでおいたんだ。田辺社長にも完全に内緒で、過酷なバトル環境下でのドールたちの足圧分布や、無意識下の逃走歩行ルートのデータを収集するためのエンジニアとしての研究目的でね」
私は得意げに、コケティッシュな目元を細めてウィンクをした。
「でねお姉ちゃん、今、そのGPS発信機のうちのたった一つだけが、あの地下から地上へと移動して、ある特定の場所で完全に静止してるの。他のドールたちは全員あの地下のフロアで電池が切れたみたいに倒れてたはずなのに、一つだけ外に持ち出されてる。……これって、論理的にどういうことだと思う?」
お姉ちゃんの大きく印象的なアーモンドアイが、状況を瞬時に理解してハッと輝いた。
「……なるほどね。あいつらと一緒にいた、あの小娘、カオリとか呼ばれていたわね。あの子、私たちとランウェイで対峙した時、途中で自身のアイボリーのブーツを脱ぎ捨てて、ストッキングだけになっていたわ。だから……戦いのあと、素足じゃ外を歩けないから、フロアに倒れていたモブドールが履いていた、ヒールを、あの子が拾って履いて逃げたってことね!」
「そういうこと! ランウェイバトルのプレイヤーなら、絶対にヒールを履かずに街を歩いたりはしない。だから、このGPSの信号を追跡していけば、100%確実にあいつらのところに……そして、あいつらが運んでいるはずのキララの機体にも辿り着けるってわけ」
「やるじゃない、菜々! さすが私の自慢の妹、シタックス最高の天才エンジニアだわ!」
お姉ちゃんは満面の笑みで、私のボブヘアの頭を優しくポンポンと撫でてくれた。
お姉ちゃんにこうして認められ、頼りにされる瞬間が、私は何よりも嬉しい。
理系の計算と、プレイヤーとしての勘が完璧にリンクした、最高の追跡作戦。
GPSの赤い光点は、お寺の裏手からかなり距離のある、商店街をずっと抜けた先にある、雑居ビルのあたりでピタリと停止していた。
おそらくそこが、あいつらの隠れ家であり、現在の集結拠点なのだろう。
「よし、ターゲットと行き先は完全に確定したわね。さっさとあの鉄屑秘書を回収して、こんな田舎町におさらばして東京に帰るわよ」
私たちは、スマートフォンのGPS信号を頼りに、冬の静森町のメイン通りへと歩みを進めた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百四話:追跡のナノGPSと、ロイヤルブルーの姉妹 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
