境界線上の視線・「偽りの春編」春風の章・第三話:価値の証明、強者たちの遊戯
(視点:河野一郎)
テーブルの下で、私の革靴のつま先を軽く踏みつけた、彼女のエナメルのピンヒール。
その尖った先端から伝わってくる、冷たくも心地よい刺激。
そして、目の前でハーブティーのカップを弄(もてあそ)ぶ、駒田魔美のその暗く、深い瞳。
「なぜ、弾丸ではなく、『脚』なのか。…その恐ろしさを、河野さんにも理解していただきます」
彼女のその言葉は、冷徹な死神の宣告のようでもあり、私を未知の快楽へと誘う甘い呪文のようでもあった。
私は、息を呑み、彼女の次の言葉を待った。
この女は、私が知らない『深淵』を知っている。
この美脚市場(マーケット)という、金と欲望と狂気が渦巻く世界の、本当のルールを。
「…よく聞いてくださるかしら、河野さん」
駒田は、踏みつけていた私のつま先からピンヒールをゆっくりと離し、今度は自らの脚を優雅に組み替えた。
シュルッ。
極薄の5デニールのブラックパンストが擦れ合う、あの官能的な音が再び私の鼓膜を撫でる。
彼女の太腿の柔らかな肉づきと、引き締まったふくらはぎの筋肉の動きが、漆黒のヴェール越しに鮮明に浮かび上がる。
私は、額に滲む汗を拭うことも忘れ、その完璧な曲線に見入ってしまっていた。
「まず、大前提として理解していただきたいことがあります」
彼女は、私の視線を意に介する様子もなく、静かに語り始めた。
「このアトランティスが牛耳る美脚市場では、プレイヤー…つまり、ステージに立つ女たち一人一人に、『脚値(あしね)』という美脚価値が明確な数値として付けられているんです。脚値についてはご存じですわよね?」
「…ああ、もちろん。君が6億の脚値だということは君自身から聞いている。だが、その、脚値自体の本当の意味は、まだ知らないんだよ」
私は、脚値という言葉は、もちろん知っている。
だが、それは単に、アトランティスという組織が、美脚の基準値を決め、金にものを言わせ、自分たちがおいしい思いをできる仕組みを作ったのだろうと勝手に思っている。
「ただの評価点か何かか? コンテストの点数のような…」
「ふふ、そんな生ぬるいものではありませんわ」
駒田は、鼻で笑った。
「ええ、そうですね。分かりやすく言えば…プロスポーツ、例えばサッカーや野球でいう『移籍金』みたいなものですわ」
「移籍金…?」
私は、少しだけ身を乗り出した。金の話ならば、私にも理解しやすい。
「美脚市場に参入した人間は、『モデル』、もしくは『プレイヤー』と呼ばれたりもしていますわ。そして、プレイヤーのその脚の美しさに、莫大な金銭的価値が付くの。何千万、何億、時には何十億という、一般社会では考えられないような天文学的な数字がね」
駒田は、細い指で自らの太腿をそっと撫でた。
「ちなみに、私の脚値は…河野さんはご存じよね?」
「あ、ああ、以前君の口から聞いたよ。ろ、6億…だろ!?」
私は改めて自分で言いながら、絶句した。
目の前にある、黒いストッキングに包まれたこの脚二本に、6億円もの価値があるというのだ。
この施設『春風』の年間利益を遥かに超える額が、彼女のその脚に詰まっているという事実に、私は目眩(めまい)すら覚えた。
「ま、もちろん、この脚値は自分で勝手に名乗っているわけではありません」
駒田は、冷ややかに続けた。
「アトランティスの審査員が、ランウェイバトルでのプレイヤーのパフォーマンス…歩き方、脚の形、肌の質感、ストッキングの着こなし、そして放つオーラや『奥義』と呼ばれる特殊技術…それらを総合的に評価して、厳密に査定し、価値を付けているんです」
「アトランティスの審査員が…」
私は、その「審査」の光景を想像しようとした。
暗い地下室で、何億もの金が動く中、女たちが自らの脚の美しさを競い合う姿を。
「ですが」
駒田の瞳が、少しだけ険しくなった。
「その審査基準は、もちろん極秘です。アトランティスの深枢(しんすう)にいるごく一部の人間しか知り得ないブラックボックス。私も長年この市場にいますが、その審査基準に関して、詳しいことは一切知らないんですの」
「なるほど…」
私は、ようやくこの「ランウェイバトル」という狂気の儀式が持つ、一つの側面に気づき始めていた。
「ランウェイバトルは、単なる勝敗を決める戦いではない。…その『脚値』を決定し、変動させるための戦い、というわけだね?」
私の言葉に、駒田は満足そうに微笑んだ。
「ええ、半分正解ですわ。勝てば脚値は天井知らずに跳ね上がります。そして、その脚値こそが、この市場における絶対的な権力(ステータス)であり、流通する最大の『通貨』となるの」
「半分正解? では、残りの半分はなんだ?」
「負けた場合のことよ」
駒田は、ハーブティーのカップを静かにソーサーに戻した。
「実は、ランウェイバトルで負けたからといって、基本的にはそのプレイヤーの脚値が下がることはありませんのよ」
「下がらない? ならば、負けるリスクはないということではないか」
私が不思議そうに尋ねると、駒田は心底おかしそうにくすくすと笑った。
「リスクがない? ふふふ…とんでもない。ある意味で、命を失うよりも残酷な地獄が待っていますわ」
駒田の瞳が、暗い愉悦の色に染まる。
「考えてもみてください。自らの『美』こそが絶対の価値だと信じ、極限まで磨き上げた脚を誇示してステージに立つ女たち。そのプライドは、エベレストよりも高く、ダイヤモンドよりも硬い。 …それが、衆人環視のステージの上で、自分より圧倒的に美しい相手のパフォーマンスによって完全にねじ伏せられ、徹底的に否定されるのです。 その瞬間、敗者のプライドは、巨大なハンマーで叩き割られたガラス細工のように、粉々に…いいえ、細胞レベルまで原型を留めないほどに、ずたずたに引き裂かれます。 無慈悲なスポットライトの下で浴びる、観客からの冷酷な嘲笑。勝者からの虫ケラを見るような憐れみの視線。自分自身の『美』というアイデンティティが、絶対的な敗北の烙印を押されたという逃れようのない事実。 …それは、女としての自尊心を根こそぎ剥ぎ取られ、泥水の中で豚のように踏みにじられ、存在意義そのものを否定されるに等しい、凄絶な屈辱。 精神は完全に崩壊し、誇りだった自らの脚を呪い、二度とハイヒールを履いて立ち上がれなくなるほどの、致命的で永遠のトラウマを脳髄に刻み込まれる。 …脚値という『数字』は下がらなくても、プレイヤーとしての『魂』が修復不可能に破壊されるのよ。それこそが、ランウェイバトルにおける真の『敗北』ですわ」
そのおぞましい、しかしあまりにも扇情的な敗北の描写に、私は背筋が凍るような、それでいて下腹部が熱くなるような倒錯した感覚を覚えた。
「しかし、だ」
私は、まだ引っかかっている疑問を口にした。
「それでも、だ。どうしても目障りな奴、邪魔な奴が出てきて、一刻も早く物理的に排除したいと思うことだって、あるんじゃないのか? 例えば、我々が今対峙している白鳥和也たちのように。 ランウェイなどという悠長なことをしている間に、重要な秘密を暴かれたら元も子もない」
私は、テーブルの上で両手を組み、駒田を見据えた。
「金と権力があるのなら、裏のルートで武器を調達し、物理的に消し去った方が確実で手っ取り早い。…そう考える人間がいても、おかしくないだろう?」
私の問いに、駒田はフッと息を吐いた。
「当然、それはあるでしょうね」
彼女は、少しだけ声を潜めた。
「現に、一部の者は、ランウェイバトルという神聖な場に、ナイフやスタンガン、あるいは毒物などの『武器』を持ち込んでいる輩もいると聞いています」
「ほほう」
私は身を乗り出した。
「やはり、そういうルール違反をする実力行使派もいるのだな。ならば、我々も…」
「ですが、河野さん」
駒田は、私の浅はかな考えを、冷たい一瞥(いちべつ)で切り捨てた。
「そういう『反則』を犯せるのは、そこらのチンピラや三流の殺し屋ではありません。 …むしろ、逆よ」
「逆?」
「ええ」
駒田は、その漆黒の脚を再び組み直し、私にさらなる深淵を覗かせた。
「そのルール違反ができるのは…アトランティスの内情、そしてこの美脚市場の裏の裏までを、誰よりもよく理解している者だと思いますわ」
「どういう意味だ?」
「アトランティスという巨大組織の『弱み』を知り尽くし、美脚市場がどのようにして成り立ってきたのかという『歴史』を深く理解している。 …だからこそ、アトランティスが科すであろう恐ろしい『ペナルティ』を、少しも恐れていない。 いや、恐れないだけの圧倒的な実力と、権力を持っている。 …いわば、この市場における『強者の振る舞い』が許される、特別な存在」
彼女の目が、微かな畏怖の色を帯びて細められた。
「プレイヤーたちから恐怖と、そして『信仰』の対象として崇められるような…ほんの一握りの、限られた特権階級の人間だけです。 …そういった化け物たちだけが、平然とルールを破り、ランウェイに血を降らせることができるのよ」
(限られた特権階級の人間…プレイヤーたちからの信仰の対象…)
私は、その駒田の言葉を聞いて、恐怖よりも先に、ある強烈な感情が胸の奥で燃え上がるのを感じていた。
(…なんという…なんという魅力的な響きだ…)
私は、テーブルの下で、ゴクリと唾を飲み込んだ。
目の前の駒田魔美でさえ、6億という圧倒的な価値を持ち、私を意のままに操るほどの美貌と色気を誇っている。
その彼女でさえ、畏怖の念を抱くような「特権階級の女」。
(…そんな女が、この世にいるというのか…)
私の脳裏に、黒いドレスに身を包み、血塗られたピンヒールでランウェイを闊歩(かっぽ)する、顔のない「女王」の姿が浮かび上がった。
彼女の脚は、どれほどのデニールのストッキングに包まれているのだろうか。
どれほど冷たく、そして狂おしいほどの美しさを放っているのだろうか。
(…見てみたい…)
私の心の奥底に巣食う、歪んだ欲望が鎌首をもたげる。
(…そんな女の脚を、この目で見てみたい。…いや、見るだけじゃない。その冷酷な脚に踏みつけられ、その足首を掴み、私のこの手で直接触れてみたい…!)
私は、自分が完全にこの市場の「毒」に冒されていることを自覚していた。
しかし、もう引き返すことはできない。
この果てしない美脚と欲望の迷宮で、私はより高い地位を手に入れ、より美しい脚を我が物にしなければならないのだ。
「…なるほどな」
私は、必死に平静を装い、呼吸を整えた。
「だが、そんな特権階級の化け物たちは例外として。…大半の普通のプレイヤーたちは、なぜ素直にランウェイのルールに従っているのだ? 勝てば天国、負ければ地獄。そんな極端な世界に、なぜ自ら足を踏み入れる?」
私の問いに、駒田は少しだけ悲しげな、あるいは同情を含んだような笑みを浮かべた。
「ランウェイバトルにはね、河野さん。本当に様々な事情を抱えた女たちが集まってくるんです」
彼女は、窓の外の木漏れ日を眺めるように目を細めた。
「莫大な富と名声を求めて、自ら野心を持って参入を希望する者。 アトランティスの会長や、組織の幹部たちにその美脚を『魅入られ』、半ば強制的に引きずり込まれた者。 …そして、貧困や借金、あるいは犯罪絡みの過去の生い立ちから、生きるために参入を『余儀なくされた』者など… 一人一人、背負っている十字架の重さが違うのよ」
「おおー、そうだろうな」
私は、その言葉を聞いて、ある絶好の「獲物」たちのことを思い出し、思わず下卑た笑みを漏らしてしまった。
「今度、クリスマスにこの施設にやってくる、あの4人の女囚人たちもそうだ。彼女たちも、元モデルでありながら麻薬で堕ちた。 …どんな悲惨な事情があってこの市場に参入し、そして刑務所行きになったのか。…ぜひ、彼女たちの口から直接、たっぷりと聞いてみたいものだ」
私は、頭の中で、すでにその4人を私のオフィスに呼び出し、尋問している光景を思い描いていた。
(…過去の罪や弱みを握り、脅迫の道具にする。そうすれば、そいつらの美脚たちは私の意のままに動く完璧な「駒」になる。…ふふふ、楽しみで仕方がない)
私のその邪悪な魂胆は、駒田には見え見えだったのだろう。
彼女は、呆れたような、しかし私の悪党ぶりを評価するような目で私を見た。
「…ええ、そうですね。彼女たちも、それぞれ深い事情を抱えているはずです。 …そして、ここからが重要なのですが」
駒田は、再び声のトーンを落とし、私に身を乗り出した。
「ランウェイバトルには、過去にどんな犯罪歴があろうと、どんな惨めな事情があろうとも…『脚値』が付く以上、這い上がるチャンスが『平等』に与えられているのです」
「平等に…?」
「ええ。美脚の価値こそがすべての世界。そこには、家柄も、学歴も、前科も関係ない。 ステージの上で、自らの脚の美しさとパフォーマンスで審査員を唸らせさえすれば、昨日までのホームレスが、今日には何億という価値を持つ女王へと成り上がることができる。 …それは、表社会の『アメリカンドリーム』や『一攫千金』という言葉では生ぬるいくらいの、狂気じみたチャンスですから」
駒田の言葉には、熱がこもっていた。
彼女自身も裏社会の組織から、自らの美脚一つでのし上がってきた女だ。
その言葉の重みは、本物だった。
「だからこそ」
彼女は、鋭い視線で私を射抜いた。
「プレイヤーたちは、一時の感情で相手を殺してしまったりはしないのです。 もし相手を物理的に排除してしまえば、自分自身もルール違反で追放され、その『這い上がるチャンス』が、一瞬にして永遠に失われてしまう。 自分がのし上がるための最高の舞台(ステージ)を、自らの手で汚すような愚かな真似はしない。 …それをみんな、骨の髄まで理解しているので、絶対に、ランウェイバトルにおいて相手を殺したりはしないのです」
「…なるほど」
私は、深く納得した。
彼女たちの原動力は、殺意や憎悪よりも遥かに強い、「己の美しさによる究極の承認欲求と上昇志向」。
それが、この血生臭い市場に、奇妙な秩序とルールをもたらしているのだ。
「それに」
駒田は、最後に付け加えるように、ポツリと言った。
「…アトランティスがルール違反者に科す『ペナルティ』が、あまりにも恐ろしいということも、最大の抑止力になっていますから」
「ペナルティ…」
私は、その単語に背筋が寒くなるのを感じた。
あの巨大な闇組織が、ルールを破った者に与える罰。
それが単なる「死」でないことは、容易に想像がつく。
「…ふむふむ、よくわかったよ、魔美君」
私は、自分の動揺を隠すように、大げさに頷き、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「君の説明のおかげで、この市場の異常な熱気と、ランウェイバトルの真の意味が、ようやく腑に落ちたよ」
私は、空になったカップをソーサーに置き、駒田の顔を真っ直ぐに見つめた。
「しかし、だ。私にはまだ、知りたいことがある」
「なんでしょうか?」
「一つは、今君が言った、アトランティスの『ペナルティ』についてだ。ルールを破った者には、一体どんな地獄が待っているというのだ? そしてもう一つは…君が先ほど言っていた、美脚市場の『歴史』というやつだ。 なぜ、このような狂った市場が生まれ、そしてここまで巨大化したのか。 …魔美君は、その深淵を知っているのか?」
私の問いに、駒田はしばらくの間、黙って私を見つめ返した。
彼女のその漆黒の瞳の奥に、過去の凄惨な記憶の断片が、一瞬だけよぎったように見えた。
やがて、彼女は小さくため息をつき、静かに首を縦に振った。
「…ええ。私も、アトランティスの中枢にいるわけではないので、詳しくは知りませんが…」
彼女は、テーブルの上のハーブティーのカップの縁を、細い指でなぞりながら言った。
「私がこれまでに見てきたこと、そして、裏社会で語り継がれている噂として…知っていることは、お話ししますわ」
影の宝石箱(レクラン・ド・ロンブル)という名の密室で。
私は、悪魔の申し女が語る、美脚市場の血塗られた歴史と、絶対的な恐怖の掟を、聞くことになった。
(境界線上の視線・「偽りの春編」春風の章・第三話:価値の証明、強者たちの遊戯 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
