境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第七十九話:神楽の覚醒、五十鈴の音色と涙の階段
(視点:若鷺サクラ)
ゴゴゴゴゴゴ……ッ。
重厚な機械音を立てて、コンクリートの階段が再び床へと繋がった。
白く濁った煙幕の向こう側、薄暗い地下処刑場と地上を繋ぐ唯一の退路。
美瑠来ちゃんが、自身の限界を迎えながらも、気絶した姉さんの身体をしっかりと支え、その階段の数歩手前まで辿り着いていた。
「サクラちゃん!」
美瑠来ちゃんの切羽詰まった声が、静かな地下空間に響く。
「サクラちゃんも、早くこっちへ!」
彼女の悲痛な呼びかけに、私はアイボリーのレースアップブーツを一歩だけ後ろへ引いた。
逃げたい。
今すぐ姉さんのところに駆け寄って、あの温かい階段を上って、この狂った世界から抜け出したい。
けれど、私の足はそれ以上、後ろへ下がることはできなかった。
「……ごめん、美瑠来ちゃん」
私は、荒い息を吐きながら、首を横に振った。
「まだ、そっちには行けない」
私の視線の先には、ステージの中央で満身創痍となって倒れ伏している可憐さんの姿がある。
そして、その可憐さんを守るかのように……いや、私を完全にこの場に釘付けにするために、一人の美しい女性が立ちはだかっていた。
「……可憐さんがいる。そして、なにより……目の前の遥さんが、通してはくれないと思うから」
武田遥。
ネイビーのジャケットと、白いフリルのミニワンピース。
五デニールのシアーブラックに包まれた脚を、冷酷で完璧な角度で交差させている、六億八千万の現役モデル。
彼女の目は、私を「逃げる獲物」としてではなく、これから確実に仕留める「排除対象」として、冷たく射抜いていた。
「ふふ……」
遥さんは、私の言葉を聞いて、氷のような冷ややかな笑みを浮かべた。
「分かっているのね、自分の状況が。……潔い覚悟ね」
遥さんは、私と美瑠来ちゃんたちを完全に分断していた。
私が階段に向かって背中を見せれば、その瞬間に彼女の奥義が私の背後から襲いかかり、私の意識は完全に刈り取られるだろう。
絶望的な戦力差。
二億台の私が、無傷の六億八千万に立ち向かうなど、どう考えても無謀だ。
その時だった。
「……サクラ」
背後から、ひどく掠れた、けれど芯のある強い声が響いた。
可憐さんだった。
彼女は、漆黒のサイハイブーツの膝を折り、床に片手をついた瀕死の状態のまま、私に向かって顔を上げていた。
「お前なら……必ず、二人の元へ行ける。自分を信じろ」
「可憐さん……」
「今の遥なんかに、負けはしない。……私が、保証する。だから……私の事は、気にするな」
七億の匠からの、最上級の励まし。
その声には、自分自身の命すらも投げ打って、私たちを未来へ繋ごうとする悲壮な決意が込められていた。
可憐さんは、私に「逃げるための戦い」を許可してくれたのだ。
私は、ポロポロと溢れそうになる涙を必死に堪え、ミントグリーンのフレアワンピースの裾をギュッと強く握りしめた。
「可憐さん……ありがとう」
私は、アイボリーのレースアップブーツで、クリスタルの床を強く踏みしめた。
後ろへ下がる足はもうない。
私は、六億八千万という途方もない数字を持つ遥さんに向かって、真っ直ぐに顔を上げた。
「……行くよ」
私の宣言に、遥さんはシアーブラックの脚を艶めかしく揺らし、微かに片眉を上げた。
「お前の技は、すでにさっき見ているわ」
遥さんの声には、絶対的な余裕が満ちていた。
「純粋な光の舞……だったかしら。でも、私の『紫陽花の傘』は、どんな視覚的暴力も乱反射させて無効化する防御技よ。たかだか二億のお前が、私の防御を崩せると思っているの?」
確かに、遥さんの言う通りだ。
ランウェイバトルにおいて、視覚から相手を魅了するポージングやウォーキングは、彼女のフリルの重なりとシアーブラックの陰影が生み出す「防御の傘」によって、完全に遮断されてしまう。
けれど、私は決して引かなかった。
「……可憐さんの犠牲は、絶対に無駄にしない」
私の声が、自分でも驚くほど静かに、そして低く響いた。
その瞬間、私の遥か後方の白い煙幕の中から、ギクシャクとした二つの足音が迫ってきているのを、私の『神楽』の感覚が鮮明に捉えていた。
先ほどママを沈めた、ゾンビ状態の来栖姉妹だ。
彼女たちは、次の標的を遥さんと私に定め、不気味なスピードで背後から迫ってきている。
普通なら、背後から四億の死神が迫り、目の前に六億の壁が立ち塞がるという、最悪の挟み撃ちだ。
しかし、今の私の研ぎ澄まされた感覚は、その後ろから迫るシャドウ・グレーの足音の「リズム」すらも、自らの舞の一部として取り込んでいた。
「奥義『神楽の舞・五十鈴落とし(いすずおとし)』!!」
私は、アイボリーのブーツで床を強く弾き、大きく跳躍した。
そして、着地と同時に、ブーツのヒールでクリスタルの床を「カンッ! カンッ!」と、極めて鋭く、特殊なリズムで打ち鳴らし始めたのだ。
「な……?」
遥さんが怪訝な顔をする。
私のフレアワンピースの裾が激しく翻り、五デニールのピュアベージュの脚が交差する。
しかし、この奥義の真髄は「視覚」ではない。
カンッ! タンッ! タタタンッ!
私のヒールが打ち鳴らす音。
フレアワンピースの衣擦れの音。
そして、背後から迫る来栖姉妹の足音。
それらが私のステップによって一つに統合され、まるで神社の境内で打ち鳴らされる「神楽鈴(五十鈴)」のような、高く、澄んだ、けれど脳の髄を直接揺さぶるような『妖艶な音の波』となって、地下空間に響き渡ったのだ。
「うっ……こ、こんなことって!?」
遥さんが、咄嗟に『妖艶な音の波』を塞ごうと、視覚をブロックする『紫陽花の傘』を試みる。
しかし、彼女の防御は「目」に対するものであり、「耳」から直接入り込む音の暴力に対しては完全に無防備だった。
神楽鈴の音色は、遥さんの鼓膜を通り抜け、彼女の三半規管と快楽中枢を直接共鳴させ始めた。
(武田遥の心:……ば、馬鹿な! 音が……音が頭の中で反響して、フリルの乱反射の計算が……崩れる……! 視界が、揺れて……!)
遥さんの防御の姿勢が、激しい音の波によって内側から崩されていく。
白いフリルのワンピースの揺れが不規則になり、シアーブラックの陰影のコントロールが完全に乱れた。
そして。 私自身の中にも、劇的な変化が起きていた。
『五十鈴落とし』の神聖な音の波が私自身の体内を駆け巡り、ヴィーナスの毒の影響で真っ赤に充血していた私の白目から、みるみるうちに赤みが引いていったのだ。
視界が、信じられないほどクリアになる。
身体の重さは変わらない。
体力はもう限界ギリギリのままだ。
けれど、精神の境界線が完全に修復され、私の『神楽』という血統の力が、これまでになく澄み切った状態で「覚醒」を果たしたのだ。
「……見える」
私には、遥さんの防御の傘が完全に剥がれ落ち、彼女のシアーブラックの脚が最も無防備になる瞬間が、手に取るように分かった。
「これで……っ!」
私は、ステップの軌道を変え、そのまま息を深く吸い込んだ。
そして、私の身体は、先ほど見たばかりの「あの歩き方」を、無意識のうちに、けれど完璧に近い精度でトレースし始めた。
奥義そのものを丸ごとコピーするような離れ業は、仲間のカオリさんの特権だ。
けれど、私には私の『神楽』が持つもう一つの能力がある。
それは、基礎的なウォーキングやターンの『完全模倣(トレース)』。
私は、アイボリーのブーツでクリスタルの床をカツン、カツンと正確なリズムで叩き始めた。
それは、つい先ほど、七億のトッププレイヤーである山田可憐さんが見せた、一切の無駄を削ぎ落とした「狩りのウォーキング」の、完全なるコピーだった。
「なっ……!?」
遥さんの目が、信じられないものを見るように見開かれた。
目の前にいるのは二億の小娘のはずなのに、その歩みから放たれるプレッシャーは、七億の山田可憐そのものだったからだ。
私には、可憐さんのような絶対的な女王のオーラを纏うことはできない。
だから、本来の可憐さんのウォーキングの圧力には遠く及ばない。
しかし、覚醒した神楽の清浄なオーラと、ピュアベージュのストッキングが描き出す純粋無垢な直線の軌跡は、音の波で防御を崩された遥さんの脳裏に、極めて鋭い刃となって直撃した。
「ウァァァァァッ……!!」
遥さんの口から、絶叫が漏れた。
彼女は両手で顔を覆い、ネイビーのジャケットを乱れさせながら、ついにクリスタルの床へと両膝をついたのだ。
六億八千万の現役モデルが、私の模倣技の前に、完全に体勢を崩した。
「やった……!」
私は、確かな手応えを感じて、そのまま遥さんの横をすり抜けようとした。 今なら、あの階段へ行ける!
……しかし。
「ぐっ……あぁっ……!」
私の脚が、床に縫い付けられたように動かなくなった。
激しい目眩が襲い、私はたまらずその場に片膝をついてしまった。
無理もない。
二億の私が、自身の限界を超えた『五十鈴落とし』を放ち、さらに間髪入れずに七億のウォーキングを模倣するという、人間離れした連続攻撃を行ったのだ。
精神は覚醒していても、肉体はすでに限界をはるかに通り越していた。
呼吸が浅くなり、アイボリーのブーツが鉛のように重い。
せっかく遥さんの体勢を崩した絶好のチャンスだというのに、私はその場から一歩も動けずに、ただ荒い息を繰り返すことしかできなかった。
「……はぁっ……はぁっ……」
目の前で膝をついていた遥さんが、乱れた髪の隙間から、赤い充血を帯びた目で私を睨みつけていた。
「……なにを、しているの……。階段を目指すなら、今が絶好のチャンスだというのに……。連続攻撃の反動で、動けずにいるとはな……」
遥さんは、フラフラとしながらも、自らの身体を再び引き起こそうとしている。
彼女のダメージは大きいが、意識を刈り取るまでには至っていなかったのだ。
「……ち、違う……」
私は、震える唇で呟いた。
動けないのは、体力の限界だけが理由じゃなかった。
私の心の中に、一筋の「迷い」が生まれていたのだ。
今、ママは深刻なショック状態で膝をついたまま動けないでいる。
そして遥さんも、同じようにすぐには立ち上がれない状態だ。
(……今なら。今なら、可憐さんに肩を貸して、四人で一緒に脱出できるんじゃないか……?)
その後ろめたい希望が、私の足を階段ではなく、可憐さんのいる方向へと向かわせようと呪縛していた。
可憐さんを見捨てて逃げるなんて、どうしてもできなかった。
私は、引きずるようにして可憐さんの方へと顔を向けた。
「可憐さん……! 今なら、ママも遥さんも、動けません! なんとか、こちらまで来ることはできませんか……! 一緒に……!」
私が涙声で叫ぶと、可憐さんは、漆黒のサイハイブーツで床を擦りながら、苦しげに顔を歪めた。
「……サクラ。私のことなど……放っておけ」
可憐さんの声は、冷徹なほどに揺るぎなかった。
「それより、お前が脱出することが第一だ。……それに、こいつらが来る」
「でも……!」
可憐さんの視線の先には、ゾンビ状態の来栖姉妹が、再び不気味な足音を立てて私たちの方へと迫ってきているのが見えた。
私の『五十鈴落とし』の音で一時的に方向感覚を失っていた双子が、再び標的を再設定したのだ。
…しかし、先ほどからなぜ、味方であるはずのゾンビ状態の来栖姉妹が、命令主の可憐さんや私を標的にしているのか?
私にも、その不可思議な現象の理由までは分からなかった。
「……念のためだ」
可憐さんは、私の言葉を遮るように呟くと、漆黒のドレスのポケットから、さらに『三本』の煙草を取り出した。
そして、そのボロボロの、血を吐きそうな身体で、三本の煙草を同時に口にくわえ、ライターで火をつけたのだ。
シュボッ。
「かれんさんっ! もうダメです、これ以上吸ったら……!」
私が悲鳴を上げるのを無視して、可憐さんは、最後の命を削るかのように、煙草の煙を極限まで肺に吸い込んだ。
そして。
「ふぅーーーーーーッ!!」
可憐さんの口から、先ほどよりもさらに濃密で、そして……明らかに不吉な紫色を帯びた大量の煙が吐き出されたのだ。
煙はあっという間に広がり、可憐さん自身の姿を、そして迫り来る来栖姉妹の姿を、完全に真っ白な壁の向こうへと隠してしまった。
「ゲホッ、ゴホッ……! サクラ、聞け」
煙の向こう側から、可憐さんの咳き込む声が聞こえる。
「この煙には……先ほどの、『神の脚』の香りが大量に含まれている。……それだけじゃない、私の特殊な煙と混ざり、皮膚からも入り込むぞ。早くいかないと、お前も巻き込まれて、頭がおかしくなるぞ」
「えっ……!?」
私は絶句した。
神の脚の香りと……特殊な煙?
…神の脚の香りだけなら、神楽持ちの私には効かない、でも、その毒が皮膚から侵入されては、さすがに防ぎようがない。
そうだ、可憐さんは先ほど、倒れた加奈さんの近くに身をかがめていた。
あの時、彼女は来栖姉妹を操るスマホを奪っただけでなく、加奈さんのポケットから『神の脚』のお香の残骸そのものを探し出していたのだ。
そして今、そのお香を煙草の葉に混ぜ込み、自らの肺を犠牲にして、最強最悪の「毒の煙幕」を作り出したのだ。
「どうして……可憐さん、こんなことを……!!」
私は、煙の向こう側に向かって叫んだ。
そんなことをすれば、可憐さん自身の脳も完全に破壊されてしまう。
「……行くんだサクラ!!」
可憐さんの、最後にして最大の怒号が、地下空間を震わせた。
その声に含まれた絶対的な「命令」と、ジワリと私の肌に迫ってくる『神の脚』の猛毒の気配。
私の身体は、理性を超えた生存本能によって、強制的に立ち上がらされた。
「あ……あぁ……っ!」
私は、アイボリーのブーツで床を蹴り、階段の方へと走り出した。
逃げるしかない、逃げなければいけない。
可憐さんの命を懸けた壁を、無駄にしてはいけない。
「可憐さん! 可憐さんっ……!!」
私は、何度も何度も可憐さんの名前を叫びながら、顔を涙でぐしゃぐしゃにして、コンクリートの階段の下まで辿り着いた。
そこには、気絶した姉さんを抱き抱えるようにして支えている、美瑠来ちゃんが待っていた。
「サクラちゃん!」
美瑠来ちゃんは、私の無事な姿を見て、ホッと息を吐き出した。
けれど、私の背後から迫ってくる紫色の煙の恐ろしさに気づき、すぐに表情を引き締めた。
「サクラちゃん、今は可憐さんの犠牲を無駄にしないで。……行きましょう」
美瑠来ちゃんが、姉さんを支えながら階段を上り始めようとする。
「私……嫌だよ……っ」
私は、階段の冷たい手すりにしがみつき、ポロポロと涙をこぼした。
「可憐さんだけ置いていくなんて……。あんなに、あんなに私たちのために身を挺してくれたのに……っ!」
私の泣き言に、美瑠来ちゃんは階段の途中で足を止め、オレンジ色のストール越しに、私を真っ直ぐに見下ろした。
その瞳は、優しく、けれど鋼のように強かった。
「しっかりして、サクラちゃん」
美瑠来ちゃんの声が、私の胸に静かに染み込んでくる。
「私たちさえ無事なら……このあと、可憐さんを助けるチャンスは、必ず来るから。……その時まで、我慢して」
美瑠来ちゃんの言葉。
それは、何の根拠もない慰めなんかじゃなかった。
アトランティスの審査員としてではなく、この歪んだ市場を内側から崩すための、確かな仲間の決意だった。
「……うん……っ」
私は、涙を服の袖で乱暴に拭い、力強く頷いた。
「必ず……助ける」
私は、姉さんの反対側の肩を支え、美瑠来ちゃんと一緒に、冷たいコンクリートの階段を上り始めた。
一歩、また一歩、背後からは、紫色の煙に巻かれた遥さんの微かな咳き込む声と、来栖姉妹の足音だけが遠く聞こえていた。
静森町の地下、狂気と絶望のランウェイ。
私たちは、一人の偉大な匠の犠牲の上に、ようやく希望の地上へと続く扉を押し開けたのだった。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第七十九話:神楽の覚醒、五十鈴の音色と涙の階段 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
