境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第八十話:朝の密会、静魂寺の長い影
(視点:鈴木カオリ)
静森町の朝は、東京のそれとは全く違う冷たさを持っていた。
肺の奥まで澄み渡るような、少しだけ湿気を帯びた冬の空気。
午前八時五十分。
私は、宿泊している『ホテル・グランド』の広々としたロビーに降り立っていた。
工藤来夏さんとの待ち合わせ時間は九時ちょうどだから、十分前の到着だ。
社会人としての基本でもあるし、何より、あの「七億の匠」である工藤さんを待たせるわけにはいかない。
私は、ロビーの隅にあるふかふかのソファに腰を下ろし、今日の自分の服装を改めて確認した。
待ち合わせとはいえ、今日はどんな場所に行くのか全く聞いていない。
だから、歩きやすさを重視しつつも、女性らしい華やかさを忘れないコーディネートを心がけた。
髪は、高めの位置で元気よくポニーテールにまとめている。
アウターには、温かみのあるキャメル色のショート丈ダッフルコート。
その下には、白のリブニットと、ボルドーのタータンチェック柄のフレアミニスカートを合わせている。
そして、脚にはもちろん、私の勝負アイテムである『五デニール・ヌードベージュ』のストッキング。
極薄のナイロンの膜が、冷たい朝の空気をわずかに通しながらも、私の素肌に化粧を施したような均一な滑らかさを与えてくれている。
足元に選んだのは、ダークブラウンの上質なレザーで作られたロングブーツ。
歩きやすい太めのミドルヒールだけれど、ふくらはぎの外側に沿ってゴールドのサイドファスナーが真っ直ぐに輝いており、カジュアルな中にもピリッとした大人のアクセントを添えている。
「ふぅ……よし。準備万端」
私は小さく息を吐き、姿勢を正した。
昨夜の話し合いで、私たちは本当の意味での同盟関係を結んだ。
工藤さんの抱える悲しい過去、妹である風花さんのこと、そしてかつての弟子である春野千春さんのこと。
それを聞いたからこそ、私は今日という日を、特別な思いで迎えていた。
時計の針が、八時五十八分を指した。
「……あっ」
ホテルのフロント裏、従業員用の通路から続く扉が開き、一人の女性がロビーに姿を現した。
工藤来夏さんだった。
昨日の夜に見せたワインレッドのワンピース姿や、コンシェルジュの制服姿とは全く違う、オフの日の、完全なプライベートスタイル。
思わず、見とれてしまった。
工藤さんの美しい黒髪は、首筋をすっきりと見せる洗練されたショートボブに整えられている。
羽織っているのは、仕立ての良さが一目でわかる、上質な漆黒のロングトレンチコート。
前を開けたコートの中から覗くのは、深いエメラルドグリーンのタイトなハイネックニットワンピースだ。
体のラインに吸い付くようなデザインが、彼女の豊満でありながら無駄のないプロポーションを際立たせている。
そして、コートの裾とワンピースの間から伸びる脚。
『五デニールの極薄ブラック』。
シアーブラックと呼ばれるそのストッキングは、彼女の透き通るような白い肌を覆い隠すどころか、絶妙な陰影を作り出し、彫刻のように研ぎ澄まされたふくらはぎの筋肉をこれ見よがしに主張していた。
足元は、黒のエナメルで作られたポインテッドトゥのパンプス。
足首には細いアンクルストラップが巻き付き、彼女の歩みとともに鋭いピンヒールが、ロビーの大理石の床をカツン、カツンと冷徹に叩く。
七億のプレイヤーが放つ、歩くたびに空気を切り裂くような圧倒的な色気と威圧感。
「待たせたなカオリ、すまない」
工藤さんは私の前に立つと、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「いえ、私も今来たところです」
私はソファから立ち上がり、にっこりと笑って答えた。
十分前から待っていたけれど、そんなことは言わない。
これも大人のマナーだ。
「そうか。……じゃあ行くか」
工藤さんは、短くそれだけ言うと、踵を返してエントランスの方へと歩き出そうとした。
「あっ、工藤さん!」
私は、慌てて彼女の横に並び、少しだけ上目遣いで尋ねた。
「昨日言っていた、デート? ですね!」
昨夜からずっと、その響きに少しだけワクワクしていたのだ。
美しい大人の女性と休日の朝から一緒にお出かけするなんて、まるでドラマみたいじゃないか。
しかし、工藤さんはピタリと足を止め、私を見下ろして呆れたようにため息をついた。
「デート? 私とお前が? ……女同士だぞ、私にそんな趣味はないぞ」
至極真っ当な、そして身も蓋もないマジレス。
「す、すいません、私が勝手に解釈しちゃいました! えへへ」
私は照れ隠しに笑いながら、頭をかいた。
工藤さんはそんな私の様子を見て、少しだけ口角を上げると、再び歩き出した。
私たちはホテルを出て、静森町の町並みを歩き始めた。
町はまだ本格的に動き出しておらず、シャッターの閉まった商店街や、ひっそりとした住宅街を通り抜けていく。
工藤さんは歩くのが速い、ピンヒールを履いているにもかかわらず、その足取りは全くブレず、一歩のストライドが広い。
私はサイドファスナー付きのロングブーツで、小走りに近いペースで彼女の後ろをついていくことになった。
「あの、工藤さん。今日はどこへ行くんですか?」
歩き始めて四十分ほど経った頃、私は息を切らしながら背中に向かって尋ねた。
「もう少しだ。……お前は歩きやすい靴で来て正解だったな」
工藤さんは振り返ることなく、淡々と答えるだけだった。
さらに歩き続けること、トータルで五十分。
町のはずれ、少し小高い丘のようになっている場所に、私たちは辿り着いた。
そこには、うっそうと茂る木々に囲まれた、立派な瓦葺きの山門があった。
古い木造の建築には歴史の重みが感じられ、冷たい朝の空気がさらに一段階、引き締まったように思えた。
「……ここだ」
工藤さんが立ち止まり、山門を見上げた。
そこには、『静魂寺(せいこんじ)』と彫られた古い木の看板が掲げられていた。
「お寺? ですか?」
私が驚いて尋ねると、工藤さんは静かに頷いた。
「ああ。……ここの住職には、風花の件で世話になってな」
風花さん。
工藤さんの妹であり、ランウェイバトルの果てに命を落としたという女性。
その言葉を聞いて、私はハッとした。
デートなんて浮かれたことを言っている場合じゃなかったのだ。
工藤さんは今日、妹さんの供養か、あるいはそれに類する大切な用事のために私をここに連れてきたのだ。
「そうだったんですね……」
私が居住まいを正した、その時だった。
「……あれ?」
静魂寺の立派な山門の奥、綺麗に掃き清められた石畳の参道の向こうから、二人の人影が歩いてくるのが見えた。
一人は、作務衣のようなものを着た、恰幅の良い初老の男性、おそらくこのお寺の住職だろう。
そして、もう一人の人影を見て、私は思わず声を上げそうになった。
グレーのスーツに、几帳面に整えられた髪。
そして、少し神経質そうに光る眼鏡。
「鈴木さん」
こちらに気づいたその男性、伊達正彦さんが、驚いたような顔をして、足早に私たちの元へと歩いてきたのだ。
「伊達さん!? どうしてこんなところに……」
同じホテルに泊まっている伊達さん。
彼は、独自の調査で動いているのだけれど、昨日に続き、まさかこの町外れのお寺でも鉢合わせするなんて。
工藤さんも、黒いトレンチコートのポケットに手を入れたまま、鋭い声で伊達さんを問い詰めた。
「伊達、何でお前がここにいるんだ?」
「まぁ、いろいろと事情があってな」
伊達さんは、眼鏡を中指でクイッと押し上げながら、少しだけ言葉を濁した。
その態度は、どこか後ろめたいことをしているような、歯切れの悪さがあった。
工藤さんは、そんな伊達さんの様子を見て、鼻で笑った。
「ふん。また女の脚の事を考えていたんだろ? どうせ」
工藤さんの辛辣なツッコミ。
伊達さんの無類の「脚フェチ」ぶりは、この数日間で私たち全員の共通認識となっていた。
「そ、そんなわけあるか!」
伊達さんはムキになって反論した。
「だいたい、こんな厳粛なお寺に、私の興味を引くような美脚の女性がいるわけが……」
伊達さんが言い終わるか終わらないかの、その絶妙なタイミングだった。
ザッ。
参道の奥から、住職の少し後ろを歩いていた「もう一人の人物」が、すっと私たちの視界に姿を現したのだ。
(カオリの心:……え、本当に出てきた? 工藤さんどうしてわかったのかな?)
私は目を丸くした。
そこに現れたのは、お寺という空間には全くそぐわない、洗練された大人の女性だった。
身長は百八十センチ近くあるだろうか。
工藤さんよりもわずかに高いくらいの、圧倒的なモデル体型。
黒い髪をタイトにまとめ、目鼻立ちのくっきりとした美人で、メイクも完璧だ。
そして彼女が身に纏っているのは、体のラインを美しく強調する、ダークグレーのタイトなスカートスーツ。
膝上丈のタイトスカートの裾から伸びる脚は、細く、長く、そして……。
妖艶な、五デニールのストッキング。
色は、わずかにボルドーがかった、深みのあるシアーな色合い。
それが、彼女の透き通るような肌と重なり合い、冷たい朝の空気の中であり得ないほどの生々しい色気を放っていた。
足元は、シンプルな黒のハイヒールパンプス。
私は、すかさず隣の伊達さんの方を盗み見た。
案の定、伊達さんの口は半開きになり、だらしなく鼻の下を伸ばして、その女性のボルドーがかった五デニールのストッキングの脚に完全に釘付けになっていた。
瞬きすらしていない。
工藤さんが、伊達さんのその様子を見て、呆れたようにため息をついた。
「伊達、やっぱり女の脚か?」
「う、うるさいっ」
伊達さんは顔を真っ赤にして、慌てて視線を逸らした。
(カオリの心:伊達さん、分かりやすすぎ……)
私が内心で呆れていると、恰幅の良い作務衣姿の住職が私たちの前までやってきて、足を止めた。
工藤さんは、住職さんの顔を見ると、一度礼をし、重々しく、そして神妙な面持ちで口を開いた。
「柴桑ご住職。本日は風花のために、朝早くからお時間をいただきありがとうございます。よろしくお願いいたします」
工藤さんは、先ほどの短い礼に続けて、改めて漆黒のトレンチコートの姿勢を正し、柴桑住職に向かって丁寧にご挨拶をした。
「おお、来夏ちゃん。わざわざご丁寧に。風花ちゃんも、さぞかし喜んでおろうて」
「……工藤さん。風花ちゃんの事は、本当に残念でしたな。当寺でも、毎日読経をさせていただいておりますよ」
「……ご住職。ご配慮、感謝いたします」
工藤さんは、静かに頭を下げた。
しかし私は、住職の視線が、工藤さんの顔ではなく、トレンチコートの裾から覗く「五デニールの極薄ブラック」のストッキングに包まれた脚元へと、ねっとりと張り付いているのを見逃さなかった。
神妙な言葉とは裏腹に、その目は完全に欲望に満ちた男の目だったのだ。
(カオリの心:……え、今、住職さん、一瞬工藤さんの脚に視線が。この住職も、絶対脚に執着している。間違いない。伊達さんと同じ穴の狢(むじな)なんだ……。……そういえば、伊達さんは、そもそもこのお寺に何しに来たんだろうか?)
私の頭の中で、いくつもの疑問が交差する。
伊達さんがただのお寺参りに来るはずがない。
彼は、地下鉄の株や、教団の資金の流れといった「情報」を追っていたはずだ。
もしかして、このお寺も教団と関係が?
すると、住職の後ろに控えていた高身長のスカートスーツの女性が、通る声で住職に話しかけた。
「住職。ドールコレクションの件、確かに承りました」
「うむ。2時間以内だぞキララ、それ以上は待てんと田辺(たなべ)に伝えておけよ、キララ」
「はい、かしこまりました住職」
キララと呼ばれた女性は、五デニールの脚を完璧な角度で揃え、深々と一礼した。
キララ?
それが彼女の名前なのだろうか。
そして、住職の口から出た『田辺』という名前。
どこかで聞いたことがある。
私の記憶の引き出しが、微かに引っかかりを覚えた。
誰だっけ?
東京の事務所での調査資料?
それとも、依頼主である高橋さんとの会話の中だったか……?
私の横で、工藤さんの顔つきが変わった。
彼女の瞳が、作務衣姿の住職を、極めて鋭く、そして冷酷に射抜いていたのだ。
その視線は、ただの「風花さんの供養を頼んでいる相手」に向けるものではない。明確な「疑い」の色。
住職もまた、教団の闇、あるいはアトランティスの反会長派と、何か深い繋がりがあるのではないか。
工藤さんの立ち振る舞いが、無言のうちにそう告げていた。
朝の冷たい空気に包まれた静魂寺の山門前。
私たちと、伊達さん、そして謎の住職と、長身の美女キララ。
交わるはずのない点と点が、静森町の深い闇の底で、音を立てて結びつこうとしていた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第八十話:朝の密会、静魂寺の長い影 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
