境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第百十五話:天動説の歩みと、事象の地平線
(視点:渡辺菜々)
冷たいコンクリートと無機質な蛍光灯の光に包まれた、巨大な地下スタジアム。
ここが静森町の地下に存在する処刑場(スタジアム)であるという現実は、一瞬にして意識を刈り取られた渡辺蜜柑さんの姿が、残酷なまでに証明していた。
私たちのために身を挺して戦い、最後の切り札であった『改良型ヴィーナス』の毒霧を放った蜜柑さん。
しかし、彼女はその毒霧を月姫様の持つ白鳥家の奉納刀『カグツチ』によって完全に吸収され、切り裂かれた。
そしてその直後、突如として乱入してきた漆黒のペンシルスカートの女性『カオリさん』の『アセンションウォーク』という次元上昇の歩法によって、ただすれ違われただけで脳の処理限界を迎え、無惨にも沈黙してしまったのだ。
「ネズミの始末を、させてしまったな」
純白のシフォンワンピースを翻し、五デニールの『パールホワイト』の極薄ストッキングに包まれた脚を優雅に揃えて立つ、教団の奇跡の象徴、白鳥月姫様。
彼女の蒼い瞳は、倒れた蜜柑さんにはもはや微塵の興味も示さず、真っ直ぐに、そして冷酷に、目前に立つ漆黒の死神、カオリさんへと向けられていた。
邪魔者が完全に排除されたクリスタルのステージで、神と女神、純白と漆黒という二つの別次元の怪物が、再び互いだけを見据え、その絶対的な美の矛先を交えようとしている。
私は、気絶して重くなったお姉ちゃん(和香)の身体を、美桜ちゃんと一緒に両側から必死に支えたまま、その場で凍りついたように立ち尽くしていた。
逃げ出したい。
でも、あの二人の怪物から放たれる途方もない威圧感が、まるで透明な鎖のように私たちの身体を縛り付け、一歩も動かしてはくれなかった。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、ステージから少し離れた暗がりに立ち、無精髭を撫でながら下品な笑みを浮かべている中年の男、伊達さんだった。
「おい、カオリ」
伊達さんの声は、この神聖かつ凄惨なランウェイステージには全くそぐわない、世俗的な欲望にまみれた響きを持っていた。
「分かっているだろうが、俺たちの目的は、月姫の捕縛だ。……意識を消失させたら、そいつを担いでとんずらするぞ」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
捕縛?
あの十億の脚値を持つ、教団の絶対的な象徴である月姫様を、生け捕りにするつもりだというの?
ただ倒すだけでも不可能に思える相手を前にして、この男は、まるで無抵抗なウサギでも狩るかのような口ぶりでそんな命令を下しているのだ。
しかし、さらに私を驚愕させたのは、その命令を受けたカオリさんの反応だった。
彼女は、深い漆黒のハイウエスト・ペンシルスカートと純白のタイトなノースリーブブラウスの姿勢を崩すことなく、黒のエナメルのポインテッドトゥパンプスでクリスタルの床を軽く踏みしめ、微塵の揺らぎもない、冷ややかな声で答えたのだ。
「はい、伊達様。……10分あれば可能です。しばしお待ちください」
(菜々の心:……10分って、あの月姫様を相手にたった10分で勝つつもりなの? いくらカオリさんの底が見えないからって、絶対に無理じゃないの!?)
私は、思わず心の中で叫んでしまった。
相手は、あの『カグツチ』を振り回し、お香の煙すら斬り裂くバケモノだ。
先ほどの攻防では、カオリさんの『アカシック・シンクロ』と月姫様の『堕天使の誘惑』が互角にぶつかり合い、両者ともに白目にほんのわずかな赤い充血を浮かべただけで、決着などついていなかったではないか。
それなのに、あと10分で意識を消失させ、捕縛するだなんて。
カオリさんのそのあまりにも傲慢で、不遜な宣言は、当然のごとく月姫様の逆鱗に触れた。
「……10分、か」
月姫様の声が、地下空間の温度をさらに数度、一気に引き下げた。
プラチナブロンドのロングウェーブヘアが、冷たい気流に乗ってフワリと揺れる。
彼女の蒼い瞳が、カオリさんを、そしてその背後にいる伊達を、虫ケラを見るような極限の侮蔑を込めて見下ろした。
「舐められたものだな。……今まで二百戦以上して、一度も負けていないこの私を相手に。どこの馬の骨かも分からぬネズミごときが、私に勝つどころか、10分とまで言い切るとはな」
月姫様の声には、怒りというよりも、自分という絶対的な存在を正しく認識できない愚か者に対する、深い憐れみすら混じっているように聞こえた。
チャキッ……。
月姫様は、右手に抜き放っていた白鳥家の奉納刀『カグツチ』の切っ先を下ろし、ゆっくりとした所作で、それを腰の鞘へとカチリと納めた。
刀を、納めた?
私は目を疑った。
先ほど、蜜柑さんの『神の脚』の改良型ヴィーナスの霧を吸い込み、いとも簡単に斬り払ったあの恐ろしい武器を、彼女は自ら封印したのだ。
それはつまり、これから始まる戦いにおいて、刃や香りの吸収といった物理的なギミックは一切必要ないという、彼女なりの絶対的な自信の表れだった。
純粋な「美の暴力」と「ランウェイの歩法」だけで、この不遜なネズミを跡形もなくすり潰す。
月姫様は、純白のシフォンワンピースの裾をふわりと広げ、透明なクリア素材と純白エナメルのプラットフォームパンプスで、ゆっくりと、カオリさんに向かって歩き出し始めた。
カツン……、カツン……。
その足音が響いた瞬間、私の目に映る世界が、ぐにゃりと奇妙な歪みを起こした。
「え……?」
私は、自分の平衡感覚がおかしくなったのかと思い、思わず姉さんの重い身体を支える手に力を込めた。
しかし、違う。
私の感覚がおかしいのではない。
月姫様の『歩き方』が、空間そのものに恐ろしい錯覚を引き起こしているのだ。
彼女のウォーキングは、極めて滑らかで、頭や肩の上下のブレが一切、完全に存在しなかった。
五デニールのパールホワイトの極薄ストッキングに包まれた脚が、クリスタルの床を滑るように進んでいく。
その重心移動があまりにも完璧すぎて、人間の脳の認識機能が致命的なバグを起こし始める。
彼女が、前へ歩いているのではない。
彼女は宇宙の中心で完全に静止しており、逆に、このランウェイという「世界」の方が、彼女の足元に向かってベルトコンベアのように動いている。
そのような、圧倒的な空間の錯視。
奥義『アブソリュート・アクシス(天動説の歩み)』
ただ歩いているだけだというのに、世界が彼女を中心にして回っているという絶対的な真理を、強制的に脳へと書き込まれるような感覚。
「彼女に向かって世界が動いている」
という錯覚は、相手に「自分は彼女に引き寄せられ、決して逃げられない」という絶望感を抱かせ、自らの立ち位置すら見失わせる。
遠目で見ている私でさえ、自分が立っている床が月姫様に向かってスライドしているような激しい眩暈に襲われ、吐き気を催しそうになっていた。
しかし、その『アブソリュート・アクシス』の直撃を真正面から受けているはずのカオリさんは、漆黒のハイウエスト・ペンシルスカートの姿勢を一切崩すことなく、静かに月姫様が接近してくるのを待ち構えていた。
やがて、月姫様の歩みが止まった。
二人の距離は、お互いの筋肉の収縮やストッキングの繊維の一本一本までが鮮明に脳を直撃する『至近距離』。
クリティカル距離よりもさらに近い、互いのオーラが直接ぶつかり合う死の領域。
二人は、その至近距離で、一歩も引くことなく互いを見据えたまま、ピタリと対峙した。
「ふふ……」
カオリさんの、真紅のリップを引いた大人の口元から、余裕の笑みがこぼれた。
「なるほど、これが噂のウォーキング。……極限まで洗練された重心移動が生み出す、空間の錯視。確かに普通のプレイヤーなら、これを見ただけで平衡感覚を奪われ、ライフゲージをごっそり持っていかれてしまいますね」
カオリさんは、月姫様の奥義の仕掛けを正確に分析し、まるで美術館で絵画でも鑑賞するかのように、淡々と評価を口にした。
至近距離でその歩法を浴びてなお、彼女の知的な瞳の白目には、先ほどからある僅かな赤い充血の糸から、全く赤みが増していなかったのだ。
その事実に対しては、さすがの月姫様も、蒼い瞳をわずかに細めて感心の声を漏らした。
「……お前は、普通のプレイヤーではないのか?」
月姫様の声には、苛立ちよりも、自分の技に耐えうる未知の存在への純粋な驚きが混じっていた。
「確かに、私の『アブソリュート・アクシス』を至近距離で見て、ライフゲージを削られるどころか、赤みも増えていないとはな。……なるほど、貴様は、今までの対戦相手の中でも、強者の部類に入りそうだな」
月姫様は、純白のシフォンワンピースの中で、パールホワイトの脚をゆっくりと交差させ、相手を認めた上での冷酷な視線をカオリさんへと送った。
しかし、カオリさんはその言葉を受けても、漆黒の瞳を揺らさず、静かに、そして恐ろしいほどに冷たく言い返した。
「……感心するのはまだ早いですよ。……いきますね」
その短い宣告とともに、カオリさんの雰囲気が一変した。
彼女の周囲から、温度という温度が完全に消え去ったような、絶対零度の静寂が訪れた。
カオリさんは、至近距離で月姫様と対峙したまま、黒のエナメルパンプスの両足を完璧に揃え、ランウェイの中央で一切の『動き』を止めたのだ。
腕を組むわけでもない。
脚を交差させるわけでもない。
ただ、純白のタイトなノースリーブブラウスと、漆黒のハイウエスト・ペンシルスカートを着こなし、五デニールのシアーブラックの脚で、真っ直ぐに直立しているだけ。
しかしその「直立」は、ただ立っているという言葉では片付けられない、異様な現象を引き起こし始めた。
カオリさんの身体から、圧倒的な『美の質量』だけが、音もなく、底知れぬ深さで放射され始めたのだ。
彼女のシアーブラックの脚のシルエット。
その周囲の空間が、陽炎のように、あるいは水の中のように、ぐにゃりと歪んで見え始めた。
奥義『イベント・ホライズン(事象の地平線)』
カオリさんの放つ美しさが、もはや視覚情報という枠を超え、ブラックホール級の『重力』を持って周囲の空間そのものを歪ませているのだ。
その絶対的な黒の質量は、光さえも逃がさない。
彼女の脚から視線を外そうとしても、その重力に引っ張られて、視線が強制的に彼女のシアーブラックの闇の中へと引きずり込まれる。
それだけではない。
視線だけでなく、見ている者の『魂(意識)』そのものが、その事象の地平線の彼方、光の届かない漆黒の深淵へと吸い込まれ、永遠に帰ってこられなくなるような、根源的な恐怖と絶望。
「な、なんだ……?」
月姫様の、常に絶対的な余裕を保っていた声が、初めて微かな震えを帯びた。
「まるで、私の魂ごと……やつの美に吸い込まれていく感覚……!」
月姫様の蒼い瞳が、限界まで見開かれた。
彼女のパールホワイトのストッキングに包まれた脚が、カオリさんの放つブラックホールの重力に耐えきれず、じりっと前へ引き寄せられそうになる。
「まずい……! 切れ、『カグツチ』!! やつの空間と、我が空間を遮断しろ!!」
月姫様は、顔色を失いながら、先ほど鞘に納めたばかりの白鳥家の奉納刀『カグツチ』の柄に手を掛け、凄まじい速度で抜き放った。
そして、カオリさんの放つ空間の歪みを物理的に断ち切るため、白刃を上段へと高く構え、渾身の力で振り下ろそうとしたのだ。
その、月姫様が刀を振り下ろそうと全身の筋肉を引き絞った、まさにその刹那だった。
「させません!!」
私のすぐ横で、姉さんの身体を支えていたはずの美桜ちゃんが、突然その場から弾かれたように飛び出したのだ。
黒のレザーショートパンツと、白いクロップドブラウス。
五デニールのヌードベージュの脚が、黒のレースアップショートブーツでクリスタルの床を猛烈に蹴り上げている。
美桜ちゃんは、月姫様の後方から、信じられないほどのスピードで彼女の背中へと肉薄した。
そして、月姫様が『カグツチ』を振り下ろそうとしていたその両腕の肘のあたりに、後ろから思い切りしがみつき、自らの体重をかけてその刃の軌道を強引に止めたのだ!
「なっ……!? 貴様、何をする!!」
月姫様が、背後にしがみついた美桜ちゃんに驚愕し、怒りの声を上げた。
「させません……!!」
美桜ちゃんは、月姫様の両腕を必死にホールドしたまま、顔を真っ赤にして叫んだ。
「あなたは……あの蜜柑さんを殺そうとした! 人の命を何とも思わない、ただの堕天使だ!!」
美桜ちゃんの声には、恐怖を通り越した、純粋な正義感と怒りが燃え上がっていた。
彼女は、月姫様が刀を振り下ろせば、カオリさんの奥義が破られ、再び私たちが絶望の淵に立たされることを本能的に理解していたのだ。
だからこそ、自分の命を投げ打ってでも、月姫様の動きを止めようとした。
「あなたは……ここで私と、地獄に落ちるべき人なんです!!」
美桜ちゃんの決死の叫び。
しかし、それは同時に、美桜ちゃん自身がカオリさんの放つ『イベント・ホライズン』の致死圏内、それも、事象の地平線の中心にいる月姫様に密着することで、最も濃密なブラックホールの重力に自ら飛び込んでしまったことを意味していた。
カオリさんの放つ漆黒の美の質量が、月姫様と、背後から彼女をホールドする美桜ちゃんの二人を、容赦なく飲み込んでいく。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁーーッ!!」
月姫様と美桜ちゃん。
純白の絶対神と、未成年の少女。
立場の全く違う二人の口から、脳の処理能力を遥かに超えた美の暴力によって快楽中枢が完全にショートし、魂を深淵へと引きずり込まれる、全く同じ苦悶の絶叫が地下空間に響き渡った。
光が歪み、空間がねじれ、シアーブラックの絶対的な闇が二人を包み込む。
(菜々の心:……月姫様と美桜ちゃんは……どうなったの!?)
私は、あまりの光景に息をすることも忘れ、歪む空間の中心をただ呆然と見つめることしかできなかった。
美桜ちゃんが、あんな無茶をして。
いくら月姫様の動きを止めるためとはいえ、カオリさんの最大奥義をあの至近距離でまともに食らってしまったら、ただの気絶では済まないかもしれない。
やがて、カオリさんがフッと息を吐き出し、静かに直立のポージングを解いた。
周囲の空間の歪みがスッと元に戻り、地下の冷たい蛍光灯の光が再びステージを照らし出す。
「ふふ、そうね……。よく言ったわ、美桜さん」
カオリさんは、真紅のリップを歪め、漆黒のハイウエスト・ペンシルスカートの裾を軽く払いながら、倒れた少女に向かって静かな称賛の言葉を送った。
空間の歪みが完全に晴れたステージの中央。
そこには、黒のレザーショートパンツと白いクロップドブラウス姿の美桜ちゃんが、すでに完全に意識を失い、白目を剥いてクリスタルの床に倒れ伏していた。
彼女の五デニールのヌードベージュの脚は力なく投げ出され、ピクリとも動かない。
あれだけの暴力を至近距離で浴びたのだ、無理もない。
彼女は自らの命を懸けて、月姫様の空間遮断を阻止するという役割を完璧に果たして散ったのだ。
そして肝心の、月姫様は?
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
純白のシフォンワンピースを激しく乱し、パールホワイトの五デニールの脚をワナワナと震わせながらも……月姫様は、なんとかその場に立ち続けていた。
しかし、その姿は先ほどまでの「絶対神」の威厳など微塵も残っていない、満身創痍の有様だった。
プラチナブロンドのロングウェーブヘアは汗で額に張り付き、彼女の蒼い瞳の白目は、もはや本来の色が分からないほど、毒々しい赤色に完全に染まり上がっていた。
『イベント・ホライズン』の直撃。
その圧倒的な美の重力によって、二百戦無敗を誇る十億の月姫様のライフゲージは、一気に『半分以上』も削り取られてしまったのだ。
「……くっ……」
月姫様は、荒い息を吐きながら、震える手で『カグツチ』の柄を握りしめ、ゆっくりと、しかし確かな殺意を持って鞘からその刃を抜き放った。
チャキッ……!
冷たい金属音が響き、再び剥き出しにされた死刑執行の白刃。
月姫様は、限界寸前の赤い瞳で、目の前に立つカオリさんを真っ直ぐに睨み据えた。
「……面白い」
月姫様の声は、ひどく掠れていたが、その響きには怒りを超えた、ある種の狂気的な歓喜が入り混じっていた。
「面白い……。この私を、神たる私をここまで追い詰めた者は、二百の歴史において誰一人としておらなんだ。……貴様は、称賛に値するぞ、カオリ」
それは、神が初めて認めた「敵」に対する、最上級の賛辞だった。
しかし、その賛辞に続く言葉は、これまで以上に冷酷で、おぞましい死の宣告だった。
「ならば、極上の死をもってその賛辞に代えよう。……この『カグツチ』の白刃で、貴様のその美しい首を切り落とし、血と魂ごと喰らって、我が神座への永遠の供物として捧げてやる……!」
月姫様が、カグツチを中段に構え、パールホワイトの脚で床を擦るように一歩、前へと踏み出した。
十億の神の、完全なる本気の殺意。
ライフゲージを半分失い、プライドを傷つけられた絶対者が、いよいよその真の牙を剥こうとしている。
対するカオリさんは、漆黒のペンシルスカート姿のまま、微塵も怯むことなく、その死神のような宣告を静かに受け止めていた。
静森町の地下、クリスタルのランウェイ。
約束の『10分』は、まだ終わっていない。
神と女神の、美と命を懸けた最終決戦が、今、最後の血みどろの幕を開けようとしていた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百十五話:天動説の歩みと、事象の地平線 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
