境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章第百一話:虚空の階梯と、鳴り響く救済の鐘
(視点:鈴木カオリ)
「工藤さん……私、どうすればいいですか……!?」
私は、震える声で助けを求めた。
教団の思惑、真経典の秘密、そして二十年前に亡くなったはずの工藤さんの姉、霞さんの生存。
あまりにも巨大で底知れない闇が、私の足元を泥沼のようにすくおうとしていた。
私は、息も絶え絶えになって片膝をつく工藤さんに、すがるような視線を向けた。
けれど、工藤さんはあえて何も答えなかった。
エメラルドグリーンのタイトワンピースの胸元を激しく上下させ、荒い呼吸を繰り返しながら、ただギリッと奥歯を強く噛み締めるだけだった。
七億越えの匠である彼女にも、今の状況がどれほど残酷で、簡単に答えを出せるものではないことが伝わってくる。
私は、工藤さんから視線を外し、クリスタルのステージで両手で顔を覆い、膝をついてうめいている雪乃さんの方へと向き直った。
「……私は……私は……」
言葉が続かなかった。
雪乃さんの仲間になれば、真実が分かるかもしれない。
でも、それは工藤さんを裏切り、私たちを罠に嵌めた教団に下ることを意味する。
私にそんなことができるはずがない。
私が言葉を詰まらせていると、顔を覆っていた雪乃さんが、スモーキーなアイメイクの奥の、真っ赤に充血した瞳をゆっくりと開いた。
「……はぁ……はぁ……」
雪乃さんは、ワインレッドのミニスカートの裾を掴み、ボルドーがかった五デニールの脚をワナワナと震わせながら、自らの意思でゆっくりと、立ち上がり始めたのだ。
「カオリ。……私は決めたぞ」
雪乃さんの声は、掠れてはいたが、刃のように冷たく研ぎ澄まされていた。
「悪いが、お前の返事を待っている余裕はない。……来夏様。これ以上、私の邪魔をなさるおつもりでしたら、私も遠慮なく……この場で、あなたを倒します」
(カオリの心:そ、そんな……工藤さんの、あの『神鳴り』の一撃を食らっても、まだ立ち上がって来るなんて。信じられない、だって、あの奥義は、今まで見たこともないほどの一撃だったよ、絶対に。雪乃さんは、どんな精神力をしているの……?)
私は、絶望と驚愕に全身の血の気が引くのを感じた。
工藤さんの全てを懸けた最後の一撃。
極限の静電気と『神の脚』の香りが融合した、誰も見たことがない究極の美の雷撃。
それを至近距離で浴びて、なぜ立っていられるのか。
一億のプレイヤーが持つ耐久力を、彼女の異常なまでの執念が凌駕しているのだ。
いえ、一億プレイヤーの精神力なの本当に?
「……工藤さん、逃げてーーーーっ!!」
私は、たまらず悲鳴のように叫んだ。
今の工藤さんは、立っていることすら奇跡のような瀕死の状態だ。
もう戦う力など残っていない。
だが、工藤さんは私の言葉を冷たく遮った。
「……お前が逃げろ、カオリ」
工藤さんは、エナメルのポインテッドトゥパンプスのヒールで床を擦りながら、私を庇うように一歩、前に出た。
「あいつの狙いは……お前なんだ。……早く……行くんだ!」
「逃がさん」
雪乃さんが、低く、ドスを効かせた声で言い放った。
そして彼女は、黒のピンヒールでクリスタルの床を歩き出し、ステージの端で機能停止して倒れているアンドロイド……自らが着せていた漆黒のレザーウェアに身を包んだ『キララさん』の傍らへと向かった。
雪乃さんは、レザーライダースのポケットから、「何か」を取り出した。
「えっ……?」
それは、二つの、球体のような小さな機械のパーツだった。
よく見ると、それは精巧に作られた『機械の眼』だった。
先ほど工藤さんがヒールをぶつけて破壊した、キララさんの新しい眼球パーツ。
雪乃さんは、ショートして機能を停止しているキララさんの顔にしゃがみ込み、その二つの機械の眼を、恐ろしいほどの早業で彼女の眼窩へとカチリ、カチリとはめ込んだのだ。
「……ああーーっ」
私は思わず、絶望の声を漏らしてしまった。
シタックスの最高傑作であるあのアンドロイドが、雪乃さんの手によって、再び息を吹き返そうとしている。
「行け、キララ」
雪乃さんは、再起動のプロセスが始まったキララさんに向かって、冷酷な命令を下した。
「ドールたちを復活させ、カオリを捕縛するんだ」
「ギ……ガガ……システム、オールグリーン。……分かりました」
キララさんが、無機質な声とともにゆっくりと上半身を起こした。
そして、新しく装着された機械の目から、赤い光のような、極めて特殊で不気味なフラッシュ信号が、チカチカと点滅するように放たれたのだ。
その光の点滅が、ステージの周囲のコンクリートのフロアに届いた瞬間だった。
「あ……ああ……」
「ギギ……っ」
先ほどの激戦で意識を失い、完全に倒れ伏していたはずの五十人近いドールたちが。
糸で操られる人形のように、不自然な関節の動きで、一斉に、そして無言で立ち上がり始めたのだ。
「う、嘘でしょ……」
私は、恐怖で足がすくみ、後ずさりをした。
白目を向き、口から涎を垂らしたままの、リミッターが完全に外れたゾンビの群れ。
それが、キララさんの目から発せられる光の信号によって一糸乱れぬ統率を取り戻し、私たちの方へと顔を向けている。
「……く、くそ。これじゃあ、どうしようも……」
工藤さんが、漆黒のトレンチコートの胸元を握りしめ、悔しさに顔を歪めた。
七億越えの匠であっても、体力が尽きた状態で、感情を持たない五十体のゾンビとアンドロイドを同時に相手にすることは不可能だ。
雪乃さんは、ワインレッドのミニスカートを揺らし、私たちを見下ろして冷ややかに告げた。
「来夏様。カオリは、渡していただきます」
そして、キララさんがレザーブーツで床を踏み鳴らし、フロアのドールたちに向けて腕を振り下ろした。
「行きなさい、ドールたち」
その命令と同時に、五十人のドールたちが、四方八方からクリスタルのステージへと這い上がり、私たちを何重にも取り囲むようにしてジリジリと距離を詰め始めた。
逃げ場はない。
黒、ベージュ、グレー。
あらゆる色のストッキングとヒールの足音が、死へのカウントダウンのように鳴り響く。
もうダメだ。
私も工藤さんも、ここで完全に終わる。
私が絶望に目を閉じた、まさにその時だった。
ガアァァァァンッ!!
私たちが下りてきたステージ奥のコンクリートの階段の上、あのでかい鉄の扉が、外から蹴り破られるようにして勢いよく開かれたのだ。
「弱いもんいじめは良くないなぁ、志乃舞ちゃん」
明るく、そしてどこまでも豪快な声が、冷たい地下空間に響き渡った。
「えっ……!」
私が目を見開いて扉の方を見ると、そこには、ワインレッドのカシュクールワンピースを着崩した、六億の騙し巫女、木島希美さんが立っていたのだ。
「希美さん!」
だが、私の驚きは彼女の登場に対してだけではなかった。
希美さんの背後。
彼女が、極薄ベージュのストッキングに包まれた足で踏ん張り、太い鎖を握りしめて「ズルズルッ」と引きずってきたもの。
それは、大人の人間の背丈ほどもある、寺の鐘楼に吊るされているような『巨大な梵鐘(ぼんしょう)』だったのだ。
もちろん、お寺にある梵鐘に比べると、小さくはなっているのだが。
それでも、大きいことには変わりはない。
「来夏ちゃん、カオリちゃん! 今助けにいくからな、待ってろよ!」
希美さんは、六億の凄まじい脚力とパワーで、その何十キロもあるであろう巨大な鐘を、コンクリートの階段から強引に引きずり下ろし、フロアへと到達した。
そして、彼女はその鐘の横に置かれていた、太い木の撞木(しゅもく)を両手で抱え上げた。
「そらよっ!!」
ゴオオオオオオーーーンッ!!!!
希美さんが、ありったけの力で鐘を打ち鳴らした。
その重低音は、ただの音ではなかった。
腹の底、いや、内臓の細胞一つ一つを震わせるような、凄まじい物理的な音の波。
それが、密閉された地下空間に大音響となって反響し、空気をビリビリと振動させた。
「あ、がぁっ……!」
「ギ、ギギギ……!」
その途方もない轟音と振動がドールたちの鼓膜を打った瞬間、彼女たちの動きがピタリと停止した。
キララさんの目から発せられていた、ドールたちを操るためのフラッシュ信号の同調が、鐘の圧倒的な音波の振動によってかき消され、強制的に切断されたのだ。
コントロールを失った五十人のドールたちは、まるで電源を抜かれたように、その場で次々と膝から崩れ落ち、再び動かぬ躯となってクリスタルの床に倒れ伏していった。
「ちっ、余計なことを……!」
雪乃さんが、忌々しそうに真紅の唇を歪めて舌打ちをした。
「キララ、お前は、希美をなんとかしてくるんだ」
雪乃さんの指示に、レザーウェアを着たキララさんが無言で頷く。
「分かりました」
キララさんは、すぐさま身を翻し、鐘の音の残響の中で息を切らしている希美さんの元へと、ピンヒールを鳴らして向かっていった。
ドールたちが倒れたとはいえ、私たちの不利な状況が劇的に改善されたわけではなかった。
希美さんは、鐘を引きずって打ち鳴らすという荒業で体力を使い果たしており、距離も遠い。
そこへ無傷のキララさんが立ち塞がってしまったため、私たちを直接助けに来ることはできない。
そして、私の目の前には、依然として雪乃さんが、工藤さんにとどめを刺そうと立ちはだかっていた。
もう、誰も雪乃さんを止めることはできない。
「来夏様。これで……終わりです」
雪乃さんは、スモーキーな瞳に悲哀と狂気を入り交じらせて、工藤さんを見下ろした。
そして、彼女はゆっくりと、ワインレッドのミニスカートの裾を揺らしながら歩き始めた。
しかし、その歩法は、今まで見たどんなウォーキングとも違っていた。
奥義『アストラル・ウォーク(虚空の階梯)』。
雪乃さんは、ボルドーがかった五デニールの脚を、不自然なほど高く、ゆっくりと空中に振り上げた。
そして、その振り上げた黒のエナメルパンプスを、クリスタルの床ではなく……何もない「中空」で、ピタリと止めたのだ。
カツン。
ヒールが、見えない空中の階段を踏みしめたような音が、幻聴のように私の脳裏に響く。
そして彼女は、そのままもう片方の脚をさらに高く持ち上げ、一段、また一段と、何もない空中を階段のように下りてくるかのような、魔術的なウォーキングを開始したのだ。
「あ……ぁ……」
私の脳が、完全に現実の処理を放棄しようとしていた。
重力という絶対的な物理法則が崩壊している。
足が空中に留まり、そこに見えない階梯があるかのように滑らかに降りてくる。
ボルドーの五デニールストッキングが空中で緩やかな弧を描き、ゆっくりと重力を無視して動くその姿は、あまりにも異次元の美しさを放っていた。
物理法則をねじ曲げ、相手の距離感や時間感覚を狂わせる魔術的歩法。
いつの間にか、彼女が遠くにいるのか、目の前にいるのかすら分からなくなる。
「ぐ、ぅぁぁっ……!」
工藤さんが、膝をついたまま、その空を歩くような絶望的な美の暴力に、完全に視界を支配された。
抵抗する術など、どこにもなかった。
ただでさえ限界だった工藤さんの脳のヒューズが、この『アストラル・ウォーク』によって完全に焼き切れていく。
雪乃さんは、空中の階梯を下りるようにして、工藤さんの真横を静かに通り過ぎた。
「……すまん、カオ……リ」
工藤さんは、最後の言葉を絞り出すように私に向けて呟くと、エメラルドグリーンのタイトワンピースを乱れさせ、そのままクリスタルのステージの上へと、力なく崩れ落ちた。
七億越えの雷神が、完全に意識を失ったのだ。
「工藤さんっ!!」
私の悲鳴は、雪乃さんの耳には届かない。
雪乃さんは、工藤さんを通り過ぎ、ついに私の目の前、数十センチの至近距離にまで到着し、その魔術的な歩法を静かに止めた。
見下ろすスモーキーな瞳と、真紅のルージュ。
ボルドーの極薄ストッキングが、私の視界の全てを冷たく覆い尽くす。
「逃げるんだ、カオリちゃん!!」
遠くから、キララさんに阻まれた希美さんの悲痛な叫び声が聞こえた。
しかし、私の脚は一歩も動かない。
静森町の地下、狂気のランウェイステージの果てで私は、ただ一人、仮面を外した最強の歩き巫女の前に、完全に追い詰められていた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百一話:虚空の階梯と、鳴り響く救済の鐘 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
