境界線上の視線・「偽りの春編」春風の章・第二話:黒いヴェールの密会と、美脚の真価
(視点:河野一郎)
冬の柔らかな日差しを弾き返し、深いネイビーブルーのマセラティ・クアトロポルテが、郊外の静かな並木道を滑るように走っていく。
重厚なドアに閉ざされた車内は、外界の喧騒から完全に隔離された完全な密室だ。
最高級のレザーシートの匂いに混じり、むせ返るような、しかし決して不快ではない甘い麝香(じゃこう)の香りが、この狭い空間を満たしていた。
私はハンドルを握りながら、隣の助手席に座る『彼女』の姿を、バックミラー越しではなく、直接、横目で何度も盗み見ていた。
駒田魔美。
私の運営する介護施設『春風』の事務職員であり、そして、私にこの圧倒的な地位と悦楽を与えてくれた「夜の女神」。
いや、市場(マーケット)では彼女のことを『悪魔の申し女』と呼ぶらしいが、私にとってはどちらでもいいことだ。
今日の彼女も、たまらなく魅力的だった。
施設での退屈な「事務員」としての仮面を脱ぎ捨て、本来の彼女の姿を解放している。
タイトな黒のニットワンピースの上には、漆黒のトレンチコートを無造作に羽織っている。
シートに深く身を沈めたその姿勢によって、コートの裾とワンピースの深いスリットが重なり合い、彼女の太ももが惜しげもなく露わになっていた。
そして、私の視線を最も強く惹きつけて離さないのは、その長い脚を包み込む「闇」だ。
5デニールの、極薄のブラック・ストッキング。
光を吸い込むようなマットな黒でありながら、その薄さゆえに、彼女の透き通るような白い肌がヴェールの向こう側で妖しく艶めいている。
ふくらはぎの裏側を踵(かかと)まで一直線に走るバックシームが、彼女の脚線美にクラシカルで扇情的な緊張感を与え、視覚的な快楽を私の脳髄に直接叩き込んでくる。
足元は、高いピンヒールのついた黒のエナメル・ポインテッドトゥパンプス。
足を組むたびに、そのエナメルの光沢と、極薄の黒ストッキングの摩擦音が、私の下腹部に熱い塊を送り込んでいた。
「…どうかしましたか? 河野さん」
不意に、駒田が窓の外を見ていた視線をこちらに向け、蠱惑的(こわくてき)な笑みを浮かべた。
私の卑しい視線など、とっくにお見通しなのだ。
「い、いや。魔美君が今日一段と美しいと思ってね」
私は、慌てて視線を前方に向け、チャコールグレーのダブルブレストスーツの襟を正した。
44歳。
施設長であり、陰では「男爵」と呼ばれている。
余裕のあるダンディズムを気取らなければならない。
「ふふっ。お世辞がお上手ですね」
駒田は、長い髪をかき上げ、細い指で自らの太ももをそっと撫でた。
シュッ、という5デニール特有の微かな衣擦れの音が響く。
「…でも、運転中は前を見ていてくださいね。私に見惚れて事故でも起こされたら、困りますから」
「ははは、違いない」
私は乾いた笑いを漏らした。 この女には敵わない。
彼女の前では、私はただの欲望に忠実な雄(おす)に成り下がってしまう。
だが、それでいいのだ。
彼女は私に絶対的な快楽と、そして『反会長派』における確固たる地位をもたらしてくれた。
彼女が望む限り、私は彼女のよきパトロンであり、よき操り人形でいようではないか。
車は目的のカフェに到着した。
『春風』の施設から車で20分ほど離れた場所にある、森に囲まれた洋館風のカフェレストラン。
『L'Ecrin de l'Ombre(レクラン・ド・ロンブル)』。
フランス語で「影の宝石箱」を意味するこの店は、会員制でプライバシーが完全に守られており、私たちのような「裏」の人間が密会をするにはうってつけの場所だった。
「さあ、着いたよ、魔美君」
私は車を降り、助手席のドアをスマートに開けた。
駒田が長い脚を外に投げ出し、カツンとピンヒールをアスファルトに響かせて降り立つ。
その一連の動作の、なんと美しく、エロティックなことか。
私は彼女のエスコートをし、二人で薄暗い、しかし洗練された店内へと足を踏み入れた。
案内されたのは、一番奥の、重厚なビロードのカーテンで仕切られた半個室のテーブル席だ。
「ご注文は?」
黒服のウェイターが、音もなく現れた。
「私はキリマンジャロを。君は?」
「…そうね、私はカシスとローズヒップのハーブティーをお願いするわ」
駒田が足を組み直し、優雅に注文した。
ウェイターが下がり、カーテンが閉められると、そこは完全な私たちだけの空間になった。
アンティーク調のランプの光が、駒田の黒いストッキングに柔らかなハイライトを描き出している。
「…ふぅ。施設にいると、あの消毒液と年寄り臭さで頭がおかしくなりそうになるわ」
駒田は、トレンチコートを脱いでハンガーに掛けながら、本音を漏らした。
「ははは。まあ、そう言うな。あの施設は我々にとって重要な『金庫』であり、前線基地なのだから」
私は、シルバーの髪を撫で付けながら、テーブルに両肘をついた。
「…それで、河野さん。今日はわざわざ私をこんな所に連れ出して、何のお話かしら?」
駒田は、私の目をじっと見つめた。
その瞳は、先ほどまでの甘い誘惑者のそれから、冷徹な組織の人間へと切り替わっている。
「いや、特別なことではないよ。少し、現場の状況について君の意見を聞きたくてね」
私は、先週から施設にやってきた、あの新しい『相談役』の顔を思い浮かべた。
「あの林美琴…林相談役のことだ。彼女は実に頼もしいよ、魔美君」
私は、感心したように言った。
「彼女は最新のAI事情にもとても詳しいんだ。今は現場のシフト管理や、送迎ルートの割り出しなんかを、彼女の提案で自動化し、効率化してもらっているんだ。おかげで事務の双子(山城姉妹)の手間も省けている」
私は、林美琴のあの知的なペンシルスカートと、10センチのピンヒール、そして5デニールのシアー・グレージュのパンストを思い出して、少し喉が渇いた。
(あの女も、なかなかの極上だ。いつか、私のコレクションに加えてみたいものだが…)
「人件費も削減できるし、控えめに言って最高の相談役だな、林君は」
私がそう褒めちぎると、駒田の目が、わずかに、本当にわずかに、細められた。
「…へぇー」
駒田は、つまらなそうにテーブルの上のシュガーポットを見つめた。
「そんなに優秀なんですね、林相談役は。 …じゃあ、私ももう用済みなんですか?」
声のトーンは甘かったが、そこには明らかな棘(とげ)があった。
嫉妬だろうか?
いや、違う。この女が、あの林美琴ごときに嫉妬するなどあり得ない。
彼女の脚値(あしね)は6億。
美脚市場においても伝説的な存在なのだから。
これは、ただの私を試すための言葉遊びだ。
「ははは、そんなわけないだろ、魔美君」
私は慌てて笑い飛ばし、彼女の機嫌を損ねないように身を乗り出した。
「君と彼女では、役割が全く違う。君には、君にしかできない重要な役目があるんだからな」
「重要な役目?」
「ああ。この施設に入り込んでくる『ネズミ』を排除するという、重要な役目だ」
私は、声を一段低くした。
「それが、君たち『歩き巫女』の仕事じゃないのか?」
『歩き巫女』。
表向きは、宗教団体『万世救済の光』に所属する闇の精鋭部隊、諜報および執行部門である彼女たちの総称だ。
「教団の隠し玉」とも呼ばれ、教団に敵対する者をランウェイバトルで秘密裏に処刑(排除)したり、情報収集を行ったりする危険な汚れ役を担っている。
総勢8名で構成されており、その8人全員が脚値5億を超える『匠』クラスの超実力者という、とんでもない戦闘集団。
駒田魔美も、その恐るべき『歩き巫女』の一人なのだ。
「ふふ…」
駒田は、その言葉を聞いて満足そうに微笑んだ。
「ええ、そうですね。私たちの一番の得意分野ですわ」
ちょうどその時、ウェイターがコーヒーとハーブティーを運んできた。
カップが置かれ、再び静寂が戻ると、駒田はハーブティーの赤い水面を見つめながら言った。
「…河野さん。その肝心のネズミの情報は、とっくにその大きいお耳に入って来てるんですね?」
「ん?」
私は、コーヒーカップに手を伸ばしかけて、止まった。
「あの刑務所に収監されている白鳥和也。その息子や、アトランティス会長派の手先が、この施設を嗅ぎ回っているかもしれないという話。…もちろん、特定できているのでしょう?」
駒田の視線が、私を鋭く射抜く。
「あ、ああ…」
私は、少し焦ってコーヒーを一口飲んだ。
「魔美君、実はまだ、何も情報が入ってきてないんだ」
「まだ、ですか?」
駒田が呆れたようにため息をついた。
「あなたがのんびりAI化なんて喜んでいる間に、もうネズミは壁の中から忍び込み、巣を作っているかもしれませんよ?」
「分かっている、分かっているさ」
私は弁明した。
「だが、白鳥和也の方は抜かりはない。囚人の『彼女達4人』がすでに、見張っているからな」
私がそう言った瞬間。
テーブルの下で、駒田がゆっくりと脚を組み替えた。
シュルッ。
極薄の5デニール同士が擦れ合う、あの独特で官能的な音が、私の鼓膜を震わせた。
ピンヒールの尖ったつま先が宙を描き、タイトなワンピースのスリットがさらに深く開き、漆黒のヴェールに包まれた太ももの、豊満な、しかし引き締まった筋肉の動きが、はっきりと見て取れた。
(――おおっ…!)
私の頭の中で、論理的な思考が吹き飛んだ。
(なんという…なんという蠱惑的な動きだ…!)
(膝の裏側から太ももにかけてのライン。バックシームが歪みなく一直線に伸びている。この女、自分の脚がいかに男を狂わせるか、完全に計算して動かしている…!)
(あの中はどうなっているんだ。このままテーブルの下に潜り込んで、あの黒いヴェールごと、その脚に噛み付きたい…!)
私は、額にじわりと汗が滲むのを感じながら、必死に平常心を装おうと、コーヒーカップを両手で握りしめた。
「…彼女達?」
駒田は、私の卑しい視線に気づかないふりをして、小首を傾げた。
「あ、ああ…! そ、そうだ。この前話しただろ?」
私は、声が上ずらないように気をつけながら答えた。
「8ヶ月前に、元モデルの彼女たちが、麻薬所持で逮捕された件だよ」
「ああ、あの件ですか」
駒田は、興味なさそうにハーブティーを口に運んだ。
「…でも、収監されているのが、反会長派の息がかかった刑務所なんでしょ? その気になれば、あんな女たち、出てくるのは簡単なんじゃないですか?」
「ああ、その通りだ」
私は、自分の権力と、組織の力を誇示するようにニヤリと笑った。
「だから、白鳥和也が『用済み』になり次第、彼女らは特例で出所し、ここ『春風』に来ることになっているんだよ」
「ここへ?」
「ああ。クリスマス・イブ、あるいはクリスマス当日だ」
私は、自分の完璧な計画に酔いしれていた。
「飼いならすんだよ、彼女たちを。私の都合の良い駒としてね」
私は、頭の中で、その4人の元モデルたちの姿を想像していた。
麻薬所持で落ちぶれたとはいえ、元はモデル。
スタイルは抜群のはずだ。
反会長派の権力で恩赦を与えてやれば、彼女たちは私に逆らうことはできない。
この駒田魔美や、双子の事務員たちと同じように、私のコレクションとして、この『春風』で私の欲望を満たすための完璧な人形になる。
「…あら」
駒田は、カップを置き、クスリと笑った。
その目は、全く笑っていなかった。
「さすが男爵様。やることがえげつないわね」
駒田は、テーブルに頬杖をつき、私を上目遣いで見た。
「…ま、さしずめ、目的は彼女たちの『脚』なんでしょう?」
「な、な、なにを言ってるんだ、き、君は!」
図星を突かれ、私は動揺して声を裏返してしまった。
「わ、私は純粋に、施設の人材不足をだな…! 優秀な職員を…!」
「ふふっ、冗談ですよ」
駒田は、顔を真っ赤にして焦る私を見て、心底可笑しそうに笑った。
「河野さんのその『病気』、嫌いじゃありませんよ。男はそれくらい貪欲な方が、扱いやすいですから」
彼女は、まるで飼い犬の頭を撫でるような声で言った。
私は、屈辱よりも、彼女に「扱われている」という事実に、ゾクゾクするような倒錯した快感を覚えていた。
「ま、そんなことはどうでもいいわ」
駒田は、表情を一変させた。
「というか、脚が重要だものね。 …会長派を一掃し、この美脚市場(マーケット)の覇権を握るには、最終的に『ランウェイバトル』が鍵になってくるんですからね」
その言葉に、私は少しだけ我に返った。
『ランウェイバトル』。
組織の中で、何度も耳にする言葉。
アトランティスの現会長も、名誉会長も、誰も彼もが、その「戦い」の勝敗に固執している。
「なあ、魔美君」
私は、以前から抱いていた疑問を、正直にぶつけてみた。
「…ランウェイバトルの真の重要性を、教えてくれ」
「真の重要性?」
「ああ。私は、まだ理解できないんだ」
私は、両手を広げた。
「邪魔な奴がいるなら、都合が悪くなれば、プロの殺し屋を雇って『暗殺』すればいいじゃないか? あるいは、政治的な圧力や、資金力で社会的に抹殺すればいい。 …それなのに、なぜ我々の組織は、女たちにパンストを履かせてステージを歩かせる『ランウェイバトル』に、これほどの価値を見出しているのか?」
私は、駒田の目をじっと見つめた。
「ただの、金持ちの余興や、フェティシズムの品評会ではないのだろう? …それより、ランウェイバトルは本当に価値があるのか?」
私の問いに駒田魔美は、長い沈黙で答えた。
彼女は、ハーブティーのカップの縁を、細い指でゆっくりと、円を描くようになぞっている。
その瞳は、暗く、深く、そして圧倒的な「強者」の光を宿していた。
やがて、彼女はふっ、と短く息を吐いた。
「…ええ。じゃあ、今からランウェイバトルの重要性を、お話ししますわ、河野さん」
彼女の声は、先ほどまでの「美魔女」の甘さではなく、 冷徹で、残酷な、美脚市場の「闇の住人」としての響きを持っていた。
「なぜ、弾丸ではなく、『脚』なのか。 …その恐ろしさを、あなたにも理解していただきます」
テーブルの下で、彼女のエナメルのピンヒールが、私の革靴のつま先を、コツンと軽く踏みつけた。
背筋が凍るような、しかし甘美な震えが、私の全身を貫いた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」春風の章・第二話:黒いヴェールの密会と、美脚の真価 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
