境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百九話:ブラッドオレンジの絶望、理系エンジニアの奥義再生
(視点:渡辺菜々)
冷たいクリスタルのランウェイステージに、張り詰めた空気が漂っていた。
純白の光の海の中、ついに私たちと五億の怪物たちとの直接対決が幕を開けようとしていた。
まずは、お姉ちゃんが、深紅(クリムゾンレッド)のアシンメトリーなタイトドレスの裾を揺らし、黒のエナメル・ポインテッドトゥパンプスのヒールを高く鳴らして、ステージの上へと上がっていった。
私と美桜ちゃんは、フロアに残り、固唾を呑んでその様子を伺った。
五億という絶望的な脚値を持つ創薬研究員、渡辺恋音(れもん)と渡辺蜜柑(みかん)。
そのうち、お姉ちゃんの対戦相手としてステージの反対側の端へと歩を進めたのは、ショート丈の白衣ジャケットに黒のタイトなレザースカートを合わせ、五デニールの『ブラッドオレンジ』のストッキングを履いた双子の妹、蜜柑さんだった。
純白のロングコートドレスに身を包んだ姉の恋音さんは、私や美桜ちゃんと同じように、フロアに残って静観の構えをとっている。
ステージの両端。
深紅のドレスと、ブラッドオレンジの脚が、静かに、けれど激しい火花を散らして対峙した。
「おおー、震えてんじゃねーのかお前、ビビってんのか?」
蜜柑さんが、キャットアイの目元を意地悪く歪め、ダークチェリーの唇から下品な挑発を投げかけた。
彼女の黒のレザーショートブーツのピンヒールが、クリスタルの床をわざとらしく擦る。
しかし、芸能界の表舞台と裏社会の闇の両方をくぐり抜けてきたお姉ちゃんが、その程度の安い挑発に乗るはずがなかった。
「ふん。馬鹿はどこまで行っても馬鹿だな」
お姉ちゃんは、深紅のドレスの深いサイドスリットから五デニールのシアーブラックの脚をスッと前に出し、氷のように冷たく笑い返した。
「お前の脚値にビビるわけねーだろ? 五億だっけ? 頭は紛れもなくゼロに近いけどな」
「なんだと……っ」
お姉ちゃんの強烈な切り返しに、蜜柑さんの眉がピクリと不快げに跳ねた。
「言うじゃねーか、芸能人。相手を見てから挑発しな。行くぞ」
蜜柑さんは、短い怒りの言葉を吐き捨てると、黒のショートブーツで床を蹴り、ステージの中央に向けて歩き出した。
お姉ちゃんもまた、負けじと真っ直ぐに蜜柑さんに向けて歩みを進める。
カツン、カツン、カツン……。
二つのヒールの音が、巨大な地下空間に響き渡る。
しかし、フロアから見上げている私には、その二人のウォーキングの「質」の決定的な違いが、痛いほどにはっきりと分かってしまっていた。
(菜々の心:……ダメだ。お姉ちゃんも完璧なウォーキングのはずなのに、あの蜜柑さんの方が、圧倒的に洗練されている……!)
お姉ちゃんの歩き方は、芸能界の荒波で鍛え上げられた美しさと力強さがある。
けれど、蜜柑さんの歩き方には、一切の「無駄」が感じられないのだ。
骨盤の滑らかな回転、重心の移動、ブラッドオレンジのストッキングに包まれた脚の軌道。
その全てが、まるで物理法則を極限まで計算し尽くした機械のように正確で、それでいて生命力に溢れた猛獣のような恐ろしさを秘めている。
「そろそろ出ますよ、あれが」
フロアで私の少し離れた場所に立っていた恋音さんが、アイスブルーのストッキングの脚を静かに揃えたまま、ボソリと呟いた。
その言葉の直後だった。
「行くぜ、奥義『ヴィーナスターン』!!」
蜜柑さんが、ステージの中央の手前、まだお互いの距離が十分にある位置で、突然その場で高速のターンを繰り出したのだ。
黒のレザースカートが激しく翻り、五デニールのブラッドオレンジのストッキングが、地下の照明を乱反射して強烈な光の渦を生み出す。
しかし、そのターンの真の恐ろしさは、視覚的なものだけではなかった。
彼女がターンした瞬間、クリスタルのステージ上に、目に見えない強烈な「香りの突風」が吹き荒れたのだ。
「ああっ……!?」
お姉ちゃんが、思わず顔をしかめて歩みを止めた。
「ヴィーナス開発者の私たちのストッキングにはね、特殊なマイクロカプセル化された『ヴィーナス』の原液成分が、ナイロン繊維の間に直接練り込まれているんです」
フロアにいる恋音さんが、まるで学会で発表するかのような冷徹な声で解説を始めた。
「ターンによる強烈な摩擦熱と遠心力で、そのカプセルが弾け、気化したヴィーナス成分がステージ上に散布される。……視覚の暴力だけではない、呼吸器と皮膚からも直接相手の快楽中枢を侵食する、究極のドラッグ・ウォーキングです」
「……っ!!」
私は息を呑んだ。
蜜柑さんは、『ヴィーナスターン』で自らの周囲に高濃度のヴィーナスの霧を作り出し、そのままの勢いで……。
「からの、『ヴィーナスウォーク』だ!!」
蜜柑さんが、ターンから一転、滑らかなウォーキングで一気に距離を詰めてきた。
ブラッドオレンジの脚が、ヴィーナスの気化したオーラを纏いながら、圧倒的な色気と暴力的なまでの美脚の残像を押し付けてくる。
それは、ただでさえ赤い充血を引き起こすヴィーナスの効果を、何十倍にも増幅させる悪魔の行軍だった。
「あ、がぁぁぁっ……!!」
至近距離でその『ヴィーナスウォーク』と気化した成分をまともに浴びたお姉ちゃんの口から、苦悶の絶叫が漏れた。
深紅のドレスが乱れ、お姉ちゃんの美しいアーモンドアイの白目が、一瞬にして限界近い赤色へと染まり上がる。
たった一撃。
ほんの一瞬の交差で、お姉ちゃんのライフゲージの四分の三が、無惨にも削り取られてしまったのだ。
「お姉ちゃーーーんっ!!」
私は、たまらずステージに向かって悲痛な叫び声を上げた。
私のすぐ隣で、レザーのショートパンツ姿の美桜ちゃんが、ガタガタと全身を震わせ、両手で顔を覆って怯えている。
五億の怪物が放つオーラは、フロアにいる私たちでさえ息の根を止められそうなほどのプレッシャーだった。
お姉ちゃんは、なんとか倒れることだけは免れていた。
シアーブラックのストッキングに包まれた両膝をクリスタルの床につき、両手をベッタリと地面について、荒い息を吐きながら必死に意識を繋ぎ止めている。
しかし、誰の目から見ても、もはや反撃する余力など一ミリも残されていないことは明白だった。
「ま、これが実力差だ。相手が悪かったな、芸能人」
蜜柑さんが、お姉ちゃんの横を通り過ぎた後でゆっくりと振り返り、ダークチェリーの唇を歪めて嘲笑った。
「くっ……はぁっ……はぁっ……」
お姉ちゃんは床に這いつくばったまま、悔しげに呻くことしかできない。
「悪いがトドメだ」
蜜柑さんは、少し後退した位置から、再び黒のショートブーツで床を蹴り、お姉ちゃんに向かって『ヴィーナスウォーク』で歩き出した。
そして、倒れ伏すお姉ちゃんの視界が最も強烈にダメージを受ける、その歩みは『クリティカル距離』でピタリと止めた。
「これで終わりだな」
蜜柑さんは、冷酷な宣告と共に、自らのブラッドオレンジの脚を、あり得ないほどの深さで交差させた。
「奥義『クロスヴィーナス』!!」
それは、究極の『X(クロス)』を描くポージングだった。
両脚を極限までタイトに交差させ、黒のレザースカートの裾を両手で軽く持ち上げる。
五デニールのブラッドオレンジのストッキングが、筋肉の収縮によって限界まで引き伸ばされ、その奥にある生々しい肌の質感が、ヴィーナス成分の揮発した蜃気楼の中で妖しく揺らめく。
血液の赤と、オレンジの果実のようなフレッシュさ、そしてレザーの漆黒。
その全てが完璧な黄金比でブレンドされた視覚情報の束が、お姉ちゃんの脳の処理限界を完全に突き破った。
「ア……アァァァァァァァッ……!!」
お姉ちゃんは、床に手をついたまま、天を仰いで絶叫した。
そして、赤い充血が限界を超えた瞳から光が消え、そのままクリスタルの床へと糸が切れたようにバタンッと崩れ落ちたのだ。
完全に、意識消失。
二億八千万のプライドが、五億の創薬研究員の前に、手も足も出ずに打ち砕かれてしまった。
「お姉ちゃん……っ!」
私は、自分の唇を噛み破りそうになるほど強く噛み締めた。
「おい、そこの二人。次はどっちだ? 上がって来いよ」
蜜柑さんが、ステージの上からフロアにいる私と美桜ちゃんを見下ろし、挑発的に手招きをした。
「ひっ……!」
美桜ちゃんは、恐怖で顔を真っ青にさせ、ヌードベージュの脚をすくませて、その場にペタンと座り込んでしまった。
「い、嫌です……! あんなの、絶対に無理です……!」
無理もない。
未成年の彼女に、あんな化物と戦えというのは酷すぎる。
(菜々の心:……怖い。怖すぎる。でも、怖いなんて言ってられない。私がいかなきゃ、お姉ちゃんがこのまま教団の奴隷にされちゃう。美桜ちゃんのためにも、私が蜜柑さんと戦わなきゃ。……負けてもいい。でも、絶対にただでは負けない!)
恐怖でアイボリーのブーツを脱いだピュアベージュの足が震えていたけれど、私の心の中にあるエンジニアとしての、そして妹としての意地が、自然と私の脚を前へと押し出していた。
私は、エメラルドグリーンのオフショルダー・ミニドレスの裾を握りしめ、ゆっくりとステージの階段を上り始めた。
「お、いい度胸だな~」
ステージに上がった私を見て、蜜柑さんが面白そうにキャットアイを細めた。
「妹の方は少しは骨があるのか? 手加減だけはするから、心配するなって」
舐めきった言葉。
でも、私は感情的にならなかった。
「全力で来てください」
私は、真っ直ぐに蜜柑さんを見据えて、静かに、けれど強い意志を込めて言い返した。
(菜々の心:私は、お姉ちゃんに比べればタレントとしての評価も低いし、基礎のウォーキングやターン、ポージングなどの『魅せる技術』は圧倒的にお姉ちゃんより劣っている。……でもね、頭脳(スペック)は圧倒的に私の方が上なのよ。シタックスの最高機密を管理する、チーフエンジニアなんだから!)
私は、自分の武器が何であるかを、誰よりも理解していた。
美脚の暴力で勝てないのなら、理系の頭脳と、現代のテクノロジーで盤面をひっくり返すしかない。
私は、蜜柑さんに向かって歩き出すのではなく、まずはステージの中央で倒れている、お姉ちゃんの方に向かって歩き始めた。
「……ん?」
蜜柑さんが、怪訝そうに眉をひそめる。
私は、ヒールの音を完全に消し、気配を断つ特殊な歩法へと移行した。
お姉ちゃんと一緒に磨き上げてきた、隠密歩行。
『シャドーウォーク』。
「おお? いいね~、お前もそれ使えるのか」
蜜柑さんは、私のシャドーウォークを見ても全く驚く様子はなく、むしろ余裕の笑みを浮かべて見下物でも見るように立っている。
彼女の目には、私の行動がただの無駄なあがきにしか見えていないのだろう。
私は、シャドーウォークで気配を消したまま、倒れているお姉ちゃんのすぐ隣まで到着し、そこにスッと片膝をついた。
そして、私はエメラルドグリーンのドレスの隠しポケットから、私の最大の武器である『スマートフォン』を取り出した。
「いきますよ……奥義『再生(リブート)』!!」
私は、スマートフォンの画面を操作し、事前に仕込んでおいたある特定のアプリを起動させた。
そして、スマートフォンのスピーカーの音量を最大にし、倒れている姉さんの耳元へと近づけたのだ。
ポロロン……、ポロロ、ロン……。
不協和音スレスレの、耳の奥に直接張り付くような、不気味で呪術的なピアノの旋律。
「……っ!!」
その音を聞いた瞬間、フロアにいた恋音さんの顔色がサッと変わった。
「しまった、蜜柑! 彼女、教団の『ヘルツ』のアプリの周波数をハッキングして、スマホにコピーしていますよ!!」
恋音さんの叫び声が響く。
そう、私は教団のアプリの音波の周波数を、エンジニアとしての知識と、私のスマホに搭載されている解析ツールを使って、密かに録音し、完全に解析・再現していたのだ。
教団のドールたちを強制的に覚醒させる、禁断の周波数。
「ヴィーナスの効果による気絶は、脳の快楽中枢のショート。ならば、この強制的な電気信号で神経をバイパスすれば、肉体だけは再起動できる……。ヴィーナスの特性とシステムを理解していれば、これくらい簡単なことです!」
私が言い放った、その直後。
「あ……あぁ……」
倒れていたお姉ちゃんの、シアーブラックに包まれた脚がビクッと痙攣した。
そして、お姉ちゃんは白目を真っ赤に充血させ、口からうっすらと涎を垂らしたまま、まるでホラー映画のゾンビのように、ギクシャクと、関節の不自然な音を立てながら、ゆっくりと立ち上がったのだ。
「嘘だろ……!?」
蜜柑さんが、ついにその余裕の表情を完全に崩し、驚愕に目を見開いた。
「あいつ、ヴィーナスの特性を完全に理解してやがる……!」
蜜柑さんが、ギリッと歯を食いしばる。
自我を失い、リミッターが完全に外れた『ゾンビ状態』の姉・和香。
そして、その姉を『ヘルツ』の音波で操る、理系エンジニアの妹・菜々。
「さあ、反撃の開始です。……お姉ちゃん、やっちゃって!」
私の指示に呼応し、ゾンビと化したお姉ちゃんが、ロイヤルブルーのドレスを不気味に揺らしながら、恐ろしいスピードで蜜柑さんへと突進を開始した。
五億の創薬研究員に突きつけた、理系の頭脳による盤外戦術。
絶望のランウェイステージで、私たちの命懸けの反逆が、今、再び炎を上げた。
(境界線上の視線・「偽りの春編」静森の章・第百九話:ブラッドオレンジの絶望、理系エンジニアの奥義再生 了)
本作に登場する人物、団体、地名、事件等はすべて架空のものであり、フィクションとしてお楽しみください。実在のものとは一切関係ございません。また、本作はAIとの共同作業により制作されました。
